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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(1)戦前の南宇和・宇和島からの修学旅行

 ここでは、各時代の旅程表が多く残り、また交通面で鉄道幹線から離れていた南宇和(みなみうわ)高等学校(南宇和郡愛南(あいなん)町御荘平城(みしょうひらじょう))及び宇和島南高等学校(宇和島(うわじま)市文京(ぶんきょう)町)の修学旅行の変遷をたどり、併せて戦前の交通機関の状況を探った。
 南宇和高校は明治40年(1907年)に南宇和郡立水産農業学校として創立され、大正11年(1922年)に県立に移管し、南宇和郡立実業女子学校と合併するとともに、愛媛県立南宇和実業学校と改称し、昭和23年(1948年)から新制高校となった。また、宇和島南高等学校は、明治32年(1899年)創立の町立宇和島高等女学校(後に県立)と、明治42年創立の私立実科女学校(昭和18年に県立鶴島高等女学校となる)を母体に、昭和24年に両校が統合されて宇和島南高等学校となった。同校は、平成15年から中高一貫教育として中学校を設置し、平成18年度に宇和島南中等教育学校となった。

 ア 南宇和実業学校の船中泊5日の修学旅行

 図表1-1-1の南宇和実業学校の大正15年(1926年)の旅程表を見て驚くのは、9泊のうち5泊までが船中泊ということである。当時、宇和島運輸による高知県宿毛市(すくもし)・南宇和郡深浦(ふかうら)港から宇和島(うわじま)・松山(まつやま)を経て大阪を結ぶ、「四国線」という航路が南宇和郡の人々にとって大阪方面への唯一の大量輸送機関であった。まだ高松-松山間も国鉄(現JR)が結んでいない時期であり、戦前までの南宇和郡や宇和島市の人々にとっての海上交通の重要性がわかる。現在のあわただしい団体旅行とは違って、大阪到着以降は大阪・奈良・京都とじっくりと古寺や景勝地をめぐっていることが、かえって新鮮である。
 大正15年の同校の校友会誌の旅行記から抜粋し、当時の修学旅行の雰囲気を探ってみた。
 「不安と喜悦にふるえている我々一行を乗せた木浦丸は、天地もくつがえるような一笛を残して深浦港を後にした。上甲板にたって遠くを見渡していると、祖国の港を出て行く軍艦の艦長になったような気がして心がはずむ。(中略)ボーイに聞くと今佐田岬(さだみさき)を通過しているのだという。船の動揺が次第に激しくなる。ともすれば体が転がりそうでならぬ。はては船がべりべりと鳴りだす。苦しいことといったら生まれてはじめてである。川之石(かわのいし)であんなにバナナを食わなければよかった。(中略)午前7時、船は長浜(ながはま)を出た。『どなたもご飯でございます』とボーイが起こしにきた。起きる者も返事をする者もいない。昨夜と比べてなんと言う変わりようだ。飯など見るのもいやである。」
 「一同挨拶(あいさつ)をして(大阪)朝日新聞社を出て、三越へ参りました。1階はまったく人で一杯で何も見えませんでした。4階に上るときエスカレーターに乗ったので非常におもしろうございました。エレベーターで降りるときはひやりとしましたが、ハッと驚いているまもなく1階につきました。読本で習ったデパートメントストア、こんなものかと、少しえらくなったような心になって・・・」
 「今日はいよいよ帰途につくというので、京都の伏見屋旅館を出て、三宮(さんのみや)行きの三等切符を買って(中略)窓から顔を出して移り行く景色に見とれていると不意に、ごう然たる大音を立てて上りの急行列車が飛ぶようにしてすれ違っていきました。私は肝もつぶれるばかりに驚いて、思わず後ろへ跳ねかえりました。後で車内の隅に『危険ですから顔や手を窓から出さぬように』と注意書きが掲げてあったのでなんだか恥ずかしいような気がしました。」
 同校の昭和11年(1936年)の女子部2年の旅程表を見ると、日数は9日で宇和島運輸の「四国線」航路利用という点は変わっていないが、松山・高松の下船・観光が省かれ、2泊で大阪まで直行する旅となっている。伊勢神宮(いせじんぐう)の参拝、宝塚(たからづか)歌劇見学が挿入され、帰路に別府(べっぷ)航路で別府に直行・一泊し、別府・宇和島航路で深浦港に帰っている。一方で昭和12年の男子部3年は、12日間の日程で同じく松山・高松を素通りし、伊勢から東京・日光(にっこう)を回り、京都・大阪を周遊して帰路についている。前述の大正期の修学旅行と比べ、交通手段は変わらないが旅行範囲が格段に広がっている。丹那(たんな)トンネルの開通(昭和9年)などにより東海道本線の走行時間が短縮され、遠距離の旅行が可能になったためであろうか。

