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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

1 大洲市肱川の木材の流通

 大洲市は県の中西部にあり、周囲を山に囲まれた大洲盆地が中心である。中央部を肱川(全長102.77km)が東南から北西にかけて蛇行しながら縦断している。流域の年間降水量は1,600~2,000mmと多く、水資源や林産資源を支えている。
 豊かな水量をたたえ、四国の瀬戸内側では唯一の可航河川としての条件を整えていたので、明治末期から大正にかけての道路の開通までは、上流の奥地から河口の長浜(ながはま)を結ぶ唯一の交通路として生活物資や農林産物を運ぶ川舟(帆掛け舟)や木材運搬の筏(いかだ)が往来し、流域の人々の生活を支えてきた。
 この川が人々に与えた最大の恵みである舟運は、昭和初期まで続いた。即ち、上流の坂石(さかいし)や鹿野川(かのがわ)からは、カシ、シイの用木や木炭などの林産物が運ばれ、中流の大洲盆地からは穀物、野菜、繭等の農産物が河口の長浜へ積み出された。長浜からの上りは、肥料・塩・酒・醤油(しょうゆ)・砂糖などの生活雑貨が川上の村々まで運ばれたという。しかしこの舟運も大正13年(1924年)の大洲-鹿野川(かのがわ)間の県道開通をきっかけに衰滅することとなった。
 また明治時代になってから、木材需要が急増し、筏流しによる木材運搬が盛んになっていた。これにともない肱川河口の長浜(ながはま)港は、三重県の新宮(しんぐう)、秋田県の能代(のしろ)とともに木材の一大集散地となった。最盛期は明治後期から昭和の初期にかけてで、毎日平均三十流れほども下ったといわれている。しかしこの隆盛をきわめた筏流しも、鉄道やトラックなどの競合する陸上交通機関の出現と、それにともなって製材所が各地に立地したことにより、しだいに衰退していくこととなった。明治36年(1903年)に大洲-長浜間に県道が、翌年に大洲-内子間に国道が開通した。さらに大正7年(1918年)には大洲-長浜間、同9年には大洲-内子間に愛媛鉄道が開通し、舟運はもちろん筏流しにも決定的な打撃を与えた。それでも重量と容量のかさばる木材の筏流しは、舟運が消えてから約30年後の昭和28年(1953年)まで肱川を舞台に続けられた(①)。
 主として戦後の旧肱川町の木材の流通について、旧喜多(きた)郡肱川町森林組合長**さん(昭和6年生まれ)から聞き取り調査をした。**さんは、若いときから肱川流域の林業の発展に尽力してこられた方である。かつて昭和43年(1968年)に森林組合職員連盟全国大会において、肱川林業の未来像と題して意見を発表し、物流関連では、機械化、協業化の林業を進めるための生産林道開設の重要性を主張され、一位表彰を受けられた方である。