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えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(3)地域の中の子どもたち

 ア 学校の思い出

 **さんは学校の思い出を次のように話す。
 「小学校6年生のときから給食が始まりましたが、脱脂粉乳のミルクだけで、パンもおかずも無く、お腹がすくけど我慢するしかありませんでした。夏休み前になると、休み中に家で飲むための脱脂粉乳が配給されました。6年生が保健室に行き、全校生徒分の脱脂粉乳を紙袋に分けました。暑いのと粉まみれになるため男子はパンツ1枚、女子はシュミーズになり、おわんで計って紙袋に入れ、クラスごとに平たい木箱に並べ配りました。これを風呂敷に入れて持ち帰り、夏休み中家で飲みました。」
 **さんは学校の思い出を次のように話す。
 「角野小、中学校に通っていたころ給食はなく、弁当でしたが、家が近い子は食べに帰っていました。中学生のときは、食べに帰るのに時々先生の自転車を借りたことがありました。その際、よく先生にお使いを頼まれました。銀行でお金の出し入れをするお使いでしたが、今では考えられないのんびりとした時代でした。学校ではアルマイトの容器に入ったカイジンソウ(海人草)という虫下しを全員が強制的に飲まされました。飲んだ後に飴(あめ)をもらうのが楽しみで、苦いのを無理して飲みました。
 遠足は、広瀬(ひろせ)公園、桃山(ももやま)(中萩(なかはぎ)中学校の北にあった小山)、滝ノ宮(たきのみや)公園、池田(いけだ)の池、種子(たね)川などに行きました。記録映画をトレーラーバスで見に行ったこともありました。新宝(しんたから)館(1956~2002年まで徳常(とくつね)町にあった映画館)で『砂漠は生きている』(1953年アメリカ)、『緑の魔境』(1953年イタリア)を見ました。子どもにとっては初めて見るすごいカラー映像が一杯で、歓声をあげて見入りました。学校で最初に見に行ったのは、学校の近くの山根(やまね)のスミエ座で、映画『ゴジラ』(1954年)です。」

 イ 地域の中で

 **さんは「『常会(じょうかい)』(自治会)から不良は出さないということを地域では常々言っており、みんなで子どもを見守り、他人の子でもしかりました。悪さをしてよそでしかられたことを、家に帰って親に言おうものなら『お前が悪いからだ』と親にもしかられました。子どものころ恐ろしかったのは、先生、おまわりさん、父親でした。子どもが悪さやけんかをしていると、必ず注意してくれて、『不良になってはいけない』と口やかましく言う地域の年寄りの存在は、心に残っています。」と話す。
 **さんは、「夏休みのラジオ体操は宮喜(みやき)青年倶楽部の広場でやりましたが、冬休みにもここに集まり走りました。小学生だけでしたが、早朝暗いうちから集まり、高学年の子がリードして『わっしょい、わっしょい』と大声を出して走りました。喜光地に亥の子はなく、昔は子ども太鼓台もなかったため、子どもが担う年中行事はほとんどありませんでしたが、喜光地の東町(ひがしまち)には子ども神輿(みこし)がありました。子ども太鼓台ができたのは昭和40年代初めのことで、現在のものは2代目です。」と話す。