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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(2)四国の中心の村に

  ア 高速道路の開通

 平成4年(1992年)高知自動車道が川之江-大豊間に開通した。四国山地を縦断するこの高速道路は新宮村を通り、旧土佐街道馬立本陣近くに新宮ICが設けられた。
 「自家用車が新宮村の一般家庭に普及し始めるのは、昭和40年代末から50年代でしょうか。昭和30年代に自動車は贅沢(ぜいたく)品でした。新宮村では自動車がないと不便なので、現在は自家用車を2、3台持っている家庭も多いです。自家用車が普及する前、遠い所に行く交通手段はバスでした。当時はバスの便数も多かったです。現在新宮を走るバスは瀬戸内バスと四国交通バスで、国鉄バスはずいぶん前にやめてしまいました(平成3年JRバス廃止)。現在バスは便数が少なく不便なため、使っているのは、車を持たない年寄りくらいです。(川之江行き瀬戸内バスは平日1日4便、日・祝日2便。阿波池田行き四国交通バスは平日4便、日・祝日3便)
 東西に新居浜・山城線(国道319号)が通っていますが、川之江に行く南北の道に比べると重要性は低いです。外から来る車のナンバーを見ると、香川、高知の車が増えました。徳島は少ないです。
 高速道路新宮ICができて一番大きく変わったのは、遠い所から来る人が増えたことです。商売人も方々からやってくるようになりました。ここは四国4県から集まって会をするとき、どの県庁所在地からも1時間でこれます。逆にここからは四国のどこへも早く行くことができるので、県外に行くことが苦になりません。『霧の森』(平成11年にオープンした観光スポット。レストランや温泉がある。)の施設を四国4県のちょっとした会合に使うこともよくあります。」

  イ 川之江へ、伊予三島へ

 「村に住む人の仕事も大きく変わってきました。現在は農業だけで生活している人はほとんどいないのではないでしょうか。新宮茶は有名ですが、お茶で生計を立てているところも現在は数軒だけです。村の外に働きに出る人が多く、そのほとんどが川之江や三島の製紙関係に自家用車で通っています。昔は会社から通勤バス(会社がマイクロバスを用意)が迎えに来た時期もありましたが、マイカーの普及によりなくなりました。自家用車で川之江・三島へは一般道で30分くらいで行けます。」
 国政調査結果から新宮村の産業別人口構成をみると、昭和30年(1955年)当時は農業従事者が多く、第一次産業従事者が8割以上を占めていたが、平成12年(2000年)になると農業は1割を切り、第二次、第三次産業従事者が大半を占めるようになった。平成12年の新宮村における15歳以上就業者は744人で、うち村内で従業している人は501人、他地区で従業している人が243人いることから、ほぼ3人に1人は他の市町で働いている状態である。また、同年の新宮村の通勤・通学用交通手段は、村内で通勤・通学する人の70%以上が自家用車、15%が徒歩で、バス利用は3%に過ぎない。また、村外に通勤・通学する人の90%近くが自家用車で、バスの利用は7%と少ない。

