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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(2)船からトラック運送への転換

 まもなく創業100周年を迎える伊予商運株式会社で、社長を長く務められ(現相談役)、物流業界全般に携わってこられた松山市在住の**さん(昭和4年生まれ)に話を聞いた。 

 ア 関西汽船の代理店として

 「私はしばらく広島で仕事をしておりましたが、昭和29年(1954年)に家の事情もあって伊予商運に勤めるようになりました。伊予商運は、昭和7年の創業で、創業当時は大坂商船の代理店・回漕業が主な仕事でした(図表1-2-3参照)。私は支店駐在員として八幡浜や北九州の門司(もじ)、大阪にも長く勤め、やがて昭和40年代に本社に戻ってから、トラック運送をてがけるようになりました。
 私が入社したころの伊予商運は、関西汽船との結びつきが強く、社長も関西汽船からきておりました。昭和20年代前半までは阪神方面からの貨物を高浜港で荷揚げし、伊予鉄道の古町(こまち)駅が荷さばき場で、荷車やオート三輪で市内へ配送しておりました。20年代後半から荷さばき場が松山市駅に変わりました。まだ交通アクセスが十分でない時代でしたから、貨物・客船とも盛況を極めました。そもそも愛媛県は平野が少なく山が迫り、沿岸部に都市があることから海運のほうがよほど利便性があったのです。昭和36年(1961年)ころまでは、新居浜(にいはま)-松山-宇部(うべ)-小倉(こくら)の貨客船もありました。私が担当した貨物の面でいうと、貨物の9割が大阪方面で、残りの1割が北九州からの取り扱いでした。
 昭和40年(1965年)から6年間八幡浜に駐在しておりましたが、農産物やその加工品、魚肉ソーセージなどをよく出荷しました。入荷のほうでは鋼材や酒類が多かったでしょうか。八幡浜支店では2台のトラックを持っていましたが、八幡浜から松山ですと4時間くらいかかりました。宇和島支店がありましたが、宇和島-松山間だと6時間の道程でした。これは、八幡浜からは夜昼峠、宇和島からでは法華津峠・鳥越峠を越え、さらに大洲から松山へと犬寄峠を越えねばならなかったからです。今ではトンネルでわずか数分ですが、当時の峠は狭い旧道を40分ばかり上り下りしなければならず、大きなロスでした。しかも未舗装で狭いため離合も難しく、乗務員は神経を使う仕事でした。
 現在は、新居浜市などの東予からでしたら大阪までトンボ(日帰り)で往復12時間、松山から大阪でしたら夜出てフェリーを利用し朝に着く2日(往復20時間)の運行です。松山-新居浜間にかかる時間はせいぜい2時間程度で、往復の走行時間がなぜ8時間も違うのかということですが、4時間ワッパ(ハンドル)を握るごとに1時間は休息しなければならないという規制があるので、松山出発ですと日帰りが出来ないのです。南予はさらに距離がありますから、まる2日はどうしてもかかり、同じ県内の事業者でも経営環境は大きな差があるわけです。」

 イ トラック業界への本格的進出

 「関西汽船とかかわりの深い伊予商運ですが、高度経済成長とともに、運送業としては海運から陸運へシフトせざるをえませんでした。船だと雨の日は荷役ができず、天候に左右され日数がかかって、荷主さんからもお叱りがあります。宇和島から大阪まで船で運ぶと7日もかかる、またハンドリング(積み降ろし)が多く積荷がいたみやすいということもあります。トラックは生産者から消費者へ直接持っていけるということが大きく、道路事情がよくなって飛躍的にスピードも運送量も上がる時代になり、昭和40年代には、松山自動車(現西濃運輸グループ)、中予運送(現四国名鉄)、宇和島自動車さんらが、トラック輸送の路線の拡大延長を進め、船の貨物はどんどん減少していきました。
 そこでわが社も、昭和41年(1966年)に一般路線貨物自動車運送事業の免許をとって、トラック運送の拡大に乗り出しました。トラック業者は、貸切で荷主の荷物を運ぶ『貸切事業(一般区域事業とも言う)』と、各地に営業所を設けて様々な荷物をバラ積みで運ぶ『路線事業』があります。路線事業とは、企業を相手の宅配便だと考えてもらえればいいでしょう。昭和50年ころまでに、貨物輸送は海運から『路線』トラック運送が中心になってきました。
 昭和53年(1978年)に筆頭株主の関西汽船が、慢性的な経営状態悪化により坪内寿夫さんの来島ドックの傘下に入りました。当社もグループに参入させられました。私もこのころに取締役となりましたが、社長が来島ドック在駐のため、報告・相談に来島ドックに日参することになりました。坪内社長は会社再建の神様といわれた人ですが、月1回の全体会議で、お前は運輸のことしか考えない専門バカだとよく怒られたことも、今となってはなつかしい思い出です。平成元年(1989年)に、来島ドックの経営が悪化して、日本債権銀行がプロパー(唯一)の債権先となり、私はその翌年に社長となりました。日債銀のもとでも何度か株主が変わり、私はオーナー経営者ではないので、筆頭株主が次々と変わることは非常につらい面もありました。しかし陸運・海運だけでなく関連する様々な事業を持つ企業としての伊予商運というブランドを、県外資本に握られたままではいかんという、関係当局や地元銀行の話し合いによる仲介もあって、平成10年(1998年)に一宮運輸グループ傘下となり、現在にいたっています。昭和60年代には負債が1億ほどありましたが、バブルの時期に業績が向上して負債も返還でき、平成の時代に入って配当も復活できました。」

