データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(3)材を運ぶ

 「集材作業によって山土場に集積された木材を、常設的な施設によって、市場または他の運搬機関の中継点まで運搬することを運材といいます。その運材施設は地形や運材の方法によって異なり、起点の場所もいろいろなので、集材と運材は区別しにくいのです。
 旧肱川町では、この鹿野川橋の所が大きい中継点であったのです。ここの本道(昔の大洲行き道路)までは、山から下ろした丸太を、馬車または猫車の大きいもので運んできていました。ここで川へ入れるものと、車に積むものに分けていたのです。川へ入れるものは、長浜まで筏で流して行きます。筏は一度にトラック4、5台分の多量の木材を運べるので長らく続けられました。ただし坂石(さかいし)や鹿野川から長浜まで三日前後かかるのが問題ではありました。長浜にはそれを受け入れる大きい貯木場が整備されていました。大型の馬車に積むものは、本道を下って大洲の製材所まで運んだのです。大洲は中間地で船を着けても製材所まで上げる設備ができていなかったのです。
 戦後も一時期までは川だけでした。昭和25年(1950年)くらいから。わずかでしたがトラック便が始まったのです。私自身も27年に、トラックで木材や炭を運ぶ手伝いをしたことがありますが、その車は木炭車でした。木炭と木炭にする原木を木炭の太さに切った物を混ぜて、蒸し焼きにしてガスを発生させて、エンジン燃料としたものです。ガソリン不足から生まれた速力の劣る代燃車です。荷を積んでいる間、『おまえこれ回しよれ。』ということで、送風機を回し続けて火を熾(おこ)したこともありました。当時は個人で車を持って、運送業をしている人はおりませんでした。日本通運の大洲支所から来ていました。森林組合も一般の業者も、日通の車をチャーターしてきておりました。道も改良されて車も良くなって、昭和30年(1955年)ころからトラック運送がだんだん発展してきたのです。
 クレーンの付いたトラックが登場したのが、昭和50年ころだったと思います。積み込み作業が大変で、必ず3人で1日がかりでした。下ろすときは鳶口(とびぐち)を使って、1本ずつ下ろしておりました。マツは県森連の松山木材市場へ、スギ・ヒノキは大洲製材へ送っておりました。県森連の大洲市場ができてからは、マツも大洲へ送るようになりました。時代によって順次輸送体系が変わってきたのです。」