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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(2)九四フェリーとメロディーライン

 「佐田岬灯台で象徴される三崎と日鉱精錬所の煙突がシンボルの大分県佐賀関町は、最短距離で海上わずか12kmしか離れていなかったのです。明治時代に海運界の先進だった八幡浜は、近畿と九州を瀬戸内海で結び大変栄えておりました。また以前から大分県には愛媛出身の人が多数[昭和40年(1965年)現在(約20,000人)]居住しております。このように地理的にも血縁的にもつながりの深い両県が交通連絡を望むのは当然のことといえます。
 昭和32年(1957年)に『九州-四国の最短距離を最短時間で結ぼう』ということで、愛媛、大分両県の地元に九四連絡道路促進期成同盟が誕生し、地元と県が協力して強力に運動が始められたのです。両県の産業、経済、交通の開発を目的にするとともに、広域開発計画である中国、四国、九州を結ぶ中国、四国、九州連絡道路、近畿、四国、九州を結ぶ南日本国道の一環としても脚光を浴びたのです。その成果として昭和37年には大洲-大分線の2級国道昇格が決まり、38年(1963年)から施工されました。
 2級国道大洲-大分線のうち、大洲三崎間の延長は75.3kmでそのうち改良ずみは8.6kmでした。舗装ずみは13.5kmで17.9%にすぎなかったのです。特に八幡浜-三崎間は道幅が3~4.5mと狭い上にカーブが多く、大雨でたびたびくずれ、不通になる難所でした。バスで3時間かかり、船に比べて20~30分遅いという状態でした。
 そこで県の道路課では昭和41年度までに3億8,000万円をかけて、道路の改良に着手し、さらに総事業費約47億円で第二次事業に取り組んだのです。この改良・バイパス工事が当初の計画より大幅に遅れてしまいました。その間、昭和44年(1969年)には三崎-佐賀関間の九四フェリーが、はなばなしく大きな期待のもとに運航を開始したのです。しかし道路状況は狭小で、アップダウンが激しくて、離合もままならず、『こんな道走れるかい。』ということで、たちどころに利用客が激減したのです。国道197号は酷道一九七号で『危ないから、イクナ。』といわれたものです。利用客が少ないと悪循環の至りで、ちょっと時化(しけ)るとすぐに欠航するし、車1台もなしで、旅客3、4人の貸し切り状態での出航などがよく見られたのです。当初2船で一日6便運航されていたフェリーボートも、昭和47年(1972年)には一日1船3便となりました。そして昭和63年(1988年)には民営化されました。
 昭和62年(1987年)佐田岬頂上線(メロディーライン)が開通しました。昭和47年度から15年間にわたる工事で、工事費は約410億円かかる大規模なものでした。八幡浜~三崎間が54.4kmから38.9kmとなり車で50分と半分以下に短縮されました。状況は改善され、汚名を返上し、フェリーの利用客もどんどん増え、供給態勢を整えれば需要はついてくる、あるいはその逆かもしれませんが、平成14年からは一日16便、3隻で運航されるようになりました。新しい3隻目の船は、波が激しいので揺れ防止のアンチロール機構を備えた最新式のものです。今でこそ人口は往時の三分の一(4,000人)になってしまいましたが、西の玄関口としての三崎を、印象的に活気づけているのが、このフェリー航路なのです。別府航路とか臼杵航路などもありますが、やはりここが人と物の流れの一つの拠点だろうと実感しているのです。
 日本一細長い半島の頂上を走る快適な道路という評判から、多くのドライバーやライダーが訪ねてくるようになり、ゴールデンウィークなどは港からずっと三崎高校の下まで車で埋まってしまうほどです。お盆のときは、帰省客と観光客の両方で、車の置き場に困るような状況を呈しているのです。
 以前は病院でも買い物でも生活にかかわるさまざまな用事で別府に出かけておりました。この道路ができて、松山も近くなり、長浜経由でほんの2時間足らずで行けるようになりました。若者は休日には大洲、松山へ行きます。漁家も農家も軽トラでちょいと用事をすましに出かけます。じいちゃん、ばあちゃんも体調が悪ければ、大洲や松山の病院へ連れて行くようになりました。やっと県都松山を身近に感じ、愛媛県人であることを実感しているところです。
 もちろん道路ができたことの負の部分もないわけではありません。地元の購買力が減少し、小さい雑貨店などの旧来の小売りが難しくなりました。スーパーなどの町外資本や移動販売の店などが入ってくるようになり、待機型の経営が存立を問われるようになってきているのです。」