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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(3)地域の変化と人々のくらし

 ア 立体化と駐車場の増加

 都市化は、都市郊外にあっては農地転用、宅地化、各種事業所の進出等に現れるが、都市内部においては事業所が集積し、地価が高騰するにつれてより高度な土地利用が求められてくることから、立体化に現れる。松山市においても番町地区を初めとする中心市街地では、都市空間の立体化が進んでいる。昭和46年にオープンした「まつちかタウン」(36店舗)は、四国初の地下街として話題になった。都心部では高層化が進み、官公庁では、愛媛県庁第一別館が11階、松山市役所本館が11階、デパートの三越が8階、いよてつ髙島屋が9階、松山全日空ホテルが14階となっている。また三番町のシティタワー松山(17階)をはじめ、10階を越える高層マンションが番町地区には10か所以上ある(写真2-2-9参照)。
 昭和39年(1964年)と平成18年(2006年)の住宅地図を比較すると、昭和39年に一番町、二番町、三番町あたりにあった内科や外科、産婦人科などの病院が現在駐車場に変わっている所が多い。また、大街道に近い所ではかつての旅館や料理屋が駐車場に変わっている。
 近年の大街道、湊町の商店街をみると、複合商業ビルが増えている。元の商店主がビルを建てて、貸し店舗にするケースも見られる。
 モータリゼーションの進展と、多くなった駐車場について**さんは次のように話す。
 「私が単車に乗り始めたのは昭和30年代になってからです。当時は中の川の道路も舗装されておらず、でこぼこで雨が降ったら水溜(たま)りだらけでした。舗装されたのは昭和40年代です。車に乗り始めたのは昭和37、38年ころのことで、当時は商売をする人以外は車をあまり持っていませんでした。
 現在のように駐車場が整備される前は、どこにでも車を止めていました。中の川地下駐車場も、路上駐車が多いために松山市が建設したものです。私が自動車に乗り始めたころ、中の川に信号機はありませんでした。交差点で警察の交通整理もなく、先に行ったもん勝ちのような状況でした。
 現在は駐車場が多くなりました。このあたりの駐車場は、通勤者用、客用、自家用などいろいろで、店をやめた後、駐車場になるケースが多いです。一番町から千舟町にかけては、民家は本当に少なくなりました。柳井町にはまだ多くの民家が残っていますが、人通りが少なくなったため商売ができません。柳井町の本通りは寂れてしまい、アーケードを維持できなくなり撤去しました。今は自家用車の時代で、広い駐車場を持つ大きな店舗でないと流行(はや)りません。マンションも多く建ってきました。このへんは県病院に近いので高齢者の入居が目立ちます。」
 番町地区で駐車場が増えた原因について、**さんは次のように話す。
 「病院や旅館などがなくなり駐車場が増えたのは、都心部は地価が高くなったので、固定資産税や相続税などの税金対策ではないかと思います。駐車場は建物の建設費や維持管理費などの大きなお金がかかりません。うちも病院をやっているときは税金がかなり高かったのですが、やめてから住宅になり安くなりました。昭和61年に相続したときはバブルの時代で、税金がとてつもなくかかりました。そのため敷地の一角を売り税金を払いました。現在そこは駐車場になっています。バブルの時代にこの辺の土地はけっこう動きました。」
 
 イ 職住近接から職住分離へ

 平成19年現在、大街道1丁目と2丁目には200軒余の店舗があるが、住民は29戸61人しかいない。平成17年松山市統計書によると、番町地区における卸売・小売業、飲食店従業者総数は10,845人であるが、住民の同就業者数は861人である。職住分離が進んでいるのが数値にも表れている。
 商店街の変化について、**さんは次のように話す。
 「昔はこのあたり(柳井町)も店をやる人が多くいました。米屋、酒屋、菓子屋、洋服屋、下駄(げた)屋、うどん屋、天ぷら屋などたくさんの店がありました。米屋は近所に3軒ありましたが、どこででも米を売り始めたため、やれなくなりました。酒屋も大きなディスカウントショップがあちこちにでき、やれなくなりました。洋服屋も大型安売り店の進出でやれなくなりました。地域の店が次々とやめ商店主が次々と出て行ったのは、主に平成になってからです。うちの子どもは独立してよそに出ています。このあたりは子どもが大きくなったら、よそに出て行ってしまうケースが多いです。
 大街道や湊町も様子が変わりました。大街道あたりでは県外から進出してきた企業が店を借りて営業するケースが多くなっています。貸している元の店主は、郊外に家を建てて住んでいる人もいれば、2階か3階に住み、1階の店舗空間を貸している場合もあります。古くから店をやっている人でも郊外から通う人が増えました。」
 職住分離の進む中心商店街について、**さんは次のように話す。
 「街中でなく、よそでのんびり暮したいと考えて出て行く人も多いのではないでしょうか。ここで店はやるが住むのはよそという感じで、大街道や湊町の商店街では通ってきている人が多くなりました。今はそこに住んでいてもよそに隠居する家を持っている人もいます。子どもが店を継ぐのを望まず、貸し店舗にしているケースもあります。」

 ウ 変わる地域社会

 **さんは最近の町の様子を次のように話す。
 「昭和20年代には住民も多くおり、ベビーブームのころは祭りのときに子ども神輿がたくさん出てにぎやかでした。昔は近所付きあいも親密でしたが、最近は人間が薄情になってしまいました。昔からよく知っている近所の商店主が店をやめて出て行き、代わりにビルやマンションが建ち、次々と知らない人が入ってきますが、あいさつもないのでだれが住んでいるのかわからない状態になりました。住民も代がかわっています。昔からの住民が比較的多い柳井町でさえそういう状態ですから、一番町や二番町では近所付きあいももっと希薄になっているのではないでしょうか。」
 **さんは、地域の変化について次のように話す。
 「昔は、町を歩いていても守られていたというか、近所の目がありました。特に女の子は近所の人が自然に守ってくれているという感じがありましたが、今はそういうのがなくなりました。平成になったころから4、5年前まで大街道に夜中変な若者がおり、治安が悪かった時期もありましたが、最近良くなっています。うちの近所の駐車場は、昼間は主に勤めに来る人が車をとめていますが、夜暴走族が勝手に車をとめて困ったことがあります。夜になると浮浪者は出没するし、路上にとめた車の中で売春の斡旋(あっせん)が行われたり、覚せい剤の取引をしていたこともありました。こういったことも公民館が警察にお願いしてなくなりましたが、昭和60年代から平成4、5年ころまであったように思います。この辺の住民がいなくなり、近所の目がなくなったからこういうことが起きたのでしょう。
 最近、うちの町内にも新しい都市型賃貸マンションができましたが、中にどんな人が住んでいるのかはよくわかりません。この辺は子どもがいなくなり、高齢者が多くなりました。」

写真2-2-9 高層化する番町地区

写真2-2-9 高層化する番町地区

平成19年9月撮影