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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(6)情報さまざま

 ア 電話普及率日本一

 「戦後しばらくは、1時間おきの無線電話での通話に頼っておりました。昭和31年(1956年)に初めて海底ケーブルによる伯方(はかた)島からの電話が開通し、時間に関係なく電話をかけられるようになりました。しかし電話の数が少なく、大変不便をしていました。
 昭和33年には、役場、郵便局、駐在所に3本の電話がありました。しかし郵便局の電話は、午前9時から午後5時までしか受け付けず、近所の人以外は呼び出してもらえませんでした。このため役場の電話が、集中的に使われました。夜になると、仕事を終えて島外に電話をかける人が集まって、夜遅くまで何人も順番待ちをしていることも珍しくなかったのです。宿直員は電話番をしながら、料金徴収もしなければならず大変でした。ときには、真夜中に急用の電話がかかってきて、放送で呼び出すわけにもいかず、その家まで知らせに行くこともありました。役場の宿直に村中が頼っていたのです。
 電話増設の陳情をしましたが、はじめは「魚島に20台の電話機をつけた場合、海底ケーブルと工費などで1台につき約100万円の負担・・・」と冷たい返事でした。そこで電話架設促進協議会を結成し、関係各方面に強く働きかけた結果、昭和45年 (1970年)に174台の集団電話が完成したのです。そして昭和48年に54台が増設され、自治体の電話普及率が日本一になりました。さらに昭和57年(1982年)には集団電話から普通電話への一斉切替えが行われ、都市並の通話が出来るようになったのです。」
 
 イ 魚島テレビ

 「早くからテレビを入れていたのは、集会所と学校でした。個人の家にテレビが入り始めたころ、紅白歌合戦を見るのにあまり大勢押し掛けたので、座が抜けたこともありました。他の家には昼の電気がこないため、あまり入っていませんでしたが、東京オリンピックのときから、ぼつぼつ入り始め、昭和43年(1968年)の海底ケーブルでの電気導入によって、一斉に各戸にテレビが入りました。ただ屋上のアンテナで見ると、中国地方の映像しか受信できないので、昭和47年(1972年)に全戸に共同受信施設を設置したのです。これでやっと愛媛県の映像を見ることが出来るようになりました。
 昭和56年(1981年)にはこの受信施設を利用して、魚島テレビを開局しました。お茶の間で5チャンネルに合わせると映像が村中に流れるシステムです。行政からの幅広い情報の伝達などが行われているのです。」

 ウ 新聞など

 「ラジオやテレビの普及に比べて、新聞の購読率はあまり高くありません。昭和50年(1975年)ころで45%、平成19年(2007年)では33%となっています。漁業を主体とする生活から、天気概況などの情報聴取が重要なポイントとなるため、伝達機能の高く、早いラジオ、テレビに集中しているのかもしれません。また最近の若い人はインターネットで、各紙のニュースを朝早くから見ているなどとも聞きます。各種の新聞を一人の配達人が、朝の9時ころに配っております。」