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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(3)変わる人々の生活

 ア 昔のくらし

 「一般的に買い物は、船で宇和島に行っていました。宇和島からは行商の人も来ていました。パンやサトイモ、反物など遊子にないものを売っていました。藩政時代から明治ころまでは、遊子からも木綿の反物を宇和島に売りに出ていたようです。当時は各家に1台は機織(はたおり)機を持っていました。私の家にも機織があり、母親が上手に織っていたのを覚えています。大正ころまで家で普段着る服は、自分方で織っていたようです。
 結婚は恋愛結婚もありましたが、戦争が終わって一時期までは親同士や親戚が相談したり、中に入って世話をする人がいました。主に遊子村内で嫁をもらいましたが、遊子に比較的近い三浦、下波、九島(くしま)など沿岸部の人も多く、特に下波から嫁に来る場合がけっこう多かったです。他の浦からの嫁入りは、道具を船に積んでやってきました。
 生活用水は、山財(さんざい)ダムから送水(昭和60年)されることになりましたが、それまでは各浦の共同井戸を使っていました。水ヶ浦では昭和10年に北宇和郡で最初の上水道が作られました(水ヶ浦はかつて『水荷浦』と書き、昔から水に乏しく、遠路水を荷(にな)い運んでいたという意味でつけられた名称という。)。甘崎は共同井戸が二つあったうえ、各家にも打ち貫きや井戸がありました。水質も良く、遊子の中で特に水に恵まれていました。番匠、明越も水に恵まれていました。これは背後に比較的大きな山や谷があるからです。水ヶ浦や魚泊などは背後の山や谷が小さいため、水の便は悪かったです。水ヶ浦は早くから上水道はできましたが、水源地の水は少なく、朝晩くらいしか給水できませんでした。
 主食はイモでしたが、昭和40年代にやっとシャゲムギ(押し麦)に変わりました。それまではカンコロ飯(サツマイモの切干飯)で、これがけっこうおいしかったです。このへんでは、ヒラ飯、カンコロ飯両方とも言います。カンコロ飯は五つも六つも呼び名があります。ヒラ飯(ほとんどの場所)、オタ飯(甘崎あたり)、デシコシ飯(下波)、ツメ飯・イモ飯・カンコロ飯(広範囲)などです。米の飯はめったに食べられず、シャゲムギと米を混ぜて食べるぐらいでした。」

 イ 漁業と段畑

 「私は6、7歳から漁の手伝いで船に乗りました。漁業の盛んだったころは子どもも手伝いで夜船に乗ったのです。そのため学校では授業中寝てしまいます。先生も事情がわかっているので起こさずに授業を進めてくれました。
 私は昭和42年にハマチ養殖を始めました(遊子では昭和38年からハマチ養殖始まる。)。できたハマチは船で別府に運びました。別府のほうが宇和島や八幡浜よりたくさん売れたのです。それでも生活はまだまだ楽にはなりませんでした。
 子どものころから段畑の石垣の石を運ぶ手伝いもしました。積み上げるのは自分たちでやっており、年長者のやるのを見て覚えました。石垣は現在雑草や木で隠れて見えないだけで、水ヶ浦だけでなく、どこにもあります。段畑でイモを担う棒は、長さが1尋(ひろ)(約180cm)です。両手を広げて、両手のひらに棒が入る長さが大体一尋で、これ以上長かったら坂の斜面にユグリ(物を運ぶわら製の道具。ふご、もっことも呼ぶ。)の底が当たるし、それより短ければわき腹にユグリが当たるため、自分の身体に合わせた棒を作りました。イモ掘り時期には、段畑を走って上り下りしました。きついのはきついのですが、慣れたらそうでもありません。まあ今の若い人には無理でしょう。若いときにこうして身体を使っていたから、今でも健康です。しかし重たいものを担いだので背は伸びませんでした。若いときには肩に重い荷物を担いでできたこぶがありましたが、今はひっこんでいます。
 昭和40年ころの写真を見ると、海岸に道路が走り、海には真珠の養殖いかだ、段畑にはバレイショとミカン畑がみられます。灌漑(かんがい)はしなくてもイモや麦はそこそこ育ちました。昭和37、38年ころから40年ころにかけて段畑でミカンが作られ、広まりました。ミカンは温州ミカンですが、この当時は夏柑(なつかん)もけっこう作っていました。肥やしは下肥を昭和30年ころまで持って上がっていました。ミカン山も真珠やハマチ養殖が良くなるとほったらかしになりました。」
 
