データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(2)陸の道が通った

  ア 自転車も走れない道

 昭和25年(1950年)6月3日の愛媛新聞には、「交通機関は日に1回の便船だけで道路が悪いため自転車も走れず、村には郵便局の自転車一台しかない(中略)村を発展させるには道路をつけることが最大の急務で、村内はウサギ道ばかり」という遊子についての記事がある。実際、遊子では人が通れるくらいの細い道を「赤道(あかみち)」といい、ウサギ道(けもの道)と区別していたが、戦後になっても道路事情は悪いままで、「自転車も走れない」とか「ウサギ道」と形容される状態だった。昭和31年になると自転車は60台に増え、昭和39年に甘崎のみどりや旅館がはじめて軽四輪自動車を購入した。昭和38年には小学校校庭で小型自動運転免許取得検定が実施され、多くの人が参加している。
 「昭和28年に幅員2mの道路(村道)が遊子の浦々を初めてつなぎました。リヤカー道くらいの簡単な道路で舗装はされておらず、海岸を通っていました。それまでは遊子の浦々をつなぐ道路はなく、人が通れるくらいの道しかありませんでした。津の浦から水ヶ浦に至る道は山道でした。深浦から魚泊に至る道も山越えの道でした。魚泊から番匠に至る道は、海岸と山を通るルートがありましたが粗末な道でした。私の母の実家が魚泊だったので何回か通ったことがありますが、海岸(砂浜)を通る部分が何か所かあり、道らしい道ではなかったです。番匠と甘崎の間は、私が憶えている最初は三尺(約90cm)くらいの幅で、リヤカーも通れない道でした。リヤカーは県道ができるちょっと前から使い始めましたが、それより前は荷物をすべて担いで運びました。人が運べないような大きな荷物はそんなにありませんでした。大八車は遊子では見たことがありません。前後に長いため、くねくねとした細い道を行くには適さなかったからです。遊子の人にとっては、甘崎トンネルが抜けるのが待ち遠しかったです。この開通(昭和43年)によって陸上交通が大変便利になりました。」

  イ 駕籠で山を越え往診

 昭和43年に甘崎トンネルが抜けるまで、旧下波村柿之浦(かきのうら)と甘崎を結ぶ重要ルートだったのが六本松(ろっぽんまつ)峠である(写真2-3-1参照)。下波の人が峠を越え遊子に出て船に乗り、宇和島に行ったのは先述したが、この峠を1日に100人から200人は越えていた。また当時無医地区だった柿之浦に甘崎の医者が往診に出かけるときは、この峠を青年団が担ぐ駕籠(かご)に乗って越えていたという(⑭)。峠にあった6本の大きな松はこの地域のシンボルだったが、戦後枯れてしまった。現在、この峠を通る人はいない。
 「私は祖母に取り上げられて生まれました。当時遊子には産婆がおらず、私の祖母が甘崎浦の産婆代わりでした。昭和9年になってやっと清家さんという産婆さんが来ました。遊子では甘崎(現在の診療所の所)に医者がいました。明治の末ころに山中さんという医者が高知の梼原からやってきて、遊子や下波などこの地域一帯の患者を診てくれました。下波に往診に行くときや急病人が出たときは、駕籠に乗せ担いで山を越えました。駕籠に乗って診察に行く姿は私も再々見ました。時代劇に出てくるような駕籠で、庄屋格くらいの駕籠です。私もその先生に診てもらったことがあります。内科、外科なんでも見てくれる偉い医者でした。山中さんの後に来た医者も坂を駕籠で上がって往診に行っていました。その後は宇和海役場が村医を置きました。女医さんで、私の家から4軒隣りに置かれました。その後、八幡浜など各所から交替で医師がやってきました。
 入院するような重い病気のときは、定期船や漁船で宇和島に運びました。櫓押しの船でも交替で漕げはけっこう速く、急げば1時間で宇和島に着きますが、急病人はエンジンのついた船で運びました。海が荒れて船が出ないときは、病人を背負い歩いて運びました。道路が整備されていない時代、宇和島に通じる道は、天神坂と無月(むづき)越えの二つのルートがありました。」

