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えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(2)惣川の相撲甚句

 野村(のむら)町惣川(そうがわ)は、肱川(ひじかわ)の支流船戸川(ふなとがわ)流域に位置し、まわりを700~1,000m級の四国山地の山並みに囲まれ、気候は冷涼で、産業は農林業が中心である。江戸時代後期から伝えられているという子ども練り相撲甚句について、惣川の**さん(大正4年生まれ)に聞いた。

 ア 祭りと甚句

 「惣川という所はもともと相撲の盛んな所でした。私の若いころにはお大師さんを祀(まつ)っているコウソ、オイベッサンを祀っているテングダキの2か所に土俵があり、城川町のアマツツミヤマにも惣川からたくさんの人が相撲を取りに出かけていました。青年団が相撲を取るときには元庄屋の土居家の敷地内の広場にも土俵が作られていました。子どもたちの相撲も盛んで、テングダキの大会には子どもの大会も織り込まれていました。学校でも三村(惣川村、横林(よこばやし)村、遊子川(ゆすかわ)村)大会といって学校間の競技大会の中に相撲大会がありましたし、子どもらの遊びにも相撲はよく行われていました。現在(平成18年)大相撲で活躍している玉春日関も惣川の出身です。そんな環境から子ども練り相撲甚句(写真2-1-12参照)も生まれ、続いてきたのかも知れません。
 この辺りでは子ども練り相撲甚句のことを単に甚句といっています。この甚句は、天保(1830~1843年)のころ、庄屋の土居家の分家の方の肝いりで始まったもので、船戸森三島神社の練り物の一つで現在まで続いています。
 昔は、練り物もたくさんあり、幟(のぼり)を先頭に、牛鬼、かぶ、御長柄(おながえ)、だいばん、笠鉾(かさほこ)、八つ鹿、再びだいばん、鉄砲、神馬、甚句、神輿、浦安、などの練り物が長い列を作って、2kmほどあった神社と土居家の間を移動していました。その途中に御旅所があって、そこと土居家の2か所で隔年に鹿や甚句などが行われていたのです。鹿は江戸時代に宇和島藩領であった関係からか八つ鹿でした。神馬は土居家にいた本物の馬でちゃんとお飾りを付けて土居家から神社まで来ていました。かぶというのは獅子舞に似たようなものです。鹿やだいばんなどは宮成(みやなる)から、甚句や四つ太鼓は西組(にしぐみ)、牛鬼、御長柄は寺組(てらぐみ)集落とそれぞれ分担して練り物を出す約束になっていました。」

