データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(1)八反地の亥の子

 松山(まつやま)市八反地(はったんじ)(旧北条(ほうじょう)市)は、立岩川(たていわがわ)下流左岸の平野部に位置し、早くは葉タバコ、近年はミカンの栽培や稲作が中心である。近くに式内社(10世紀の「延喜式(えんぎしき)」に、すでに名前が記されている神社)の国津比古命(くにつひこのみこと)神社と櫛玉比売命(くしたまひめのみこと)神社がある。
 亥の子の形態は大きく二つに分かれる。わら亥の子と石亥の子である。その分布を『愛媛県民俗地図』は、『宇摩(うま)・新居(にい)・周桑(しゅうそう)郡地方および温泉(おんせん)郡東部地方が藁(わら)亥の子、松山平野から上浮穴(かみうけな)郡・喜多(きた)郡地方は混在地域、その他は概(おおむ)ね石亥の子地域となっている。(①)』としている。ここで取り上げる八反地は石亥の子である。ただ石亥の子といっても細部を見ると地区によってさまざまに変化する。例えば亥の子唄(うた)は、地区内でも多少の変化が見られる。

 ア 亥の子の宿

 松山市八反地(旧北条市)の**さん(昭和6年生まれ)と**さん(昭和36年生まれ)に亥の子について聞いた。
 「八反地地区は約230軒で、この地区を50~60軒単位に分けた集落として、善源(ぜんげ)、馬場上(ばばかみ)、馬場下(ばばしも)、中井手(なかいで)があり、それぞれに亥の子組があります。これらの集落は同一地区ですから、亥の子歌の歌詞の一部を除いて亥の子のやり方は変わりませんから、ひとまとめにして話していきます。
 亥の子は少年団がやっていました。少年団というのは戦前からの言い方で、子ども組のことです。少年団の行事には、かつて虫追いもありましたが、昭和30年代には祭りのときの子ども神輿(みこし)と子どもだんじりと亥の子だけになっていました。少年団は、小学校3年生から中学校3年生までの男子で構成された団体です。昭和40年(1965年)ころで30~40人くらいおりました。亥の子の縄をつなぐ金具が足りないので、一本の縄を何人もが持っていました。大将は中学校の3年生の中から一人選んでいました。
 亥の子は旧暦の10月亥の日にやる行事ですが、この地方では新暦の11月亥の日に行います。亥の日は年によって11月に2回ある年と3回ある年とがあり、あるだけ実施しています。
 亥の子の宿は、その年男の子が生まれた家に引き受けてもらっていました。もしA、B、C、D4軒の家に子どもができて、2回亥の日がある年の場合には、1回目にA、Bの家が、2回目にC、Dの家に宿を引き受けてもらうのです。その場合、ついて回る順番は生年月日の早い順にしていました。また、生まれた子どもの数が亥の日より少ないときには、大将の家が仮宿をやっていました。宿の家には、2、3段くらいの飾り棚をミカン箱などで作って敷物を敷き、そこにお重ねの亥の子餅(もち)やお盆に盛ったミカンやカキなどの果物をお供えし、さらに亥の子石の大、中、小などをお祀(まつ)りするのです。大きい亥の子石は直径で30cmくらい、中の石は20cmくらい、小で15cmくらいの物でした。この亥の子石は大将の家から宿に渡され、最後には中学校2年生の大将予定者の家に順送りで引き継がれていました。さらに宿には旗を何本も立てています。これは男の子が生まれて宿になった家が、生まれた子の名前と生年月日、家紋を入れて作った物です。色は赤が多いのですが黄色や緑もあります。この旗は次々に引き継がれ次第にたまっていって、何本も立てられるようになったんです。去年の中井手集落では衣装箱に二つくらいたまっていたので、それぞれ名前のところに返しました。」

