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えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(1)神宮のわら神輿

 今治(いまばり)市神宮(かんのみや)は今治市西部、品部川(しなべがわ)上流域に位置し、産業は主として果樹栽培である。地名の由来は、野間(のま)郡(高縄半島の北端に位置していた伊予国の旧郡名)唯一の式内社である野間神社である。この項で取り上げるわら神輿(みこし)(ワラミコシあるいはワラゴシ)は、同社の秋の祭礼に出された神輿である。わらで鳳凰(ほうおう)の形に作った神輿を子どもたちだけで担ぐ珍しい祭りである。

 ア かつてのわら神輿

 今治市神宮、野間神社宮司の**さん(昭和30年生まれ)に話を聞いた。
 「私は、昭和30年代から40年代にかけてわら神輿を担ぎました。その経験によるわら神輿(みこし)を説明し、続いて現在(平成18年)の神輿の違ってきた部分を説明します。
 わら神輿は春の大祭に運行されるものと、秋に子どもたちだけで運行するものがあります。そのうち秋の行事がわら神輿として著名な行事です。春のものは野間神社の春の大祭に、子ども神輿が無いものですから秋のわら神輿で代用しているものです。しかし、春のわら神輿の作り方は昔風の大きな神輿の作り方になっています。胴の直径が約70cmと秋のものよりはずいぶん大きなもので古風を残しています。
 ここでは秋のわら神輿を取り上げます。わら神輿の主な構造は、まず榊(さかき)か御幣(ごへい)、鳳凰(ほうおう)の頭、広げた2枚の羽根、12本に分かれた尾、それらを取り巻く4本の蕨手(わらびて)がついた胴巻き、そして担ぎ棒になっています(写真2-1-15参照)。
 私たちのころのわら神輿は、10月のはじめに井戸(いど)、原(はら)、向(むかい)、久保(くぼ)、上(かみ)の各集落ごとに5日間かけて行われていました。毎日やるのではなく飛び飛びに実施されていました。各集落の子が、その集落の神輿を担ぐのではなく、五つの集落から集まった子どもたちが、5日間にわたって各集落を順次担いでいくのです。子どもは中学校1年生と小学生の全学年の男子で、約30人くらいが集まっていました。そのうち中学1年生は全員が大将という格付けで、もらったお菓子をみんなに分けたり、神輿を担ぐときの声出しを指令したりするリーダー役でした。
 子どもたちは、学校から帰ってしばらく経った午後の5時半ごろに、今夜神輿を担ぐ集落にあるお稲荷さんとか椿さん、恵比寿神社などの小宮に集まってきます。そしたら、わら神輿はもう作って置いてありました。私も集落によっては神主として小宮へ呼ばれ御神霊移(おみたまうつ)しをして御幣を立てたりもしますが、集落によってはなにもせず榊(さかき)だけの場合もあります。その意味ではわら神輿は神社の行事とは異なる性格ももってきているといえます。当時は今と違って、わらはいくらでもありましたから、わらを集めたりすることはありませんでした。集落の年寄りらが昼過ぎから作り始めて子どもたちが集まったころには出来ていたんです。この神輿は、集落ごとに作られるんです。それを担いでオトウモト(お当元又はお頭元)へ行きます。オトウモトは集落の家が順番にやってくれます。そこへ行くと大皿に盛られたテンコロ(おにぎり)と甘酒を出してもらっていました。各人がテンコロを幾つか食べて、甘酒を飲んで腹ごしらえをし(写真2-1-16参照)、わら神輿には御神酒(おみき)をかけてから各家々を回っていました。御神酒をかける風習は、今でも古いしきたりを守っている家では行っています。オトウモトだけでなく途中の家でもかける風習がありました。この風習は、春の大祭の本物の神輿にも見られます。『伊予民俗ノート(⑨)』によると、このオトウモトでは、わら神輿を作ったお年寄りに手料理3品とお汁が出されて一杯やるのだそうです。子どものときは知りませんでした。今も枝豆やら唐揚げのオードブルで軽く一杯やっています。
 各家に行くときには、音頭を歌います。
 『お輿(こし)さんが ござった ヨイヤナー ヨイヤナー 去年の火事に 片羽根焼いて 今に片羽根 毛が生える ソレヨイヨイヨイヤナー アレワイナ コレワイナ コーラー ヨイトセ コリャ ヨイトコセー ヨイヤナ』
 これは、春の大祭のときに本物の御神輿(おみこし)さんが歌う伊勢音頭の一節で、ほかに『桜三月 あやめは五月 咲いて年取る梅の花』とか『沖の暗いのに 白帆が見える あれは紀州のみかん船』などは今も良く歌います。けど、わら神輿では『去年の火事に…』しか歌いませんでした。この音頭の声が小さくなるともっと大きな声を出すように大将がハッパをかけていました。家に着くと『チョーサーヤー』とかけ声をかけて神輿を下ろします。神様が来たぞという合図です。地べたに下ろすと家の人にしかられるので、必ず片方は石の上や既に用意されているミカン箱、今ならキャリーの上などに置いていました。
 ここで家の人からお菓子をもらいます。私のやったころはまだお菓子が出回った時代ではなかったですから、イモケンピなどのイモ菓子とか、煎餅(せんべい)みたいなものが普通です。みんなが適当に並んで、大将が順にお菓子を分けていました(写真2-1-17参照)。今考えると汚い話かも知れませんが、帽子で配ってもらうお菓子を受けていました。順番に取っていって余ったらまたはじめから、足らなければそこで終わりです。私らのころは、各家がどの程度の菓子を出すか取り決めもなかったようで、なくなったら終わりでした。もらったお菓子をナップサックなどに入れていくと五つの集落を回ったころにはかなりな量になって、これがうれしかったですねえ。実際に食べてみると同じような駄菓子ばかりで最後は飽きてくるんですがね。飽きてくるとお菓子をおもちゃにしたりして、あれは感心した風潮ではなかったです。たまにグリコのキャラメルとかチョコレートなどの高級品がありますと、大将が夜の相撲大会の景品に取ってのけていました。
 回り終わるころには日もとっぷり暮れて、野間神社に帰ってきます。最初の門の内側の広場でわら神輿をハヤシ(燃やし)ていました。その明かりで相撲を取るのです。わらですからすぐ燃えますし、明かりといえば護身用の小さな懐中電灯だけですから、神社の中から木など拾ってきて燃やして相撲を続行していました。学年対抗で最後は学年を超えて対戦し、その三役に景品が出ていたのです。翌日が学校の休みの日は遅くまで遊べますのでうれしかったのを記憶しています。それでも10時過ぎには止めていて、懐中電灯の明かりで家路についていました。
 私たちのころ、子どもだけでやる行事はわら神輿と亥の子だけでした。だから、わら神輿が近づくとわくわくする気持ちを抑え切れませんでした。大雨になった経験はないんですが、少々の雨なら合羽(かっぱ)を着てでもやっていました。」

