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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(3)夏柑の黄金時代

 「三崎の年平均気温は16.1°Cで、最寒月の2月が平均6.5°C、最暖月の8月が平均26.7°Cで1年を通じて比較的温暖で、降雪はあっても積雪はほとんどみられません。また年間の降水量は1,569mmで果実の発育に必要な6~9月の4か月間には1,028mmの降水量があるなど、夏柑栽培に好適な気候なのです。そして土壌の中に大小の角礫が軽くつまっており、空気の流通がよく、耕土が深いので夏柑樹生育に好都合なのです。マイナス条件としては、秋の台風と冬の強い季節風による落果の被害ですが、それを防ぐために、スギの防風垣で果樹園を囲んでいるのです。
 明治以来三崎東部一帯に夏柑栽培は急速に広まって行き、産地として全国に知られるようになっていったのです。戦後も夏柑(橙(だいだい))への需要は年々高くなり、普通畑への夏柑新植、販路の拡張と急速な発展期をむかえたのです。昭和26年(1951年)の販路は東京が60%、大阪が40%で翌昭和27年には東京が70%になりました。これは関東方面の市場価格が、多大な輸送費にもかかわらず、関西方面の市場価格より高かったからです。
 急傾斜の段々畑ですから採取後の運搬作業にかなりの時間と労力が必要でした。長らく14~15貫(52.5~56.25kg)の夏柑をカマスに入れて背負って山道を降り、麓(ふもと)から大八車で浜まで運び、船に積み込んでいたのです。
 昭和30年(1955年)ころから、三崎、大佐田(おおさだ)、高浦(たかうら)、松(まつ)などの夏柑先進地で、共同で索道が敷設され、収穫期の労働がずいぶん軽減されるようになりました。持山が隣同士の者でつくるカブという組の者が共同で使用し、使用賃を取っておりました。
 索道で降ろすときの俵は持つところが4か所あり、索道の鈎(かぎ)に引っ掛けるのに都合よくなっているのです。その俵のままで船にも積み込んだのです。俵は2年も使えばだめになり、1年に100個くらいは編んでいたのです。モノレールや自動車が登場するようになると、コンテナを使うようになり、俵は年に30個くらいですむようになりました。
 索道から直接中船(伝馬船のこと)に積むには、索道のワイヤーを海中の岩に固定し、その岩の手前に船を着けて、下りてくる荷を受け取るのです。このときに、山の上にいる者がタイミングよく操作して、ここという位置に荷を留めなければなりません。
 浜から背負い込むにしろ、索道で積み込むにしろ、中船の船頭(仲仕(なかせ))は櫓(ろ)こぎで沖の本船まで運びます。仲仕は各地区にだいたい十人くらいはおりました。荷積みを終えた本船は、港の側の集荷場まで運んで行くのです。
 集荷場ではまず選果して、次に二人一組で、秤(はかり)にかけて、『ええかー・・・あい、どこそこ何貫・・・』と大きい声で計っておりました。シーズン中はその声が辺りにこだまし、活気に満ちていました。計量がすむと、竹で編んだ十貫(37.5kg)籠(かご)に入れて、東京、大阪方面へ出荷するわけです。集荷場のちょっと上の方に、農協の背の高い倉庫があって、そこでは出荷用の竹籠を編む作業をしておりました。
 十貫の夏柑を竹籠に入れて、○みのトレードマークをつけ70~130tの機帆船(だいだい船)で、海路広島県の糸崎(いとざき)港まで輸送します。そこで鉄道の専用貨車に積み替えて、東京、大阪の市場へと送っておりました。
 昭和40年(1965年)ころまでが夏柑の黄金時代で、〝だいだい長者〟が何人も生まれました。三崎の産業、経済は夏柑(橙)によって左右されたのでした。国民のだれもが将来に対して希望をもてたよき時代でした。三崎高校から東京の大学に進み、帰郷して農業後継者となる人もおりました。
 昭和40年以降は新品種の甘夏柑が登場してきました。新品種の植え付けは、イモやムギ畑への植え付けから始まりました。以後夏柑と甘夏柑の両栽培が続きます。甘夏柑が軌道にのりはじめて、果樹農家が甘夏柑の栽培に本腰を入れなければならないと考えだしたときに、サンフルーツが登場してきました。それから所得ゼロの状態が続くようになり、果樹農家は苦境に立たされるようになってしまいました。
 それ以後、巨大な貯蔵システムを持つ西宇和青果農協への加入、トラック便での輸送、三崎集荷場の移転、光センサーの導入など次々と経営改善の努力が行われました。また清見タンゴール、デコポン、ハルカ、ハルミなどの市場価値の高い、新品種の育成などさまざまな試みをしつつ今日に至っているわけです。