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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(1)渡海船

 「島の人々の生活用品の運搬を専門に行っていたのが、渡海船でした。『トーカイ』の名で呼ばれ親しまれておりました。天狗(てんぐ)丸、八幡丸、えびす丸などがありましたが、大正から平成まで活躍したのは、船主三代、船六代の天狗丸(20トン)でした。
 渡海船は人や品物を輸送するだけでなく、それぞれに得意先をもち、船主が商店や個人から注文を受けて、その品々を今治で買いそろえて持ち帰っていたのです。だいたい前日の夕方までに口頭や電話で注文を受けて、翌朝6時半に島を出て、高井神島や四阪(しさか)島でも注文をとり、2時間あまりかけて今治へ着くのです。
 渡海船は尾道航路からスタートし、後に今治航路に変更しました。尾道へ行く方が、瀬戸内海を南北に横切るかたちになり、東西に流れる潮に逆らうこともなく、都合がよかったのです。しかし太平洋戦争が始まり、米が配給制度になり、県内の今治で積み込むことになったため、航路も今治に変わりました。
 今治で買い物や頼まれたことをすませて、午後1時半ころに今治をたって、夕方には島へ帰ってくるのです。それから注文品を配って廻わり、天狗丸の一日が終わるのです
 昭和34年(1959年)から天狗丸は、魚島一今治間を定期的に毎日運航しておりました。今治へ行くには、弓削(ゆげ)島経由よりも速いので、渡海船を利用する人も案外多かったのです。今治の高校へ進学する生徒も増え、就職などで今治に住む人も多くなっておりました。客の定員は12名でした。」