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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(1)松山市の中心、番町地区

  ア 戦災にあって

 戦前から二番町に住んでいる**さんは次のように話す。
 「昭和9年(1934年)に父が勤めていた日赤(松山赤十字病院。当時は県庁前にあった。)を退職し、現在地で開業した関係でここに住むようになりました。病院には住み込みの看護婦さんが5、6人いました。父は家の人力車で往診に出かけていました。車夫さんは、すぐ近くにあった人力車屋から通いで来ました。戦後もしばらくは人力車で往診に行きました。患者さんは松山近郊にもおりましたが、タクシーに乗り久万まで往診に行くこともありました。当時は医者が少なかったので、村の医者で手におえないときに呼ばれることも多かったのです。
 このあたりには戦前からいろいろな商売人がいましたが、支那(しな)事変(日中戦争。昭和12~20年)開始前後に、たくさんの人が満州(まんしゅう)に渡りました。向うでは料理屋などの商売をし、かなりもうけた人もいるようですが、戦争に負けて破産して帰った人もいます。三番町(さんばんちょう)や花園町(はなぞのまち)、柳井町あたりには引揚者が多かったように思います。
 戦時中、疎開はしていませんでしたが、7月の大空襲のとき私は偶然中村(なかむら)の農家に泊まりに行っていました。もしものときには桑原(くわばら)の小学校に行くようにいわれていたので、そこで待っていると、しばらくして家の者全員が無事に逃げてきました。空襲の翌朝、家の者が様子を見に行ったら、家は全焼し、飼っていた鶏は焼き鳥、卵はゆで卵、大きな釜で仕掛けていたご飯も炊けていたそうです。」

 イ 焼け跡からの復興

 昭和20年7月26日の空襲で松山の中心街はほとんど焼失した。戦後進駐した占領軍は、焼け残った愛媛県立図書館と市庁舎の一部に司令部を置いた。戦後食糧は配給制になったが、配給だけでは1日の必要カロリーの半分くらいしか摂取できず、人々は闇(やみ)の買出しで食糧を調達するしかなかった。松山でも自由市場と称する闇市(やみいち)が中(なか)の川(かわ)、新立(しんだて)橋、立花(たちばな)橋、国鉄松山駅前、伊予鉄松山市駅前等に出現したほか、市内のいたるところで掘っ立て小屋のおでん屋などが開店した。焼け出された大街道や湊町の商店主の多くは、戦災を免れた立花に間口を借りて商売を始めたため、一時期立花が松山の中心商店街となったが、昭和21年に三越松山店が大街道に開店(昭和20年伊予鉄マーケット、昭和21年いよや百貨店も開店)してから大街道、湊町の復興が始まった。その後都市計画道路の建設、復興土地区画整理事業により番町地区の道路は拡幅され、市駅前広場などにあった露店は移転し、着々と県都としての街づくりがなされていった。
 戦後間もないころの様子について、**さんは次のように話す。
 「焼け跡から現在の家を建てるまで病院は20坪くらいの規格の家で許可をうけて開業しました。昭和21年に家を建てたとき、まだ周囲に家はありませんでした。見渡す限り焼け野原だったので、家から国鉄の駅前を出る電車が見えました。焼け残った市役所へは配給をもらいによく行きました。配給だけではとても足りませんでしたが、うちは患者さんや知り合いの方が食糧を持って来て下さったり、送って下さいました。戦前のように家が次々に建ったのは20年代後半ころからです。区画整理で広い道路をつくるため、土地をけっこうとられました。」
 戦後間もないころの番町地区について、**さんは次のように話す。
 「戦地にいた私が松山に帰ってきたのは、昭和21年2月のことです。北京町(きたきょうまち)(現二番町2丁目あたり)に家を建てて住みましたが、番町地区は焼け野が原だったため、大街道の住民もしばらくは防空壕(ごう)に住み雨露をしのいでいる状態で、喫茶店も地下で営業している有様でした。4月から土居田(どいだ)にあった内務省に勤め始めましたが、月給が300円くらいと安く、これではやっていけませんでした。ある時郡中(ぐんちゅう)(伊予市)まで行き、かまぼこを大量に仕入れて、市駅前のおでん屋に持っていくと飛ぶように売れ、公務員の給料くらいはすぐに稼ぐことができました。これがきっかけで食品販売の商売をはじめました。当時市駅前や花園町には粗むしろを敷いた二坪位のおでん屋がずらっと並んでいました。花園町の店は遅くまで(昭和33年撤去)ありました。中(なか)の川(かわ)にもかなりたくさんの露店や市場があり、遅くまで残りました(昭和41年不法飲食店撤去)。中の川で商売していた人の多くは、土橋(どばし)のほうに移ったように思います。
 昭和28、29年ころから現在地(柳井町)で商売を始めました。当時市場のあった土橋は柳井町から比較的近いので、日に2、3回は重荷用自転車で往復し、商品を仕入れました。当時市内では、輪(りん)タクが多く走っていました。市駅(しえき)前にいましたが、利用するのは金持ちか病人でした。戦後間もないころは木炭バスも走っていました。日銀の近くに三共自動車があり、バスを置いていました。当時中の川の露店があった所は豊坂町(とよさかまち)と呼ばれ、市駅に近いので歓楽街になる予定でしたが、伊予鉄の線路の南には工場が多く、刑務所もあり、石手川(いしてがわ)にゴミ焼き場もあったため敬遠されました。代わって北京町が歓楽街になりました。そのころ石手川の土手にはかなりの数の住宅がありました。屋根は瓦でなく杉の皮で、粗末な住宅でした。うちに近いので、そこの住民もよく買いにきてくれました。」
 
 ウ 発達する都心部

 一番町、二番町、三番町は江戸時代には武家屋敷が連なっていた所で、県庁や裁判所のところが家老、二番町、三番町には百石から三百石くらいの石高の多い武士の屋敷があった。愛媛県庁は明治11年(1878年)現在地に新築移転する。県庁の前(現在のNTT西日本松山支店)には同24年から松山中学があったが、大正5年(1916年)に持田(もちだ)町へ移転し、その跡地に同8年日赤(松山赤十字病院)が移転してきた。戦前、現在の一番町には病院と弁護士、司法代書屋が多かった。二番町あたりには病院、料亭が立地していた。二番町、三番町から千舟町(ちふねまち)にかけては花街があり、全盛期の大正末期から昭和初期にかけては芸者が約400人もいた。昭和7年(1932年)に日本銀行松山支店、同10年県立図書館が建設され、同12年に松山市役所が南堀端(出淵町(いでぶちまち))から現在地に移転した。番町地区には現在県庁、市役所、地方裁判所、県警察本部などの官公庁のほか、日本銀行、NTT、松山中央郵便局ほかの事業所が建ち並び、中心業務地区を形成している。
 昭和28年湊町にアーケードが完成し、「銀天街」と称するようになった。大街道は、戦後「銀座の柳」にならって柳を植え、柳並木が名物になっていた。昭和42、43年に近代的アーケードが完成し柳は姿を消した。現在の全蓋式アーケードになったのは昭和57年(1982年)のことである。現在大街道と湊町の商店街は、三越といよてつ髙島屋を両端に有する全長約1,200mの県下最大の商店街を形成している。昭和58年の調査によると両商店街の商店の3分の2が戦後営業開始したものであるという(⑦)。