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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(2)戦後の修学旅行と交通手段の変化②

 イ バス・飛行機による修学旅行

 (ア) 鉄道からバスへ

 昭和30・40年代と、昭和62年(1987年)の旅程表(図表1-1-7参照)を比較してみると、貸切バスによる移動の時間が大幅に増えていることに気づく。道路整備、特に高速道路の開通によりバスは短時間で観光地を結ぶようになった。乗換時間、集合・点呼等の労力、金銭の節約のうえで、バスは修学旅行に欠かせないものとなり、大阪-東京間もバスで移動している学校もある。利用の減った鉄道の中で、新幹線の利用は続いている。京都-東京間が、昭和36年には12時間以上かかっていたものが、3時間弱で結ばれたことは、旅行日数や身体への負担の軽減のうえで大きい。
 また、熱海・箱根・日光・東京の観光に代えて、上高地から信州方面へのコースとなり、東京ディズニーランドでの自由行動が半日を占めていることも、昭和60年代の修学旅行の特徴である。
 平成8年の修学旅行(図表1-1-8参照)は、韓国への海外修学旅行もコースの選択肢とし、飛行機が利用されているのが大きな特色である。日程は、それまでの5泊6日から3泊4日と短縮されたが、飛行機利用のため観光地見学・自主研修などの時間は十分とられている。これまでの修学旅行と違い、観光地周遊を中心としたものではなく、沖縄のマリンスポーツ、北海道の自然体験・ラフティング(ゴムボートによる川下り)などの、リゾート型・体験型の旅行になっているのも大きな特色である。

 (イ) 観光地や東京への反発、旅行形式の変化

 南宇和高校の校友会誌から、高校生の修学旅行に対する思いと意識の変化を探ってみた。
 昭和54年(1979年)「バスは日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)へ向かう。東照宮の社殿を見て歩いたが、今までに写真などで見ているせいか、実物を前にさえない感じがしたものの、写真では見られない一面に気づいて、多少なりとも来てよかったと思っている。(中略)銀座を歩いた。歩道を歩く人の顔はみな無表情で、時に肩と肩が触れ合っても何も言わずに通り過ぎてしまう。ネオンが美しい。歩道が明るい。そこに聞こえてくるのは自動車の騒音と人の足音だけ。すばらしく、明るく、美しい。だが、そこには何かが欠けている。人間にとって大切な何かが。(中略)東京タワーより都心を眺める。どこへ行っても自動車と人。空にはスモッグ。眼下には我が故郷の生き生きと茂る緑の代わりに、灰色のコンクリートが無数に立ち並ぶ。これが日本の首都東京の姿かと思うと、がっかりすると同時に、反面、私たちの住んでいる南郡がどんなに素晴らしい所か、しみじみ感じてくる。」
 平成16年(2004年)「沖縄って、やっぱり暑いんだろうな。伝統っぽい昔ながらの家が立ち並んでいるんだろうと思っていたが、ぜんぜん違っていた。空港からのモノレールにはびっくりした。(中略)2日目、楽しみにしていたマリンスポーツの日。ビーチフラッグやビーチバレー、シュノーケル・ダイビング、マリンジェット。マリンジェットはものすごいスピードで気持ちよかったです。海に落とされた人も何人かいました。私も落ちてみたかったけれど、いざやるとなるとできなかった。(中略)沖縄のものはおいしかったけれど、激辛ミミガー(豚の耳を干物にしたもの)は好評ではありませんでした。ちなみに私は食べていません。普通のミミガーはおいしいらしいですよ。」
 上記の修学旅行の感想を見ると、昭和36年の感想における東京に関する素直なあこがれ、景勝地(特に富士山)についての感嘆に対し、昭和54年の感想は、観光地(日光東照宮)や東京に対する批判的な見方がきわだつように思える。もちろん、これはあくまでその生徒の個人的な感想に過ぎないが、テレビ等のマスコミ情報の普及もあって、大都市東京や著名な観光地に対して、生徒の方がすでに十分な情報を持っており、批判的見方を持つようになってきたということはいえる。また、平成の時代に入っての自然体験などの体験型旅行が、高校生にはおおむね好評であることも見て取れる。修学旅行に求められるものも、時代の変化を強く受けていることがよくわかる。