 ウ 平成に入ってのトラック業界

 「わが社が様々な問題を乗りこえられたのも、松前(まさき)町の東レさんに場内作業の荷送り梱包と配送の業務を継続して取り扱わせていただいたからです。沿革を見てもらってもわかりますように、昭和12年(1937年)に工場が建設された際に、岸壁のクレーンで原材料を陸揚げしトロッコで工場に運んで以来、会社が苦境にあるときも長年にわたり当社を利用していただいたことは、大変ありがたいことでした。今でも東京・大阪方面の上りの積荷のほとんどは東レさんです。
 運送事業は、上り便だけでなく、下り便の復路も集荷できなければ『片便配送』で大変不経済になります。また、東京や大阪のトラックターミナルの使用料金が高く、路線沿いの多くの営業所の維持も問題でした。私が社長になった平成2年(1990年)に、同じターミナルで業務をしていた高知県の四国運輸さんとの話し合いで、ターミナルや地方の営業所を共同で使用・配送するようにしました。これは周囲からも注目されて、後に香川の三豊運送、徳島の四国高速運輸、宇和島自動車さんが参入し、『五社会』なるものを結成しました。各社は四国の主要地の高知や高松・徳島にそれぞれ営業所を置かなくてよく、また他社の路線を活用して各地に配達できるというシステムの構築で、当時の経済界やマスコミからずいぶん取材も受けました。これは現在も続いております。
 現在、わが社の車両は100台ほどですが、人材の確保、作業の効率化、安全確保上から時代に即応した車両や設備への改善に努めてきました。フォークリフトでそのまま積めるように、サイドが開くウイング車を導入し、パレット(フォークリフトのつめを板の下に刺して運ぶ運搬板)に貨物を載せたままトラックに積み込めるようにしました。倉庫についてもパレット上のICタグでコンピュータが自動的に認識して、荷物の出し入れが無人でできるようにしました(写真1-2-16参照)。港の作業もベルトコンベアーやクレーンの時代を経て、ガントリークレーン(重量物橋型起重機、コンテナを船から積み下ろす大型クレーン)でトラックに直接にコンテナを載せる時代となっています(写真1-2-17参照)。本社は三津浜の『アイロット(愛媛国際物流ターミナル)』に移っております。台湾やシンガポール等の外国貨物定期航路と連動し、荷主の要求に対応できる3PL(在庫・情報管理も含め、原料供給から製品輸送・卸売まで一括して取り扱う事業システム)の拡大を進めております。最近の原油高や環境規制の強化など年々厳しくなる面も多いですが、ISOやグリーン環境認証の指導のもとで、わが社が今後も愛媛の物流を支えていってほしいものです。」

図表1-2-3 伊予商運沿革

図表1-2-3 伊予商運沿革

『40年のあゆみ(⑯)』及び同社ホームページ、**さん提供資料から作成。

写真1-2-16 アイロット内にある伊予商運倉庫

写真1-2-16 アイロット内にある伊予商運倉庫

手前の板がフォークリフトで運ぶパレット。松山市大可賀。平成19年11月撮影 

写真1-2-17 アイロットのガントリークレーン

写真1-2-17 アイロットのガントリークレーン

松山市大可賀。平成19年11月撮影