 ウ ねずみとの戦い

 昭和20年代から30年代にかけて、宇和海周辺ではネズミが大量発生した。昭和24年(1949年)戸島に大量のドブネズミが発生し、少し遅れて日振島、同26年には蒋渕へ波及し、次々と半島部で異常発生した。戸島、日振島の被害は激甚であり、一時「島を立退かねばならぬ。」とまで言われるくらいだった。徹底した防除により一時減少するが、昭和29年に遊子村を中心として再び異常発生し、半島部一帯や宇和島市九島などの島嶼部で農水産物に惨憺(さんたん)たる被害を及ぼした。当時は夜間通行中にでも、ねずみが足の甲を走るという有様であった。遊子では段畑で栽培している麦やサツマイモ、浜に干してあるイリコなど農水産物の被害は、昭和30年度に700万円以上にのぼった。これに対し、「宇和島海岸地方鼠(そ)族駆除対策委員会」が結成され、関係市町村が住民一丸となってネズミ駆除に当たることになった。遊子でも昭和31年には1尾2円の奨励金をつけ、村全体でネズミ駆除にあたった。捕鼠器の貸与が行われたほか、毒餌(えさ)での一斉駆除が行われ、遊子村では昭和30年度9回の一斉駆除で推定12万匹余のネズミが駆除されたという。宇和海一帯で昭和25年から昭和36年までに駆除されたネズミの合計は86万匹以上にのぼる(⑮)。ネズミにとって段畑には麦とイモ、浜にはイリコがたっぷりとあり、芋つぼやヨシ竹の防風垣、石垣など住みかも豊富で天敵がいないこの地域は天国であった。昭和30年代後半から出稼ぎ者や離村者が増加し、イワシに代わり真珠母貝養殖やハマチ養殖が主要産業になると段畑は少なくなり、ネズミの食糧となった麦やイモ、イリコがなくなってきたため、ネズミの大量発生はなくなった。当時のことを**さんは次のように話す。
 「イワシ網の倒産(昭和35年遊子漁協倒産)により昭和36年ぐらいから昭和40年代初めにかけて、甘崎の暮らしは悪かったです。それに切干のイモが売れなくなりました。さらに昭和30年ころから36、37年ころまでネズミの害も受けました。畑に麦を植えても、ほとんどネズミに食べられました。そこらじゅうにネズミがいました。ドブネズミで大きいため、小さな猫では逆に猫のほうがびっくりしていました。当時自治会長だった私は、役場でもらった毒で餌(えさ)を作り、住民の協力のもと畑のあちこちに置きました。宵にとりに行き、あくる朝またとりに行くと、『かます』に4俵か5俵ネズミがとれました。ネズミは家の中にも出没し、小さな赤ん坊は耳や鼻をかじられることもありました。ネズミを殺して尻尾だけ切り取り役場に持って行くと、尻尾一本何円かで買ってくれました。ネズミの死骸は一所に集めてかますに入れ、船で沖に持っていき海に流しました。ネズミがいなくなったのは昭和50年ころで、昭和20年代から続いたけっこう長い戦いでした。ネズミの大量発生は、日振島に始まり、戸島、蒋渕、遊子、下波へきて、三浦に行き、三浦から宇和島に行ってなくなりました。」

