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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

2 港町今昔-伊方町三崎-

 西宇和(にしうわ)郡伊方(いかた)町三崎(みさき)地区は、わが国で最も細長い半島として知られている佐田岬(さだみさき)半島の先端に位置し、東が同町瀬戸地区に接しているほかは、北は伊予灘、南は宇和海、西は豊予(ほうよ)海峡と三面が海で囲まれている。面積34.13km²、地区内最高峰伽藍(がらん)山(標高414m)を頂点とした山脈がほぼ東西に起伏して走り、山が多く平地はわずかであり、山頂付近まで段畑として開墾されていた。海岸はリアス式で港湾、海浜に富み、気候は温暖である。
 地区の主要産業は農業と漁業である。明治期に山口県から導入された夏柑によって果樹園化が進み、昭和32年(1957年)には栽培面積750ha、生産量10,000tに達し、県下一の夏柑産地となった。しかし昭和40年代には消費者の嗜好(しこう)変化と競合果物オレンジの輸入化によって低迷し、イヨカンなどの高級雑柑への転換を余儀なくされている。
 漁業は海女(あま)によるアワビ、サザエの採取やブリの一本釣りなど鮮度の良さが売り物の沿岸漁業が中心となっている。また佐田岬の先端の灯台と大島の間には、昭和43年(1968年)に蓄養池もでき、採取したアワビ、伊勢エビなどを蓄養して出荷している。
 昭和20年代までは交通の主役は船であり、陸路のバスが大きな役割を果たし始めたのは昭和30年代以降のことである。それでも当時は斜面にへばりつき、曲がりくねった狭い国道をおよそ2時間もかかって半島の付け根から先端までバスが走っていた。
 三崎港は昭和28年(1953年)に港湾法によって地方港湾に指定され、以来港湾整備計画にもとづき港湾整備が開始され、昭和32年度(1957年)に三崎港桟橋が築造され、昭和35年(1960年)に愛媛県が港湾管理者となった。昭和44年には国道九四フェリーが三崎-佐賀関間に就航した。しかし国道197号の改修工事が遅れ、フェリーの利用状況はかんばしくなかった。
 そして昭和54年(1979年)に国道197号バイパスが一部開通し、さらに昭和62年(1987年)の佐田岬頂上線(メロディーライン)開通によって、八幡浜から三崎までが50分に短縮された。海路と船中心の交通体系が道路と車中心の交通体系へと大転換したわけである。新たな交通体系の整備とともに人々の暮らしが大きく様変わりしつつある。また紺碧(こんぺき)の空を背にした佐田岬灯台、天然記念物アコウ樹など全国一細長い半島美を活用した観光産業にも活路を見いだそうとしている。
 三崎港を中心に港町の物流について、**さん(昭和24年生まれ)と**さん(昭和26年生まれ)から聞き取り調査をした。