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えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(1)昭和30年代の萱町と人々のくらし

 ア 向う三軒両隣

 「商店街の道路が舗装される前は、埃(ほこり)っぽくなるため散水車がよく来ていました。店の前に朝晩水をまくのは子どもの仕事でした。当時の平和通(へいわどおり)は交通量も少なく、盆踊りをしていました。萱町の子どもが通った味酒(みさけ)小学校の周囲には田んぼや畑が広がっており、虫がいくらでもいましたが、ホリドールという強力な農薬をまいたときは、竹に赤い布を結んで周囲に危険を知らせていました。
 正月や祭りのときには獅子舞(ししまい)が来ていました。獅子だけでなく、鉄砲を持ち狐(きつね)の面をかぶった人や三番叟(さんばそう)もおり、鼓を持って踊り、獅子舞を披露して投げ銭をもらっていました。大相撲の巡業は若草(わかくさ)町にあった国鉄グラウンドや松山大学のグラウンドにやってきました。
 昭和30年代になると、子どもは小遣いをもらって駄菓子屋に行くようになりました。萱町には5円で食べさせてくれるお好み焼き屋がありました。駄菓子には人体に有害とされるズルチン、サッカリンなどや合成着色料がいっぱい使われていたように思います。駄菓子屋ではパッチンなどの玩具も売っていました。当時子どもがよく食べたのは、焼きいもや太鼓饅頭(まんじゅう)、お好み焼き、ポン菓子などです。紙芝居はお宮(阿沼美(あぬみ)神社)やその周囲の子どもの遊び場によく来ました。自転車に箱を積んでやってきて、カチカチと拍子木を打って子どもを集め、水飴(あめ)を売った後、紙芝居を演じました。水飴のほか、型抜きのお菓子もあり、うまく型を抜いたらもう一つもらえますが、途中で必ず壊れ、うまくできたことはありませんでした。紙芝居は、昭和30年代で5円だったように思います。1回15分くらいのものを2話やっていましたが、続きは次来たときにやりました。昭和30年代には飛行機でビラをまいており、子どもは追いかけて拾いました。いっぱい拾った子がなぜか偉かったです。
 町内会では大人と子どもがみんな一緒に湯山(ゆやま)や梅津寺(ばいしんじ)によく出かけました。夏休みには愛媛水泳学校(昭和24年~63年)が梅津寺で開かれており、子どもはみんな行きました。堀之内(ほりのうち)に市営プール(昭和36年開設)ができる前は、商大(現松山大学)や北高(松山北高等学校)のプールが有料(5円か10円)で開放されていました。家に風呂が無い時代でしたので、町には銭湯がたくさんありました。夏に子どもは木のタライで行水をしましたし、風呂のある家に『もらい湯』にも行きました。
 家では親から基本的なことはしつけられたし、近所の人にも世話になりました。当時は町内隣近所が長屋のような共同体意識を持っており、親がいないときは子どもを預かり、御飯を食べさせるようなことまでしていました。隣近所の大人全員が、自分の子と他人の子の区別なしによく面倒を見ており、今みたいに『地域で子どもを見守りましょう』などと改めていうまでもありませんでした。」

 イ ラジオとテレビ

 「テレビがない時代、夜は家族みんなでラジオを聞きました。晩御飯が終わったころに花菱アチャコと浪花千栄子のラジオ番組(『お父さんはお人好し』:昭和29年~40年)がありました。しばらくしてテレビがでましたが、プロレスや相撲があるときはテレビのある家に座布団を持って近所の人が集まりました。テレビは貴重品で、買った当初子どもは触らせてもらえませんでした。テレビにはふだん布をかけ、見るときはそれを上にあげて見ました。テレビ画面の前にはレンズのようなものをかけていました。相撲やプロレスのほか、『お笑い三人組』(昭和31~41年)、『バス通り裏』(昭和33~38年)、『わたしの秘密』(昭和30~42年)、『ジェスチャー』(昭和28~43年)が人気番組でした。
 電化製品が徐々に普及した時代で、親も電化製品を買うのを一つの目標にがんばっていたように思います。家事の中でも重労働だった洗濯や御飯炊きは、洗濯機や電気釜(がま)の普及でずいぶん楽になりました。昔はくどで御飯を炊き、おひつに入れて保存しました。夏には冷蔵庫がないので、『したみ』(竹で編んだざるのような容器)に入れ、風通しの良いところにつるしていました。昭和20年代末ころは電話が珍しかった時代で、商売をしていても電話のない家もあり、電話がかかるとその家の人を呼びに行くのは子どもの仕事でした。」