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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(1)行商さまざま

 ア 物々交換のころ

 「行商のことの起こりは高知からでした。現在は移動スーパーとして、車で回って来られます。二人で来ておりましたが、売り買いの基本は物々交換でした。農家も日常の現金収入はなかったので、ダイズ、アズキ、コウゾ、ミツマタなどの農産物、林産物を水飴(みずあめ)などと交換していたのでした。コウゾやミツマタの一級品は専門の大商人がまとめて買ってゆきますが、残った等級の低いくずのようなものを、水飴と交換しておりました。後になると魚の干物や焼き魚なども持ってきておりました。当時の道路はバラスを敷いた道路でしたが、自転車をこいでやってきて、それから荷を背負って、枝端の道を廻って商売しておりました。
 もう一組の行商の人も高知からでした。親子できておりました。やはり水飴や魚と農産物、林産物との物々交換でした。覚えておりますのは、いつも持ってきた荷物より大きい荷物をかついで帰っておったことです。そして一日で行ける所は限られていましたから、お得意さんをこしらえてそこへ泊まって、また次の所へ行商してゆくのです。道が大変で今の軽四で入れないようなところですから、荷物を背負ってごちごち歩いてゆくのです。お年寄りがおるところはもちろんですが、若い者がおってもなかなか買い出しに出て来れないのです。昭和30年(1955年)ころまでは物々交換が行われておりました。今はマイクで呼びながら車で移動して廻っております。交通手段のないお年寄りにとっては、なによりのことなのです。
 この東川(ひがしがわ)は峠を越えて、高知の瓜生野(うりゅうの)から池川(いけがわ)町へとつながっていたのです。東川は物流の拠点であったといえるのです。高知の人が直瀬(なおせ)に自分の娘さんの店を出してやり、そこへ物々交換で集めたミツマタやコメを保管させて、ある程度集まると、高知の池川へ運んだのです。当時はコメは統制品でしたので、コメを下積みにして、上にミツマタを山と積んで、夜中に東川を抜けて県境を越えて高知へ運び込んだ経験が何度もあります。県境を境野(さかいの)と呼びますが、昔は峠道でした。今はトンネルで境野隧道と呼んでおります。かっては県道1号であり、愛媛から高知へ行く一番大きい道であったわけです。いわゆる土佐(とさ)街道であったのです。
 もう一つの物流のルートとして、黒藤川(くろふじがわ)は高知の名野川(なのがわ)とつながっており、名野川はコウゾやお茶を久万へ搬入する場所として、非常に重要な意味をもっていたのです。かっての藩政時代に土佐の専売制が厳しかったため、伊予の久万へ荷を送るようになっていたのです。ですから名野川の人たちは、久万が栄えているのは、我々がコウゾやお茶を送っているからだという気概があったのです。また昭和40年ころまで引地橋(ひきじばし)の所は松山と高知の真ん中の休憩地で、お土産物として土佐の産品がびっしり並べられていました。果物やお魚などは今も高知から「安いよう・・・。安いよう・・・。」と売り声を流して、売りにきているのです。お魚は須崎(すざき)からです。高知へ出るのと、松山へ出るのと、この辺りは振り分けなのです。
 高知への三つめのルートは、大洲から小田を通ってくる道で、遍路道でした。真弓(まゆみ)峠を越えてくることから、真弓越えと呼ばれていました。」

 イ 通い帳のころ

 「衣料品なども高知から古手屋さんがきておりました。若い人で天秤棒をかついで、復員してきたのか、兵隊さんの軍服を着ておりました。子どももたくさんいる時代でしたが、着る物などは上から順にお下がりで、三男坊主になると、新しいものは一つもないような状態が普通でした。学校の教科書も全部お下がりでした。鉛筆、画用紙、帳面などの学校で消費するものは、買ってもらいました。
 酒、砂糖、塩などの生活用品は、村内の万屋(よろずや)で買っておりましたが、支払いは現金払いではなく、節季払いで通い帳につけているだけです。ときには節季に払えない者がいることもありましたが、「うちの山のスギの木を何本とってください。」とか「あそこの畑をとってください。」などという始末の付け方もあったようです。
 お薬は富山の置き薬がどの家庭にもありました。行李(こうり)に入れたお薬を背負って毎年、ほぼ同じ時期にやってきていました。地域の宿屋に泊まって、各家を廻るのです。置いた薬の品目を矢立を使ってきれいに書いていたのを思い出します。箱の中の薬を調べて古いのは回収し、使った分の費用を受け取って、その記録を参考にしながら、箱の内容を一新するわけです。宿屋の女将(おかみ)さんの話によると、その日に回収してきた薬は、次の日に行く地区への新薬として使用されるらしく、だからこそ背中の行李一つで長旅ができるらしいのです。今でもこの辺りは置き薬があって、近ごろは農協も参入しています。置き換えの薬はまったくの新品になっています。
 行商とは話が違いますが、この辺りは松山より高知とのかかわりが深いのです。嫁さんも高知から迎えることが多いのです。一つには、愛媛の農作業の方が楽なので、という話を聞いたことがあります。県境を越えると急傾斜地が多くなり、鍬で耕すのも、畑の上の方から下を向いて、土を掘り上げるようにしないといけなくて、逆にすると上が下方へ落ちてしまうなどと、農作業のきつさを冗談交じりに話されていました。また茶畑は多いのですが、水田は非常に少ないので、愛媛のお米に魅力があったからだなどともいわれていました。県境に近い村では、全体が高知弁になっているところもあるのです。高知からのお嫁さんがお母さんになり、その息子さんのところへまた高知から若嫁さんがきて、というようなことが続いたためなのでしょう。」