 ウ 時刻表から見る戦後の交通

 上記のような修学旅行の変化の背景には、交通機関の飛躍的な発達がある。そこで戦後の各時代の時刻表をもとに、所要時間・運賃を比較し県内の交通の変遷を探った。

 (ア)準急・急行、気動車導入

 松山から大阪まで何時間かかるか、その所要時間や運賃を過去の時刻表から探ってみた。
 昭和22年(1947年)では、松山-大阪間は普通列車で約15時間かかる。『時刻表でたどる昭和史(⑥)』によると、この昭和22年に急行列車が復活し、予讃線でもはじめて1日に1本「準急(急行に準ずるの意)」が設定された。
 昭和30年(1955年)では、松山-大阪間は最速10時間の所要時間である。修学旅行生を中心に多数の死者がでた、宇高連絡船「紫雲丸」の沈没事故はこの年のことであり、愛媛県では周桑(しゅうそう)郡三芳(みよし)町(現西条市)の庄内小学校の児童・保護者30名が犠牲となった。
 昭和40年(1965年)では、急行や特急を利用し最も短い所要時間であれば、松山-大阪間は7時間半、宇和島-大阪間は9時間半でいけるようになった。昭和30年と比べても2時間半の大幅な短縮である。当時の時刻表を見れば、予讃線には急行「せと」「道後」、準急「うわじま」「いよ」など、多数の高速列車が走っている。また宇野-新大阪間は、山陽本線を通って特急「うずしお」・急行「瀬戸」・準急「鷲羽」等が走っている。最も本数の多い「鷲羽」は約3時間30分で宇野-新大阪間を結んでいた。すでに東海道新幹線は、前年の昭和39年(1964年)に開通しており、その接続に便利なように、また普及してきた自動車や飛行機に対抗できるようスピードアップを図ったためと思われる。
 また、時刻表上部分の列車番号に「D」がついている列車は気動車(車両本体に内燃機関を積み自走する鉄道車両)である。トンネルの多い予讃本線では、全国に先駆けて無煙化(気動車・ディーゼル機関車導入による蒸気機関車の廃止)を進め(⑦)、昭和40年にはそれがほとんど完了していることがわかる。
 昭和40年の松山-大阪間の運賃は急行・特急料金の400円を加算して1,370円である(⑤)。一方このころから松山-大阪間の航空機利用も活発になっていた。所要時間は50分であった。しかし定員44人のプロペラ機フレンドシップで運賃が3,700円であり(⑤)、その利用客は限られていた。

 (イ) 瀬戸大橋の開通による新時代

 昭和50年(1975年)の時刻表では、特急「しおかぜ」に乗車すれば、宇和島-新大阪間は8時間、松山-新大阪間は6時間となった。これは昭和47年に山陽新幹線(新大阪-岡山間)が開通したことにより、時間が短縮されたためである。開通前と比べ1時間以上の短縮となっている。料金は、新幹線乗車券も含め3,500円である(⑧)。同年の松山高浜港-大阪間の関西汽船は、約10時間の所要時間で料金は2,520円であった。同年の全日空の航空路は、45分で松山ー大阪間を結び料金は6,700円であった。ちなみに松山-大阪間の定期航空路は、昭和45年(1970年)の大阪万国博覧会を大きな契機として飛躍的に乗客が増え、全日空のドル箱と言われた(⑨)。昭和48年にジェット旅客機も就航している。
 昭和60年(1985年)の松山-新大阪間の所要時間は6時間であり、昭和50年と変わらない。
 平成19年(2007年)現在、松山-新大阪間は4時間(乗換時間含む)で結ばれ、昭和60年と比べ約2時間の短縮となっている。これは、昭和63年4月に瀬戸大橋が開通して、四国と本州が1本のレールで結ばれ、スピードアップのうえで最大の障害となっていた宇高連絡船・宇野線の所要時間が解消されたからである。これにより岡山・松山間を特急が約3時間で結ぶようになった。さらに平成2年(1990年)の新型新幹線「のぞみ」の配備と、平成5年の予讃線電化による電車特急の配備により40分程度時間が短縮され、現在の所要時間となったものである。なお、この間の昭和62年(1987年)に国鉄は民営化され、全国7社のJRに分割された(愛媛県の国鉄はJR四国〔四国旅客鉄道株式会社〕の経営となった。)。
 現在の松山-新大阪間のJR運賃は10,770円で、宇和島-新大阪間の所要時間は6時間20分である。一方、松山空港-大阪空港間の飛行機の所要時間は45分で料金は15,600円である。運賃の面では、かつて鉄道と飛行機で大きな価格差があったが、近年その差は接近し航空路線とJRの競合が激しくなっている。松山から大阪に鉄道で行くのに、戦前は12時間かかっていたものが、現在は4時間で結んでいる。飛行機では1時間をきっている。このような交通の発達が、修学旅行を含めた人とモノの流れに大きな影響を与えている。

図表1-1-7 宇和島南高校、昭和62年旅程表

図表1-1-7 宇和島南高校、昭和62年旅程表

校友会誌、修学旅行記録から作成。

図表1-1-8 南宇和高校、平成8年旅程表

図表1-1-8 南宇和高校、平成8年旅程表

校友会誌、修学旅行記録から作成。