データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(4)水の確保

 ア 水汲みは主婦と子ども

 「島は山が高く、面積が小さいうえに、お椀を伏せたような形をしているので、雨が降ってもそのまま海に流れ込む量が多いため、島に水をたくわえる力が少ないのです。年間降雨量も少なく、昔から生活用水にはずいぶん悩んできたのです。家庭にはどの家にも水がめが備えてあり、この水がめを満水にするのが一家の主婦の仕事でもありました。
 主婦だけでなく子どもたちも、井戸の水汲(く)みが仕事になっていたのです。ところが朝早く汲みにいっても、夏場には井戸の底に溜まった水の高さが、つるべの高さに満たないことがしばしばありました。そこで大きい缶詰の缶をつるべのかわりにして、水を汲んだこともあるのです。
 私の家はずっと上の方にありましたから、小学校の3年生くらいのころは、バケツで下の井戸から運び上げておりました。ところが中学校1年生くらいになると、ニナイといって、一斗くらい入る一対の桶(おけ)をサスの前後に担い、運ぶようになるのです。さらに中学校3年生くらいになると、サスを使わずに下げて運ぶようになるのです。」

 イ 水不足と水の買い入れ

 「たびたび水不足が続きましたが、昭和31年(1956年)にも深刻な水飢饉にみまわれました。水源池の水が底をつき、2時間給水となり、みんなが悲鳴をあげました。そこで翌32年に簡易水道を設置しました。しかしあまり効果はなく、1週間に2、3回、時間にしてわずか数時間の時間給水で、住民のほとんどは共同井戸や天水を利用したり、自家用の貯水タンクを使用しておりました。
 始めて給水船を魚島港に入港させ水を購入したのは、昭和50年(1975年)4月で極端に水が不足していたときでした。80tの配水タンクはもとより、村有井戸にもこの水を入れました。購入水量は260tでしたが、村はじまって以来初めて水を買って給水したことで、住民からは非常に喜ばれました。トン当たり約400円でした。また珍しいということで、新聞やテレビにも紹介されました。
 そして昭和49年から建設にかかっていた貯水タンクが、昭和50年5月に完成しました。魚島港内の海中タンクによる給水施設で、珍しいもので、貯水能力は260tでした。さらに昭和51年には、400tの地下貯水タンクも完成し、週4日は確実に給水できるようになりました。
 また縦穴・横穴のボーリング20本、井戸5基の工事などをして、日産40tの水の汲み上げができることになりました。昭和53年からは生活用水をほとんど購入しなくても、給水ができるようになったのです。しかしのり加工のための産業用の水は、三原市から恒常的に購入した水を利用していました。」