データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(3)いろいろな遊び

 **さんに、男の子の遊びについて聞いた。
 「当時の子どもは、みんな肥後守(ひごのかみ)(小刀)を持っており、これでいろいろなものを作りました。チャンバラをする刀は、桜の枝を切り、皮をきれいに抜いてさやにし、中の白い木の部分を削って作りました。スギの実がなるころには、竹を使ってスギ鉄砲を作りました。肥後守は鉛筆を削ったり、工作にも使ったので学校に行くときは筆箱の中に入れていました。
 メンコは八幡浜では『パッチン』と言います。パッチンのくじもあり、大当たりは30枚くらい、はずれでも1枚は手に入りました。1回のくじの値段は、1円もしなかったように思います。上手な子は、たくさんパッチンを集めて、それを売ったり交換したりしていました。おやつとパッチンを交換したこともあります。ビー玉でもよく遊びましたが、八幡浜では『ラムネ』と言います。
 舗装される前の道路でよく『ネンガリ』(釘(くぎ)立て)をしました。立っている相手の釘に当たればとれるし、相手の釘を倒しても自分の釘も倒れてしまったら取られました。
 独楽(こま)もただ回すだけもしたが、取り合いもしました。地面に輪を書いてその中の独楽をはじき出したらとれるというもので、強くはじくために買った独楽の心棒を釘に換えて改造しました。釘は先が尖(とが)っており、よくはじくし、相手の独楽に穴を開けたり破壊することもできます。けんか独楽は木製で、鉄の輪があるのは、手に乗せたりして遊ぶためのものでした。べいごまはありません。
 海水浴で遊ぶボートは自分で作りました。製材でスギ板を3枚購入し、1枚は船底、2枚は側面に使って1人乗りの簡単なボートを作りました。継ぎ目から水が入ってくるのを防ぐため、防水用に使用したコールタールは、夏に焼けて軟らかくなったアスファルトの道路からこすり取りました。みんな自作のボートを持っており、これを担いで海に行き、浮かべて遊びました。」
 **さんに、女の子の遊びについて聞いた。
 「街中の子は、家の中での遊びやお稽古事(けいこごと)が多かったです。小学校2、3年になれば、お稽古事を始めましたが、私も小学生のとき塾に通いました。習字と勉強、ピアノ、踊りなど、わりとお稽古事は多くありましたが、中には家庭教師を雇っている子もいました。
 外に出て毎日遊ぶということはありませんでしたが、銀座通りの商店街の子どもだけ(千代田(ちよだ)分区の子ども)で男の子と一緒にかくれんぼや缶けりをやったことはあります。銀座通りのメインストリートが遊び場で、当時はアーケードもなく、舗装もされてなかったです。近所の子は森田の判屋の前に集まり、缶けり、かくれんぼ、ドッジボール、だるまさんが転んだ、ロウ石、ゴム跳び、まりつき、助け鬼(電信柱に鬼に捕まった子が手をついて、捕まったらどんどん手をつないで列が伸びていき、助ける子が鬼の目を盗んでタッチしたら逃げることができる遊び)をしました。
 室内では、お手玉、おはじき、すごろく、カルタ、あやとり、着せ替え人形などで遊びました。着せ替え人形は紙のものでしたが、後にキューピーさんの人形に自分で縫った服を着せて遊びました。キャラメルやチョコレートの包み紙をコレクションにし、これを女の子同士で交換しました。
 名前は忘れましたが、竹べら十本くらいを束にして持ち、それをうまく操って床に落とすという遊び(竹おじゃみ・竹がえし)も冬に学校でしたことがあります。
 ままごとは家の庭でしました。玩具(がんぐ)店でままごとセットを買い、家周りに生えている草花を使いました。当時は細川玩具店やうおみの駄菓子屋(大川菓子店)があり、子どもたちでにぎわいました。毎日決まった小遣いはなく、食べたくなったら母に10円か20円もらって行きました。
 祭りのとき、商店街の軒下には、的屋(てきや)がずらっと店を出し、トウモロコシやタコ焼き、ノートなどを売っていました。何人かの的屋は、ふだんも店を出していたように思います。
 小学校のころは、毎年分区のみんなで大人に連れられ、大島(おおしま)やねずみ島に海水浴に行き、花見にも行きました。海水浴には子どもだけで白浦(しろうら)や栗野浦(くりのうら)まで歩いて行きました。」