  ウ バスがやってきた

 宇和島の石引(いしびき)を起点として蒋渕に至る道路(県道)は、昭和24年(1949年)から整備され始めた。三浦東(みうらひがし)の船隠(ふなかくし)まで開通したのが同29年、三浦西(みうらにし)の安米(あこめ)まで開通したのは同36年であった。同38年には1日10本のバスが安米まで来ていた。昭和39年(1964年)に辰野(たつの)トンネルが開通、同43年甘崎トンネルの開通によりやっと遊子と宇和島が県道で結ばれることになった。同45年甘崎から下波の東まで1日7往復のバス便が新設される。同47年の松節(まつぐせ)トンネル開通により、矢の浦まで自動車が通れるようになり、交通はより便利になる。遊子八浦を結ぶ海岸道路の整備は昭和31年であるが、これは農道で、同41年に整備改良される。同57年に無月(むづき)バイパス(無月トンネル)、平成元年大内(おおうち)トンネル、同3年豊浦(とようら)トンネル、同16年新辰野トンネルが開通したことにより、宇和島と遊子は車で30分程度の距離になった(図表2-3-3参照)。現在宇和島バスが甘崎-宇和島(バスセンター)間を平日1日8本、40分程度で結んでいる。
 「宇和島の石引から無月に至る道はくねくねと曲がる道でしたが、無月トンネルが開通して便利になりました。昔の道路は狭いうえにカーブが急なので、バスや保冷車などがよくハンドルを切り損ねてひっくり返りました。旧辰野トンネルが開通するまでは、半島に車は来れませんでした。開通後も自動車は柿之浦までで、昭和43年甘崎トンネルができてやっと遊子の人も自動車で宇和島に行くことができるようになりました。その後松節トンネルができ、より便利になりました。
 昭和45年に甘崎までバスが通りました。バスはいつも客でいっぱいでした。甘崎トンネルが抜けるまでは、下波のバス停まで山を越えて歩いて行きました。トンネルが抜けてもしばらくはバスが来なかったため、トンネルを歩いて下波まで行きました。このころになると津の浦から明越まで車で何とか通れるようになったため、自動車が徐々に増え、宇和島に行くのは船より自動車が多くなりました。」

  エ 通学の道、通勤の道

 大正時代、遊子尋常小学校の校舎は小矢の浦に置かれていた。津の浦にあった小学校は大正9年に遊子に統合され、分校となった(昭和35年廃止)。昭和11年遊子尋常小学校の校舎は番匠に移転する。昭和22年当時遊子小学校の児童数は552名であった。昭和22年に開校した遊子中学校は、遊子小学校の校舎に連ねて校舎が建設されたが、同28年に新校舎が完成し独立する。昭和25年遊子中学校に宇和島南高校定時制遊子分校が併設された。4年制男女共学で、15歳から30歳くらいまでの生徒がいた。以来昭和34年に閉校するまでの卒業生は33名であった(⑬)。
 昭和46年(1971年)蒋渕、遊子、下波、嘉島(かしま)、戸島、日振島の6中学を名目統合し、宇和海村立宇和海中学が成立する。しかし実質統合するのは、遠距離の生徒の寄宿舎「はまゆう寮」が完成する昭和48年のことであった。
 「甘崎から小矢の浦へは山越の道がありました。小矢の浦に小学校があったので、私は毎日この道を通りました。人が通れるくらいの狭いウサギ道でしたが、低い山道だったので片道10~15分くらいの道のりでした。津の浦が分校になって4年生以上は遊子小学校に通うようになりました。津の浦から遊子小学校までは遠いので1時間以上かかります。戦後の学制改革で誕生した遊子中学は、小学校の敷地の中にできました。宇和島南の定時制遊子分校はその中学校の校舎を併用しました。昭和40年ころまでは交通の便が悪かったため、宇和島の高校に進学する子はほとんどいませんでした。
 宇和海(うわうみ)高校寮(*2)というのが宇和島市内にありましたが、数年前になくなりました。宇和海高校寮には、宇和島市内の高校に通う日振島など島の子が多く入っていました。道路が良くなってから遊子の高校生はほとんどバスで通学しています。宇和海中学生は甘崎からは自転車で通っています。宇和海中学専用の自転車があり、それで通います。津の浦など遠くて自転車で通えない子はバスに乗って通っています。宇和島バスが生徒の時間に合わせて運行してくれます。宇和海中学には、すぐ隣に寮(はまゆう寮)があり、蒋渕、日振島、戸島などの中学生が入っています。
 今は遊子から宇和島に車で通勤する人が多くなりました。宇和島に通勤する人が増えたのは、道路が良くなったのもありますが、養殖漁業の不況もあります。養殖を次々とやめ、現在は最盛期の半分くらいになったのではないでしょうか。やめた人は宇和島に働きに行くようになりました。」



*2:「宇和海高校寮」は、昭和42年4月から平成16年3月まであった。当初は宇和海村立、後に宇和島市立。宇和島市内に通う宇和海地区一帯の高校生、特に島嶼部の高校生男女が入寮した。当初92名の定員であったが、昭和54年に84名になり、平成8年からは定員42名となった。また、宇和海中学校の隣には、主に島嶼部の中学生対象の寄宿舎「はまゆう寮」(昭和48年開設。定員140人)がある。


写真2-3-1 甘崎集落と六本松峠

写真2-3-1 甘崎集落と六本松峠

宇和島市遊子甘崎 平成19年10月撮影 右側の綾線に六本松峠がある

図表2-3-3 道路交通の整備状況

図表2-3-3 道路交通の整備状況

『遊子の歴史』⑬ほかから作成。 図中( )内はトンネル開通年を示す。