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えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(1)昔の喜光地と子どもの遊び場

 ア 昔の喜光地と街中の遊び場

 喜光地は、旧国道とあかがねの道(泉屋(いずみや)道:別子銅山の物資輸送道路)を中心に発達した集落で、交通の要地であり、上部(じょうぶ)地区の商業の中心、別子(べっし)銅山への物資の供給地として多くの店舗が建ち並び、にぎわった。しかし一歩街を出ると農地が広がり、所々に泉が湧き、夏になればホタルが飛んでいた。
 昭和初期、喜光地の街中には、遊ぶ場所により喜固久座(きこくざ)組、登記所組、警察組と三つの子どものグループがあったという(①)。昭和30年(1955年)ころになると、みどり園保育所南の公園、田坂製材所材木置き場、宮喜(みやき)青年倶楽部(くらぶ)の広場、歓喜寺(かんきじ)(現豊川稲荷(とよかわいなり)あたり)も子どもの遊び場となっていた。昭和30年代半ばに国道11号が喜光地の北部に開通するまでは、旧国道を荷馬車やボンネットバス、トラックが通っており、人通りも多かったため、子どもはあまりここでは遊ばなかった。
 喜固久座は、大正5年(1916年)にできた木造2階建ての大きな劇場で、周囲には桜の木が植えられた庭園があり、地域の人の憩いの場であった。後に映画を上映するようになるが、昭和43年(1968年)にボウリング場となり、その2、3年後に営業を停止する。登記所は法務局の出張所で、昭和30年代まで喜光地にあった。角野(すみの)警察署は、戦後の警察制度の改正により、昭和26年に派出所となり、同45年に国道沿いに移転する。
 喜固久座について**さんは「友達の親が喜固久座に勤めていた関係でよく遊びに行きました。特に雨の日は外で遊べないので、劇場内を走り回りましたが、雨戸の開け閉めなどの手伝いもしました。当時は下にござを敷いており、枡席(ますせき)も多くありました(昭和24年桝席から椅子(いす)席に改造する)。映画を上映するときはスクリーンを下ろしており、小学校のとき、学校で連れられて映画を見に行ったことがあります。小学校のころは、ここで学芸会をやっていました。喜固久座は泉川校区(学区)にあるため、芝居や映画のない日は地域に開放していたのではないでしょうか。本職の芝居があるときは、旅回りの芸人さんの子どもが数日間泉川小学校に通ってきました。」と話す。
 喜光地には田坂と別子温泉の2軒の銭湯があり、街の人々が利用したが、周囲の農家にはそれぞれ家に風呂(ふろ)があった。**さんは銭湯について次のように話す。
 「私の家は農家で、家にお風呂がありましたが、学校で喜光地の友だちが銭湯の話をするので、銭湯にも行きました。普段大勢の人の前で裸になることはなかったので、子ども心に一大決心をして行ったことを覚えています。」
 街頭テレビは吉野屋電器と久保屋電業にあった。お富食堂にもテレビがあり、「テレビ食堂お富」と呼ばれ、プロレスや相撲を見る人でにぎわった。このころ喜光地商店街は、夜9時ころまで営業していた。
 喜光地では昭和30年代、河野、山下(ロケット屋)、森谷、越智などでおもちゃを売っていた。駄菓子は山下や越智のほか、村上朝日堂や主婦の店の横でも売っていた。
 喜光地の遊び場について、**さんは次のように話す。
 「田坂製材所の材木置き場ではよく遊びました。高く積み上げた材木の上や周囲でチャンバラやかくれんぼをしましたが、今思えばぞっとするような危険な遊び場でした。みどり園保育所南の公園は、私が小学生のときに市が作ったもので、当時は遊具といってもブランコと滑り台くらいしかなく、三角ベースをよくやりました。バットやボールは店で買いましたが、グローブを持っている子はおらず、みんな素手でやっていました。宮喜(みやき)青年倶楽部(自治会館)にも空き地があり、そこでも三角ベースをやりました。ここには紙芝居がよくきました。拍子木を打って子どもを集め、水飴(あめ)を売った後、紙芝居が始まりますが、買わない子は追い払われて近くで見ることができませんでした。おじさんは『かんら、かんらの黄金バット』と独特の口調で演じましたが、当時は家にテレビのない時代だったため、子どもにとっては楽しみでした。宮喜青年倶楽部では、青年団の人が子どもを集めてクリスマスパーティーをしたり、遠足に連れて行ってくれました。旧国道では遊びませんでしたが、ここを通る荷馬車によく乗せてもらいました。わざわざ止まってくれないので、走りながら飛び乗り、ころあいをみて飛び降りました。昭和30年代半ばには荷馬車も見られなくなりました。」

 イ 周辺の遊び場

 **さんは「喜光地の近辺には大きな川がないため、川遊びは国領(こくりょう)川まで行きました。籠池(かごいけ)でもよく遊びました。本当は松原池といいますが、満水になったことがないため籠池と呼ばれました。ここでは水死事故もあり、遊泳禁止でしたが、子どもは泳いでいました。」と話す。
 **さんは「国領川には、角野小学校の横あたりや、吉岡泉(よしおかいずみ)、高柳泉(たかやなぎいずみ)のあたりなど、泳げる所が何か所かありました。高柳泉、吉岡泉では泳いだり、モチンゴ(タカハヤ)を釣ったりしましたが、泉の水はかなり冷たかったので、すぐ横を流れる国領川で泳ぐことの方が多かったように思います。喜光地の子はだいたい川で泳ぎを覚えました。喜光地の周囲には泉が何か所もあり、小川もたくさんあったので、そこにフナやメダカ、ドジョウがたくさんいました。ザルを持って川に入り、ヒルに食われながらとりました。夏になると登校途中の田んぼでオニヤンマが羽化するのをよく捕まえました。胸に止まらせて学校に行くと、着くころには羽根が乾いており、飛ばして遊びました。登下校の道路沿いには当時桑畑が広がっており、クワの実をとって食べたこともあります。私は自転車を持っていたので行動範囲は広く、海水浴は沢津(さわづ)の海岸、コイ・フナは池田(いけだ)の池に、亀は中萩(なかはぎ)(本郷(ほんごう))のフジの所にあった北池、ザリガニは西之端(にしのはな)までとりに行きました。」と話す。