 イ 亥の子の実際

 「亥の子が始まるのは学校が終わって午後5時ころでした。めいめいが亥の子石につける縄を持って集まってきます。11月ですからすぐ暗くなるので、昔は高張り提灯(ちょうちん)をもって亥の子を先導していました。この習慣は早くなくなりましたが、手振り提灯で亥の子をつく所を照らすことはやっていました。終わるのは午後の9時も10時もになっていました。
 亥の子のつき始めは亥の子宿です。宿の場合には大きな亥の子石で大きな穴をあけます。穴の形は、ちょうど正三角形の中に穴が三つあくようについていました。一般の家でつくのは中の大きさの亥の子です。いつも大の亥の子石を使っていたら重くて体力が持たないからで、あける穴も1個です。
 亥の子唄(うた)は『祝いましょう』と『松づくし』の2種類です。もっと古くには他の唄もあったようですが伝えられていませんでした。リズムは亥の子石が上下するリズムですから、みんな同じです。
 『祝いましょう』は、『一では俵を踏まえたり 二ではにっこらこと笑わんせ 三ではお酒を作り込め 四(よ)つは世の中良いように 五(い)つはいつもの如くなり 六(む)つは無病息災に 七つ何事ないように 八(や)つは屋敷を広めたり 九つこぐらを建て並べ 十ではとんとこさいと祝いましょう』です。
 『松づくし』は、『一本めいには池の松 二本めいには庭の松 三本めいには下がり松 四本めいには茂り松 五本めいには五葉の松 六つ(は)昔の高砂や 七本めいには姫小松 八本めいには浜の松 九本めいにはくよの松(九つ小松を植並べ) 十では豊国(とよく)の伊勢の松』です。( )の中は、同じ八反地でも違う唄になっている所があるという意味です。
 亥の子宿での唄は少し違っていまして、最初に『祝いましょう 祝いましょう 亥の神様を祝うのにゃ 酒や魚や八木(はちぼく)で めでたい音頭で祝いましょう』という前置きがつきます。そして『祝いましょう』や『松づくし』に入っていくのです。
 この地区では一人の子どもが唄を歌います。他の者は『サーエンシ エンシヤ』という合いの手を入れます。例えば次のようになります。『サーエンシ エンシヤ 一本めいには池の松 サーエンシ エンシヤ 二本めいには庭の松 サーエンシ エンシヤ』という調子です。亥の子宿では、亥の子の穴を三つもあけますし丁寧にもやりますので、一つの唄を歌い終わっても完成しません。一つの唄が終わると唄を歌っていた子どもは『お次は誰々(だれだれ)さんに譲りましょ。』といい、別の子どもが別の唄で続ける決まりになっていました。一般の家では穴が一応形作られたら『ここらで切りましょ。』といって、唄の途中でも中止していました。
 亥の子をつくと御祝儀をもらっていました。お金でもらうのが一般的でしたが、中には米や野菜などの現物でいただいたこともあります。米は後の亥の子祝いに使っていましたが、野菜は当日という訳にいかないので後ほどもらってサラリーマン家庭などの非農家へいって気持ちばかりの金額で売っていました。これらのお金は御祝儀のお金と一緒に大将の家で管理してもらいます。
 ついて回っていると、早くついて回った集団が襲ってくることがありました。中学生が多い集団などに襲われたら、小学生が多い集団なんかとても抵抗できませんので、亥の子石を取られるんです。取り上げた方は、亥の子石を水槽とか川の中に捨てるんです。取られた方は亥の子石を捜さないといけません。本当にみじめで情けない思いをしました。見つかれば続けてついて回ることになりますが、分からないときには宿に帰って別の亥の子石を出してもらって、ついて回っていました。
 つき終わったら再び亥の子宿に帰ります。宿では飾ってあったお重ね餅(もち)を子どもの人数分に分けて、別に小餅やお菓子なども人数分用意してあります。それを大将から分けてもらって解散していました。暗闇(くらやみ)の中で、よその集団に襲われはすまいかと思いながらつく亥の子はそんなに面白くはなかったです。
 面白かったのは亥の子祝いで、大将の家を宿にして冬休み中にやっていました。大将の家では、もらった米や御祝儀のお金で昼にイカ飯、3時ころにはカレーライスを作ってもらいます。子どもたちは、朝から集まってきて、それを食べたり遊んだりしていました。遊びにはドンマや瓦倒(かわらたお)しなどがあったと思います。ドンマというのは一人が壁にもたれて立ちます。次の者はその股(また)に頭を突っ込んで、さらに次の者もというようにして馬ができます。じゃんけんで勝った者がそれに飛び乗って遊ぶもので、足で馬の胴を締め上げて降参したら、もう1回馬をやる決まりでした。また、昔はよく軒下などに古い瓦を積んでいる所がありました。これをたばこの箱くらいの大きさに割って、きれいに磨いてふちどりし、遠くに立てた瓦に別の瓦を投げて倒す遊びが瓦倒しです。夕方には、亥の子祝いの宿が買ってくれていたお菓子をみんなで分けて解散です。分けるお菓子の量は、上級生ほどたくさん取り、余ったお金を配分するときにも、かなりな差をつけていました。さらに解散してからも、中学生だけこっそり残ってすき焼きを楽しみながら一晩中遊ぶ風習がありました。
 この地区では亥の子用でなくても、旧家にはその家の亥の子石がありました。男の子が生まれたときなどに亥の子石を作ったもので、亥の日に床の間に亥の子石と餅(もち)、ミカンやカキをお供えする風習があります(写真2-1-2参照)。亥の子は男子出生を祝いますが、収穫祭でもあったからです。
 それに亥の子には伝承があって、亥の日にこたつを入れるのは一般的な言い伝えでしたし、亥の子でついた穴は女の子がまたいではいかんといっていました。穴はしばらくそのままにしておいて、やがて家の人が埋め戻していました。
 現在(平成18年)の動きをみますと、例外的なのは中井手集落で、人数も多く男子だけでやっています(口絵参照)。しかし、その他の集落では子どもが少なくなって、男子だけではやれず女子も入れていますが、それでも5、6人です。縄の付け方も気をつけないと、亥の子石のバランスが悪くなり、持ち上がらないくらいです。大きな亥の子石は祭壇にも飾らなくなり、宿でも中の亥の子石でつき、他の家では小の亥の子石にしているくらいです。亥の子宿も女の子が生まれた所にも頼んでいます。現在は提灯(ちょうちん)もなくなりました。亥の子祝いも人数が少ないせいもありますが、集まっても個人でテレビゲームをやったりで盛り上がりませんね。御祝儀のお金は最近取り決めができて1回500円、3回ある年でも1,000円までです。ただ、余ったお金は昔のままに子どもたちに渡して、分配には親は口を出さないことになっています。」

写真2-1-2 床の間に祀られた亥の子石

写真2-1-2 床の間に祀られた亥の子石

松山市八反寺。平成18年11月撮影