 イ 現在のわら神輿

 「現在もほとんど変わりはありませんが、細かなところで徐々に変化してきています。参加者は中学生が抜けて小学生以下になったんですが、人数は昔と変わらないか少し増えています。それは、新しく団地ができたり、いままでやっていなかった集落が参加したりで2地区増えたこと、男子だけだった遊びに女子が加わったこと、幼稚園の子どもたちも参加しだしたし、お兄ちゃんやお姉ちゃんがいる子はベビーカーに乗ったような子まで、最初だけ参加しはじめたことによります。今年は10月3日が辻(つじ)、5日が井戸、9日が原、10日が向、12日が久保、14日が上、15日が横田(よこた)の各集落で行われます。最初の辻と最後の横田が新しく加わったところです。実施日は昔からだいたいこんなものでした。なぜ飛び飛びなのかは判りません。
 昔はわら神輿も各集落で作られており、毎回ハヤシて遊んでいました。しかし、今は作れる人も減ったこと、さらに新しく加入した地区には作る人がいないなどの理由で使い回しにしています。使い回すときは神輿をハヤスことはできません。今は4、5体くらいがその都度作られているでしょうか。
 相撲だった夜の遊びも変わり、缶(かん)けり、肝試しなどに形を変えて続いています。私らのころは缶けりや肝試しは亥の子のときの遊びでした。私のころの記憶で今とは違うかも知れませんが、缶けりは、一定の輪を描(か)いて、その中に置かれた缶(かん)をけり出すと、鬼になった者以外は逃げ出して、木の陰とか菊石の後ろに隠れます。鬼が隠れた子を見つけて捕らえても、見つからなかっただれかがまた缶を輪の外にけり出すと、捕まっていた者が生き返り、鬼は缶を輪の中に入れ、再び隠れた子を捜す遊びでした。肝試しは神社の隣がお墓なんです。墓の間に何かを置いてそれを取りにいく者を先輩が隠れていて脅すんです。私らのころには、これに茶目っ気のある和尚さんが加わったりして、肝試しにも迫力がありました。
 オトウモトが出すものにも変化が見られ始めました。テンコロが炊き込み御飯になったり、パンになったり、甘酒はだいたいジュースに変わったようで、何種類かのジュースを紙コップで飲んだり、ペットボトルで支給されたりしてます。それでも一応は神事ですから、古風を守るオトウモトでは甘酒のカンを持たせて帰らせているところもあるようです。
 最近はお菓子も袋や箱ごともらうので、リュックにもすぐ一杯になり、予備の袋を持ってきたりしています。大将がお菓子を配るときには、大きい順に並んだり、小さい順に並んだりしてお菓子を受け取っていますが、最近はよちよち歩きの子どももついて回ったりしていますので、そんな子にはそれなりの配慮をしているようです。
 さらに保護者の対応も変わりました。昔は、わら神輿作り、オトウモトの当番、各家がお菓子を準備するくらいが大人の出番でしたが、最近は夜遅くなることもあって保護者数人がついてまわり、神輿(みこし)をハヤスときにもいます。子どもたちが遊んでいる間は、車のライトを照らして明かりとしているようです。世話をする責任者は神宮地区の学団理事をしている3名です。それだけでは人数が不足するので当該集落の保護者も加わって5、6名でやっています。そのほか神輿が小さくなる傾向はありますが、本来の形は今も昔のままに伝えられています。」

写真2-1-15 キャリーに載せたわら神輿

写真2-1-15 キャリーに載せたわら神輿

今治市神郡。平成18年10月撮影

写真2-1-16 オトウモトの振る舞い

写真2-1-16 オトウモトの振る舞い

今治市神宮。平成18年10月撮影

写真2-1-17 お菓子の分配

写真2-1-17 お菓子の分配

今治市神宮。平成18年10月撮影