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えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(3)由良半島の子どもたち-愛南町平碆-

 南宇和郡愛南(あいなん)町平碆(ひらばえ)は、宇和島(うわじま)市津島(つしま)町と愛南町の境界をなす西に13km延びている由良(ゆら)半島南岸の最東部の集落である。昭和30年代後半から盛んになったハマチ養殖、真珠養殖以前は地域の生業はイワシ網漁と段畑耕作に依存する半農半漁の集落であった。
 平碆の地名の由来は、平らな碆(岩礁)のあるところからつけられた地名と考えられ、現在、平碆の湾頭に長い防波堤が築かれているが、以前はここに岩礁が多く存在していた。この岩礁が地名の由来となったとも言われている。
 愛南町平碆で生まれ、平碆の海を見て育った**さん(昭和4年生まれ)と**さん(昭和8年生まれ)に子ども時代の話を聞いた。

 ア 平碆の子ども-太平洋戦争前-

 (ア)家の手伝いと海

 **さんは、祖父、両親がイワシ網をしていて、煮干しの干し場がなかったので、平碆の中心集落から西に離れた海に面していた尾根を切り取り、浜を埋め立て移り住んだとのこと。子どものころは、まだ埋め立て中で、小学校1・2年生のころに、トロッコで土を運んで埋め立ての手伝いをしていたと語る。
 **さんの家は半農半漁で、段畑でイモ、麦を植え、それが主食で、夕方からは父親がイワシ漁に出る生活であったと語る。
 「イワシ煮干しの仕事のある夏は子どももこれにかかりきりでした。選別作業が主な仕事です。煮干しイワシを大、中、小に分けたり、中に混ざっている小イカや他の魚を仕分けるのが仕事でした。さらに、段畑での麦刈り、イモ掘り、麦畑の中打ちなど皆、子どもが頼りにされていました。
 6月に麦刈りをしますが、その麦わらが海での子どもの遊び道具になっていました。その麦わらを海に持っていき、束ねていかだを作って遊びました。この前の海が麦わらで黄色に染まることもありました。流しっぱなしでしたが、マジ(南風)が吹くと浜に打ち上げられていました。畑は麦の栽培が中心でしたので麦わらは山ほどありました。
 海はすぐ近くですから、小学校入学前には皆泳ぎが出来ました。小学生になって泳げない者などいませんでした。夏は海での生活が中心でした。泳ぎに行って尻高(しりだか)貝(オオコシダカガンガラ)やハシリンドウ(マガキガイ)などと呼んでいた巻貝をとるのが楽しみで、潜ってよくとりました。これがまた夕食などの食卓にのるわけです。1時間も海にいたらよう引きあげんぐらいとれていました。これが家の手伝いになっていたと思います。何ぼでもおりましたが、今はとりすぎたんでしょうか、いません。マクリ(海人草、海仁草の文字が当てられ海産の紅藻。紀伊半島から台湾までの干潮線下の岩上に産する。体は円柱状で高さ約8cm。黒褐色で乾燥すればやや樺(かば)色に変ずる。回虫駆除に用いる。)などという海藻もとり、乾燥させて売っていました。これはお金になりました。
 冬の家の手伝いは、山へ燃料にする薪(まき)を毎日のようにとりに行きました。背負い子を持ってとって帰っていましたが、冬は北西の季節風が強く、風で飛ばされそうになったことを思い出します。私の弟など、もうよう歩かんなどと言ってへたり込んでいました。この燃料確保は、夏は暑いのとハメ(マムシ)がいるので冬の子どもの仕事でした。裏の山に行きますが、これで足腰を鍛えられました。薪をまとめて買う家庭は豊かな家でした。子どものとって来る薪はしれた物で枯れ木や枝の小さいものでした。大きい薪は家でも買っていましたから、この薪割りも子どもの仕事でした。冬は麦踏みもあり、子どもなりによく手伝いをしたと思います。」