 イ 宇和島高等女学校の2週間に及ぶ修学旅行

 図表1-1-2の宇和島高等女学校の日程を見て気がつくことは、現在と比べ旅行期間が長いことである。船中泊・車中泊は南宇和実業学校と比べ少ない。伊勢神宮、橿原神宮(かしはらじんぐう)、吉野(よしの)(後醍醐天皇史跡)、京都御所(きょうとごしょ)、桃山御陵(ももやまごりょう)など、皇室に関係する神社・史跡の訪問が多い点も、戦後の修学旅行と大きく違っている。移動はおおむね鉄道であり、特に大阪・奈良・京都近辺の移動時間は、現在と比べてもそん色ないほど短時間である。これは関西圏で早くから発達していた私鉄の利用がその理由であろう。東京-京都間は、東海道本線でも9時間以上かかっている。当時の時刻表によるとこれは「急行列車」になる。また奈良・日光・東京・京都・大阪では、1日以上をその地の観光に費やしており、現在の修学旅行とは比べ物にならないくらい、日程的にはぜいたくな旅行であるとも言える。
 昭和12年の『修学旅行報告書』の生徒感想を抜粋し、当時の女学校の修学旅行の雰囲気を探った。
 「桟橋の先生方や友達の『さようなら、さようなら』の声に自然目頭の熱くなるのを覚え、悲しみをそそるがごとくガランガランというドラが鳴り響いた。船は桟橋を静かに離れ、船尾のあちこちで盛んに泣いている者もある。初めて親と別れる人たちであろう。ハンカチもついに見えなくなってしまった。私も思わずいままでこらえていた涙がぽとりと落ちた。第十五宇和島丸のみが波をけって進んでいく。吉田(よしだ)港で名産のミカンを驚くほど積んでまた港を出た。」「11時過ぎに吉野についた。ケーブルを横目ににらみながら、吉野山へ第一歩を踏み出した。道は九十九折(つづらおり)の急坂である。八丁ばかり登って吉野朝跡へ出た。右手にかすかに金剛山脈が横たわっている。若葉の香りがどこからともなく襲ってくる。心地よい春風がほほをなで、何もかもが美しい。何もかもが快い。私は吉野がおおいに気に入った。」 
 「新橋を過ぎ東洋第一を誇る大ステーションにすべりこんだ。いよいよ大東京。さすがは帝都、さすがは国都と感嘆の辞を叫んでいる者もあれば、『これが東京か』といささか不満をこぼしている者もある。駅前に靴を肩に風呂敷包みを片手に持って整列した格好は道行くすべての人の目を引いた。私たちは田舎の質朴さを都会の人に見せるのはこの時と思って、先生の号令に従い正しき態度をとったのである。二重橋前に整列して万世一系の天子座す御座所をまのあたりに拝み奉る。(中略)午後4時に宿に帰った。10時まで外出を許される。皆それぞれ思い思いにあこがれの銀座を味わいに外出した。おそろしかったと青い顔をして帰る者、東宝へ行ったと満面に喜びをたたえて帰る者、種々ある中に午後11時の消灯とともに東京の第一夜をすごした。」
 「日光を後にして1時間ほどたつと宇都宮(うつのみや)に着いた。宇都宮を発つと麦畑の中に人家がボツボツ見えて子どもが遊んでいる。一生懸命手を振ったがこっちを向いていない。どうも具合が悪い。向こうのほうでドッと笑う声がする。何かと思ってみると、皆が総立ちになって先生の寝顔を見ているのであった。また、うとうとしていると、『筑波山(つくばさん)よ、筑波山』の声。私たちは皆いっせいに窓を開けて外を見た。麦畑のかなたにちんまり座っている、箱庭に入れたいくらい小さい山である。」

 ウ 戦前の愛媛の交通を支えた国鉄と船

 戦前の修学旅行当時の県内の交通事情はどうだったのだろうか。昭和10年(1935年)の交通路線図を見ると、国鉄(現JR)の路線は高松から大洲(おおず)・内子(うちこ)までしか通じていないことがわかる。同年の時刻表によれば、鉄道(国鉄)で松山から大阪に行くためには、約12時間の所要時間がかかる。運賃を計算すると、5円90銭である(三等席普通列車乗車)。宇和島から大阪に行く場合は海路をとる以外ない。宇和島運輸の汽船で宇和島を18:30に出港し、大阪到着は翌々朝の3:00となり32時間30分かかり、料金は5円50銭である。当時の白米10kgの値段は2円50銭であり(②)、5円は現在の貨幣価値に直すと7,000円程度と思われる。
 県内の国鉄路線は、高松駅から西に順次延伸してきた。大正5年(1916年)に川之江駅が開業し、松山駅開業は昭和2年(1927年)である。宇和島駅開業は昭和20年(1945年)である(④)。国鉄以外には松山市内を走る伊予鉄道、大正7年(1918年)開業の長浜-大洲-内子間の愛媛鉄道、大正3年(1914年)開業の宇和島-吉野生(よしのぶ)間の宇和島鉄道があったが、それは限られた区間だけの軽便鉄道であり、昭和8年に愛媛鉄道・宇和島鉄道が国鉄に買収された。鉄道代替のために、昭和9年以降省営(しょうえい)バス(鉄道省営業のバス、後の国鉄バスで現JRバス)が、久万(くま)町方面(後に高知市まで延長)や南予(大洲から日吉(ひよし)・近永(ちかなが)等)の山間部を結びはじめていた(④)。しかし昭和20年の国鉄開通までは、宇和島市や南宇和郡では、大阪・東京に向かう修学旅行等の旅客大量輸送ができる交通機関は、汽船しかなかったのである。

図表1-1-1 南宇和実業学校、男子部3年生旅程表(大正15年)

図表1-1-1 南宇和実業学校、男子部3年生旅程表(大正15年)

『南宇和実業学校校友会誌』から作成。

図表1-1-2 宇和島高等女学校、3年部旅程表(昭和12年)

図表1-1-2 宇和島高等女学校、3年部旅程表(昭和12年)

『昭和拾弐年東京方面修学旅行報告書 宇和島高等女学校』から作成。