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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(4)松山の乗降客はどの交通機関を使ったか

 県下最大の都市である松山市の、中心となる交通機関の利用状況はどのように変遷してきたのであろうか。図表1-1-18を見ると、昭和40年代前半(1960年代)に、国鉄(現JR)・松山港の乗降客増加のピークがある。昭和40年代までは国鉄と定期航路が松山の交通機関の中心であったといえよう。この時期は高度経済成長期にあたり、経済活動の活発化に伴って人の移動が多かったと思われる。一方、国道の改修はまだ途上で、前記の犬寄・法華津トンネル開通が昭和45年であることから、まだ自動車交通が発達していなかったため、公共交通機関に対する比重が高かったのであろう。
 愛媛県への観光客数は、昭和35年(1960年)の213万人から、昭和48年(1973年)オイルショック前までの784万人まで一貫して増加が続く。その後、600万人前後で安定したが、昭和63年(1987年)4月の瀬戸大橋開通後、再び観光客数が増加に転じ、700万人前後となった。西瀬戸自動車道(しまなみ海道)が開通した平成11年(1999年)には、1,118万人を記録し、その後800万人前後を推移している(⑭)。しかし、図表1-1-18を見ると、昭和63年(1988年)の瀬戸大橋の開通で鉄道が松山と岡山を直接結びJRの利用が便利となったため、松山駅の乗降客数は一時期増加しているが、平成7年(1995年)を境に松山駅乗降客数は微減を続けている。松山港の乗降客数も平成3年(1991年)から減少を続けている。西瀬戸自動車道(しまなみ街道)開通の平成11年も上昇は見られない。これは西瀬戸自動車道が自動車道であるという理由もある。
 鉄道・定期航路は今も変わらず重要な交通機関であるが、昭和50年代以降の一般客また観光客の松山市への乗降客の増大は、飛行機や高速バス及び自家用車がそれを支えてきたといえる。


図表1-1-18 松山市の各交通機関乗降客数推移

図表1-1-18 松山市の各交通機関乗降客数推移

各年度の『愛媛県統計年鑑』、『松山港の沿革(⑭)』掲載データから作成。sは昭和、hは平成の年を示す。