  ウ 進む学校の統廃合

 新宮村には昭和30年ころ六つの小学校と二つの中学校があった。六つの小学校とは、新宮(しんぐう)小学校(明治8年~平成19年)、新成(しんせい)小学校(明治9年~昭和45年新宮小学校に統合)、古野(この)小学校(明治9年~昭和49年新宮小学校に統合)、西庄(にししょう)小学校(明治10年~平成7年新宮小学校に統合)、寺内(てらうち)小学校(明治10年~平成19年)金藤(かねとう)小学校(大正5年~昭和48年新宮小学校に統合)のことである。二つの中学校とは、上山(かみやま)中学校と新立(しんりつ)中学校で、昭和39年に統合され新宮中学校になった。
 「新宮村にあった小学校と中学校は、次々に統合され、現在は新宮小中学校(平成19年4月から全校生徒87人の小中一貫校となる)一つになりました。統合され、子どもの通学距離が遠くなったため通学には福祉バスやスクールバス(旧寺内小学校-新宮小中学校の間:無料)を利用しています。高校生はほとんど家族の車で通学しています(平成19年度24名の高校生のうち、下校時にバスを利用する生徒が数人いる程度)。冬の時期道路が凍結し危険なため、単車で通う高校生はいません。ほとんどが三島高校か川之江高校に通っており、親が三島や川之江に通勤するついでに学校に送り、帰りも学校や部活が終わるのを待って連れて帰るケースもみられます。遅くまで部活動をしている子どもの迎えは大変です。香川県の高校に進学している子は、寮に入ったりしています。(新宮公民館提供資料によると、高校生でバス通学の希望は多いが、便数が少なくバス停も遠く不便であるため、親の自家用車送迎に頼らざるをえない状況であることがわかる。川之江までのバス定期代1か月18,030円、川之江発最終便は17時44分発という現状では、経済的な負担が大きく、部活動も遅くまでできない状態である。)
 昔、川之江に『新宮寮』という新宮出身の高校生の寮がありました。(新宮寮があったのは昭和41~60年の間。多いときは入寮者50名、閉鎖時は15名。昭和55年の堀切トンネル開通により、バス通学が可能になり、閉鎖された。)三島高校には法皇(ほうおう)寮がありました。(昭和28年竣工(しゅんこう)。昭和44年改築。昭和57年伊予三島市より三島高校に寄付され、第5教棟と改称。昭和36年当時三島高校に社会科の教師として勤めていた坂東梅生さん〔昭和11年生まれ〕によると、寮生は男女合わせて約20名おり、新宮の生徒が一番多かったという。)寮があれば通学の不便は解消されますが、40、50名は入寮者がいないと維持できません。現在のように高校生の数自体が20数名では復活は難しい状況です。
 私が川之江高校に通っていたときは、下宿していました。高校の近くに下宿屋さんが何軒かあり、そこに新宮村や富郷(とみさと)村からの生徒が住んでいました。私が高校生のころ、新宮出身者は三島高校より川之江高校に行く者が多かったです。それは川之江に国鉄バスの営業所があり、新宮とのバスの便が良かったからです。現在川之江高校や三島高校の近くに下宿している子はいません。
 旧新宮小学校校舎は現在学童保育に使われています。旧新成小学校は少年自然の家になりました。古野小学校はダムの底に沈み、金藤小学校は廃校後は何も使っていません。西庄小学校跡は地域の人がゲートボール等で使っていますが、夏には県無形民俗文化財の『鐘おどり』に使います。今年4月に廃校になった寺内小学校は、少年自然の家寺内分館・郷土資料室として残すことになっています。」

  エ 変わる地域社会

 「新宮の人口は、現在は1,500人余りになってしまいました。新宮村に若者が少なくなり、少子高齢化が進むのは、高校や大学を出るとよそで就職し、帰ってこないからです。川之江や三島に家を建てて一家転住する人もけっこういました。挙家離村が進み、かつて部落で行っていた祭りや葬式などの行事や助け合いができなくなったところもみられます。特に葬式は変わりました。昔は部落内で葬式の手伝いなどすべてやっていましたが、現在はそれができなくなり、業者がやるようになりました。現在独居老人は百世帯以上あります。昔人口が多かったころは、近所の人との結びつきで年寄りがどんな様子かわかっていましたが、現在は生活環境も変わり、隣との付き合いも減ってきました。 
 若い者が少なくなってくると、祭りの行事も元気が出ません。神輿(みこし)を担ぐにしても、若い者が少ないため、車で積んで走ることも多くなりました。祭り(秋祭りが主体)のころにわざわざ帰ってくる若者も少なくなりました。昔の風習も失われてきました。亥の子(わら亥の子)は私が子どものときにはありましたが、現在はほとんどやってないのではないでしょうか。
 新宮で若者を定住させようとする試みは、合併する前からあり、若い夫婦が住む宅地を村が割安で提供したりしました。(平成4年にできた若者定住化住宅大北(おおきた)ハイツ5戸1棟、平成5年柿之下(かきのした)にできた6区画の宅地がこれにあたる。)インター完成後、霧の森などの施設ができ、若い奥さん方が勤めています。有名な『霧の森大福』も地域の人の発案で作られました。庭園の整備などでシルバーの方たちの雇用も生まれました。合併してから旧新宮村のころに比べて、行政が遠くなったという意見が多く聞かれます。合併前は住民の要望については村内ですべてが解決していましたが、合併して村役場が支所になったため、本庁に相談しなければなりません。支所になって職員もずいぶん減りました。」