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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

2 県境の山村から四国のへそに-四国中央市新宮地区-

 四国中央市新宮地区は、平成16年(2004年)の合併まで宇摩(うま)郡新宮村と称した。新宮村は、昭和29年(1954年)に上山(かみやま)村と新立(しんりつ)村が合併して誕生したが、県境山間部に位置し、過疎化が進む山村であった。土佐藩の参勤交代の道が南北に通り、銅山川(どうざんがわ)沿いの東西の道とともに周辺地域との人の流れは見られたが、ほとんどの住民は村の中で生活が完結していた。川之江や伊予三島といった都市部に通じる道は、堀切(ほりきり)峠越えの狭い道しかなく、銅山川下流域の徳島県山城(やましろ)町や笹ヶ峰(ささがみね)の南に位置する高知県大豊(おおとよ)町へも、深い谷に沿った細い道か険しい峠道を通らなければ行けないため、まさに陸の孤島の状態であった。
 昭和42年(1967年)に高知県大豊町に通じる笹ヶ峰トンネルが開通、同55年に川之江に通じる堀切トンネルが開通して南北の交通の便はずいぶん良くなった。平成4年(1992年)に高知自動車道川之江-大豊間が開通し、新宮村にインターチェンジ(IC)が設けられたことにより、各地から観光客が来るようになった。県境の山村である新宮村が四国のへそ(中心の村)になったのである。しかし過疎と少子高齢化の問題は深刻で、人々のくらしや地域社会はずいぶん変わってきている。新宮で生まれ育った**さん(昭和13年生まれ)に戦後から今日までの新宮の様子について話を聞いた。