 イ 甚句の展開

 「甚句は実際には相撲甚句と相撲と弓取りの内容に分かれています。原則としてすべて小学生がやっていました。私は高等科のときにも行司役をやりましたから、たまに現在の中学生にあたる子どもがやったことがあるのでしょう。まず相撲甚句は、大人が歌う唄(うた)と、子どもがはやす囃子(はやし)が掛け合いで行われ、それに伴って子どもたちが輪になって手をかざしたりする簡単な所作をするのです(口絵参照)。この甚句のときの服装は、化粧まわしと法被(はっぴ)です。
 このような相撲甚句が終わると子ども相撲が始まります(写真2-1-13参照)。子どもの内、最高学年が裃(かみしも)、折烏帽子(おれえぼし)を着けて行司役を務めます。これは大役で相撲最初の口上、三役口上、弓取り口上を述べます。最初の口上は、『東西東西 そもそも当社 御神祭(ごじんさい)につき しゅうりょうすずしめんのため 練り相撲興業仕(つかまつ)る その沙汰(さた) 各々早々 ご来臨下されたく(⑧)…(後略)』とやるのです。それから相撲が始まります。相撲は白いまわしを着けて行います。取組が何番あるかはまわしの数により、子どもの人数により色々です。三役相撲があるときには、その口上をやはり行司役が述べます。『東西東西 さて 先刻より入れかえ立てかえ あわせご一覧の処(ところ) 日も夕刻にななめき(⑧)…(後略)』。取組がすべて終わったら弓取り式があります(口絵参照)。最高学年の相撲で勝った方が、一番低学年の子がつけている三日月の化粧まわしを着けて行います。この弓取り式のときは相撲のときとは違って、化粧まわしの下に赤いまわしを着けて行います。行司役が口上を述べます。『東西東西 そもそもこの重籐(しげとう)の弓 鎮西八郎源為朝 河野みうち 又五郎景久剛勇にて 相撲を取らんと 高札を立て 河野の三郎守忠のぞんで 力をあわせども(⑧)…(後略)』。そのあと簡単に作った弓を三日月に授け、弓取り式が行われて終わりです。相撲甚句といい口上といい、私らにも意味が分からないところがあります。子どものときにはほとんど分かりませんでした。
 昔の化粧まわしは14本ありましたが、現在は作りかえて、谷風、小柳、三日月、鏡岩、孔雀(くじゃく)、小野川など10本です。以前は子どもの数が多くて、だれを選んで甚句に出すか困った時期もありました。だいたい学年ごとに体の大きさで良い取組になるよう組み合わせて選ぶんです。
 祭りは毎年11月1日で、日曜日でないこともありますが、小学校が1時間だけ授業にして、あとは放課ということで協力してくれています。
 祭りは、めったにもらえない小遣いももらえるし、屋台も出ます。屋台はお菓子屋さんや農具売り、食べ物屋や酒屋まで出て村中が総出で楽しんでいたんです。甚句に出るか出ないかを問わず、子ども心に、ワクワクするような楽しみでした。まして、甚句に出るとなると祭りの主役になったような気がしていました。あまり行事などもない時代で、特別の思いを持つ行事だったのです。
 甚句の練習は、本番の一週間ほど前から西組の集会所で夜間にやっていました。指導者は、特別な組織でやっているわけでなく、以前には唄(うた)を伝えていた親子の人が子どもの世話もしていました。今はその人も亡くなって篤志家の青年が子どもたちの世話をして甚句を伝えているような状況です。甚句や口上など長いので最初に入った子は大変ですが、分からない所は高学年がやってくれますので、ついて言っていればいいわけで、高学年になるほど毎年やっているわけですから、そう苦労だった記憶はありません。甚句の練習が終わった後は、もう取組の相手は決まっていましたから、にぎやかに相撲の練習をしていました。
 甚句はお祭りの最大の呼び物というか余興だったので、大人たちが一番沸く行事だったし、何よりも子どもたちが熱心にやるんです。練習を休む者はいないし、取組も一生懸命取っていました。相撲に負けて泣き出す子もいましたが、神社からは御祝儀にお菓子や学用品が出てましたから楽しみの方が大きかったです。なにより、祭りのお供に出してもらうことは誇らしいことで、大人たちからはやしてもらいますし、脚光をあびます。特に行司役をやらしてもらうと相撲を仕切っているような気がしていました。
 現在(平成18年)では、牛鬼、鹿の子、だいばん、甚句、神輿(みこし)、浦安しか出ていません。土居家まで行くのも止められ、近くの中学校の校庭を使ったこともあったんですが、だんだん神社に近くなって、今は神社の前の広場でやって終わりです。
 過疎で子どもたちもいなくなりました。この惣川も昭和30年代には3,700人ほど人口があったんですが、今では700人くらいです。惣川小学校の子どもは約360人もいたのに今では14名です。惣川西組の男の子だけでやっていた甚句も、惣川全体に呼びかけてさえ支えにくくなっています。今年はなんとか8人ほど集まって実施することができました。それでも子どもたちは元気で『面白い』といって積極的に参加してくれます。相撲の後、勝敗にかかわらず行司から懸賞金が授けられますし(写真2-1-14参照)、最後には神社から御馳走も出されます。肌寒いなか元気にまわし一つで相撲を取っています。」

写真2-1-12 相撲甚句

写真2-1-12 相撲甚句

西予市野村町惣川。平成18年11月撮影

写真2-1-13 子どもの相撲

写真2-1-13 子どもの相撲

西予市野村町惣川。平成18年11月撮影

写真2-1-14 懸賞金をもらう

写真2-1-14 懸賞金をもらう

西予市野村町惣川。平成18年11月撮影