 エ 出稼ぎ、移民と過疎問題

 遊子の人口推移を見ると、明治から昭和初期にかけて2,500~3,000人前後で推移しているが、昭和20年(3,401人)をピークに、20年代~40年代の減少が著しい(図表2-3-4参照)。昭和50年代に増加に転じているが、平成になり再び減少となった。人口急減の原因は、昭和20年代前半は疎開者が元に帰ったことによるが、昭和30年ころからはイワシ不漁による生活苦から出稼ぎ、離村が増えたためである。昭和50年代に増加しているのは、真珠やハマチの養殖業が軌道に乗り生活の基盤が確保されたため、都会からのUターン者が増えたためと考えられる。昭和25年と平成19年の人口ピラミッドを比較すると、15歳未満の幼年人口が41.5%から12.8%と大幅に減り、65歳以上の老年人口が8.1%から28.1%に増えており、少子高齢化が顕著に表れている(図表2-3-5参照)。
 昭和30年から35年にかけての宇和海村の人口減少率は県下一となった。イワシ漁業の不振などの原因で村民所得が県下最下位の状態であったため、離村者が相次いだ。昭和35年度の宇和海村の生活保護率(3.31%)は県下最高であった。昭和39年度宇和海村の中学校卒業生429名のうち、村に残ったのはわずか32名であった。昭和35年度宇和海村は県から海外移住モデル地区に指定され、同36年11家族67人(うち遊子からは1家族5人)が南米パラグアイのアルトパラナに移民した。
 昭和43年度の宇和海村の人口転出状況を見ると、転出者883名のうち、転出先1位は大阪で332名、2位は宇和島市176名となっている。転入者も大阪からが一番多く(61名)、次いで宇和島市(40名)ほか合計240名となっている。このことから、当時大阪への出稼ぎが多かったことがわかる。昭和45年の国勢調査結果から宇和海村の産業別人口を見ると、第一次733名、第二次34名、第三次116名となっているが、無職の者が757名もおり、労働者の46.2%に達していた。
 「遊子の人口が昭和20年をピークに減っているのは、戦時中疎開していた人が町に帰ったからではないでしょうか。デラ台風(昭和24年)過ぎころまでは、遊子から出て行く人の大半は疎開してきた人でした。中学校を卒業後、集団就職で都会に出る者が多かったのが昭和30年代ころです。遊子では集団とまではいきませんが、何人かずつ『遊子丸』に乗って宇和島に出て、そこから汽車(宇和島駅発集団就職列車『わかくさ号』が昭和42年まで運行した。)に乗って大阪などの都会に行きました。
 海外移民は、遊子からは10人近くが行きましたが、甘崎からは行っていません。遊子から行った人は向うでは農業をやりましたが成功せず、リオデジャネイロやサンパウロなどの町に出て商売を始めたと聞いています。私も行くつもりでしたが、親戚中に反対されてやめました。
 出稼ぎはデラ台風の後始まりましたが、イワシ巻網が倒産したころ(昭和35年ころ)から特に増えました。大阪や東京で工事現場の仕事が多く、一般の工場で働く人は少なかったです。昭和37、38年ころから大勢出て行ったので、部落の仕事(道路の補修等)もできませんでした。私の子どもも学校を卒業した後、遊子を出て行きましたが、私は遊子で頑張りました。小さな手繰り網というのを作って細々と漁業を続け、昭和42年からはハマチの養殖を始めました。昭和50年くらいになると、出稼ぎに行っていた者が次々と帰ってきました。養殖がうまくいったため、これを聞いた出稼ぎ者が帰ってきて真似(まね)をしたのです。ハマチや真珠の養殖をやれば遊子でもなんとか生活していけるようになりました。昭和48年に宇和海の真珠は日本一になりました。それから昭和50年代までは景気のよい状態が続きました。
 人口が少なくなり高齢化が進んで、祭りのときなど困るかというと、そうでもありません。そんなに行事がないからです。昔から『遊子の寝正月、食い祭り』と言われ、祭りのときは食べるだけです。それが唯一の楽しみでした。」

図表2-3-4 遊子地区の人口推移

図表2-3-4 遊子地区の人口推移

『遊子の歴史(⑬)』ほかから作成。

図表2-3-5 遊子の人口ピラミッド(昭和25年)

図表2-3-5 遊子の人口ピラミッド(昭和25年)

国勢調査結果ほかから作成。

図表2-3-5 遊子の人口ピラミッド(平成19年)

図表2-3-5 遊子の人口ピラミッド(平成19年)

国勢調査結果ほかから作成。