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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(1)国道に依存するまち

 ア 海岸に立地した町

 「私たちが生まれる以前、二名の人々は朝鮮方面に船で交易に出かけていました。特に明治のころは盛んに朝鮮と交易していたといいます。二名の人々の生業は漁業と廻漕業が中心でした。漁業といっても半農半漁で、農業も山が接近しているため農地は狭く、作物はほとんど自給用だったように思います。昭和20年ころはまだこのあたりで蚕を飼っており、桑畑が広がっていました。漁港は長須と余木共同使用のものが一つあるだけで、漁業をしている人は私たちが子どものころにはほとんどいなくなりました。現在、港は釣り舟の繋留(けいりゅう)場所になっています。二名の人で資金のある人は、国鉄川之江駅ができたとき(大正5年〔1916年〕)に駅の近くに移り、駅前で商売を始めたと聞いています。
 二名は勤め人が多く、学校を出たら地元の大王製紙(昭和18年設立。現従業員2,800名)や富士紡績川之江工場(昭和9年から50年まで操業。従業員1,300人余。)などに勤めるか、大阪に集団就職しました。昭和20年代は大阪に行く者の方が多かったように思います。集団就職は昭和30年代前半が一番多く、40年代までありました。大阪では店員さんなど小企業に勤める者が多かったです。昭和40年代になり、地元に大小の製紙関係の企業が多くできたため、集団就職はなくなっていきました。
 国道と海を隔てる堤防は、国道が広げられたときにできました。それまで国道と砂浜の境界には、わずか数十センチの段差の石垣しかありませんでした。昔は余木の砂浜は広く、父親の時代には砂浜で芝居が上演されたこともあったそうです。港の東側の小波止から北へずっと砂浜が広がり、昭和20年ころまでは海岸に松林がありましたが、全部波に削られてなくなりました。『長須』という地名にもあるように、もともとこのへんは金生(きんせい)川の運んできた土砂が沿岸流に運ばれて堆積(たいせき)し、砂浜海岸をつくってきました。しかし金生川の流路を変える工事(水害防止のため昭和22年に行われた。)がされ、川之江の沿岸が次々に埋め立てられた結果、土砂の供給がストップし、沿岸流の侵食にさらされることになりました。(写真2-1-1参照)」 

 イ 国道の舗装と自動車の普及

 愛媛県と香川県を結ぶ大動脈である国道11号が舗装されたのは、県境付近の二名あたりでは昭和34年(1959年)で、以降同40年にかけて川之江市域の国道で舗装工事が実施された。
 「わたしらが子どものころ(昭和20年代)、国道は舗装されておらず、車はめったに通りませんでした。たまにバラス(砂利)の運搬車やサトウキビやダイコンを積んだトラックが通るくらいでした。当時は木炭車が走っており、速度が遅く子どもでも追いつけるので、後ろにつかまって乗ったこともありました。荷馬車もたまに通っていました。少し後になるとオート三輪が登場しました。当時二名で大きな荷物を運ぶのは大八車でしたが、ちょっとした荷物を運ぶときには『運搬車』と呼ぶ頑丈な自転車がありました。讃岐(さぬき)の方に米を買出しに行くときにはこれを使いました。大きさは今の自転車とほぼ一緒ですが、後ろのタイヤがかなり太く荷台も大きかったです。
 昭和20年代は、通勤する人は歩いていました。車はないし自転車もそんなになかったように思います。当時の国道は舗装されておらず、バラスが敷かれていたため下駄(げた)で歩くのは大変でした。『つばめ』というメーカーの自転車がありましたが、給料が2千円くらいのときに2万円もしたため、会社に乗っていくと珍しがってみんなが寄ってきました。昭和30年代半ばころから小さな単車が出始め、自転車にエンジンがついているものから普及しました。
 昔の国道は今の半分の道幅でした。海岸を走っているため、内陸方向に拡幅され、沿線の人々は土地を買収されました。拡幅工事に時間がかかりましたが、舗装されるまでにさらに何年もかかりました。舗装されるまでは土ぼこりがすごく、でこぼこでスピードは出せませんでした。国道は最初コンクリート舗装でした。アスファルトで舗装されたのはずっと後のことです。継ぎ目がありガタガタいうコンクリートに比べ、アスファルトは継ぎ目がないので走りやすくなりました。」
 
 ウ 国道と鉄道に挟まれた町

 二名地区は海岸部に山地が迫り、国道と鉄道に挟まれる格好で集落が立地している(写真2-1-2参照)。
 「子どものころは蒸気機関車で、現在ほど頻繁には通らなかったように思います。蒸気機関車はスピードが遅く、のんびり走っていました。二名でも場所によりますが、今の列車はかなりなスピードが出ているので通過するときの風圧や音が大きく、騒音・振動がけっこうあります。国道11号と鉄道が接近する所では、表の国道を通る大型トラックと裏の鉄道の騒音・振動がひどく、知らない人が泊まりにくると地震と勘違いするくらいです。昔の国道や鉄道の方が車や列車も粗末なものでしたが、スピードが遅く通る回数も少なかったので今より静かだったように思います。今は夜中でも大型トラックが通ります。高速道路ができたら少しは交通量が減ると期待しましたが、運送屋さんは料金の関係で相変わらず国道を通ります。かといって高速がなければ、香川に通じる幹線道路は国道11号しかないため、二名の道路はもっと混雑していたでしょう。」
 国鉄予讃(よさん)線では昭和30年代からディーゼル化が進み、全国に先駆けて昭和45年(1970年)に四国の国鉄から蒸気機関車はなくなった。昭和62年(1987年)には香川県と愛媛県が高速道路で結ばれた。交通センサスによると、昭和60年(1985年)の国道11号(川之江町長須175-3)の平日の自動車交通量(12時間)は12,501台であったが、20年後の平成17年の自動車交通量は、15,133台となった。この年、県境における高速道路の交通量は14,360台となっており、高速道路を含めた県境の自動車交通量は20年間で2.4倍近く増加している。

写真2-1-1 護岸ブロックに守られた余木の海岸

写真2-1-1 護岸ブロックに守られた余木の海岸

四国中央市余木。平成19年10月撮影

写真2-1-2 JR予讃線と二名の集落

写真2-1-2 JR予讃線と二名の集落

四国中央市余木。平成19年10月撮影