 (イ)小学校の思い出と遊び

 小学校時代の思い出と遊びについて「小学校時代の思い出は、いろいろありますが、小学校がこの平碆にはありませんでしたから、山を越えて西隣の家串(いえくし)小学校に行っていました。弁当を持っていくことなどめったにありませんので昼食に山越えして帰ってまた学校へ行っていました。トンネルがあったら近いのにといつも思っていました。学校では遠泳が一番思い出があります。家串から油袋(ゆたい)まで泳がされていました。親にも先生にもよくしかられ、たたかれることもありました。今の子どもは厳しさが足りません。」と語る。
 遊びについてさらに次のように語る。「冬は、山で柴木を尻に敷いて斜面を滑る遊びをよくしました。他所(よそ)では木で組んで作っていたようですが、そんなものありませんでした。
 祭りは子どもは楽しみにしていましたが、平碆に祭りの行事は何もありませんでしたから、御馳走を食べるだけです。戦前は親戚(しんせき)や知人の家に呼ばれていきましたがだんだんなくなりました。
 白王(しらおう)神社では中秋の名月のときに子ども相撲がありました。旧暦の8月15日で、今でも続いていますが、子どもが少なくなりましたから、にぎやかさは昔ほどではありません。
 白王神社の奉納相撲の由来は次のように語り継がれています。それは、昔、平碆地区一帯に住民の3分の1が感染するほどの疫病がはやりました。そこで当時の平碆の長が有志を集めてこの疫病を早く治してもらうため白王神社に願をかけ、年に一度、奉納相撲をすることにしたそうです。すると疫病は下火になったそうです。ところが、それから17年後、何らかの事情で奉納相撲を取りやめにしたところ、その年にまた疫病が発生したそうです。それ以来この奉納相撲は途切れることなく、1年で最も明るい中秋の名月の晩に村内の子どもたちや近郷他町村から相撲好きの参加者を招いて実施しています。
 子どものころの遊びで一番印象に残っているものはやはりネンガリです。木を切って先を鎌(かま)や鉈(なた)でとんがらし、土に打ち込みけんかをするわけです。砂浜ではねばりがありませんから出来ませんので、農協の上にちょっとした広場がありますがそこがネンガリの場所でした。ネンガリの木はウバメガシの木が硬くてよかったです。
 『ホタル晩』というのがあり、その日は子どもが何をしてもよいという夜がありました。何月かはっきりしませんが、暖かくなってからだったと思います。非道なことをするのではありませんが、あるときなどは年長者がお墓の石塔を大部分倒してしまったり、お寺のお地蔵さんを他のところに移したり、小さい船を陸に上げ、道の中央に置いて人が通れないようにしたりなどの記憶があります。この日だけは子どもたちが夜遅くまで外をうろうろしていても大人は大目に見てくれていました。今でいう深夜徘徊(しんやはいかい)です。
 終戦直前ごろですが、B29が編隊を組んで上空を通っているころに、警戒警報で通り過ぎてから空襲警報ということが度々あったように思います。ここがちょうど通り道でしたから多くの米軍機を見ました。」

 イ 平碆の子どもたち-太平洋戦争後-

 平碆で生まれ、小学校、中学校と平碆で過ごした**さん(昭和19年生まれ)に聞いた。

 (ア)思い出多い遊び

 子どものころ、いろいろな遊びをしました。私たちの子ども時代は、昭和30年前後で戦争後一息ついて社会もある程度安定し始めた時期であったと思います。
 遊びには、凧(たこ)揚げ、独楽(こま)回し、パン、ネンガリ、輪回し、チャンバラ、陣取り、ラムネ、木馬(きんま)など思い出がいろいろあります。
 凧揚げ、独楽回しは正月の遊びでした。凧は、だるま凧、武者絵の描いてある凧などを売っていましたが、年長者に教わり竹ひごで凧を作り、自分で絵を描いてあげたりしました。その前後に四角や丸い武者絵が描いてあるパン(パッチン)遊びをしたように思います。パン遊びは、この平碆には店が一軒しかなく子どももお金がありませんから、年賀はがきを半分に切ってその2枚で1枚のパンを作り、相手の既製品のパンを取るのが面白いんです。廃物利用で年長者から教えてもらった子どもの知恵です。
 既製品のいい絵の描いてあるパンは箱に並べて宝物のように保存したり、はがきのパンは縁が擦り切れるまで使っていました。
 ネンガリは船釘(くぎ)を使ってしていました。漁船の修理のために家にあったり、廃棄された船の釘をとってきたりで使っていました。横から見たら平たいので頭をつぶして相手の釘を倒すのには非常によかったです。木で遊ぶネンガリも覚えていますが、木で遊ぶときは土地が柔らかくないとできませんでしたから船釘が多かったと思いますし、私たちの時代にはほとんど釘になっていました。
 輪回しとか、タガ回しとかも子どもの遊びでした。おひつの回りを締めている鉄の輪がありましたがそれをよく使っていました。鍛冶屋(かじや)さんがあったのでそこで鉄の輪を溶接してもらって遊びにしていました。狭い集落の道を桶(おけ)のタガとか、鉄の輪を回す音が響いていたことがあります。
 海での遊びは、泳ぐだけでなく、潜って貝をとったり釣りをしたりが普通の遊びですが、当時、宇和島~御荘への定期船があり、定期船は岸壁がありませんから沖合に停泊して、農協からダンベと呼ぶ櫓(ろ)舟が出ていて、お客さんや荷物を定期船に運んでいました。ダンベは名前のとおり幅の広いかっこの悪い船でした。子どもたちはその櫓舟に乗り定期船に乗りこんだり、追いかけたりするのが夏の遊びでした。店は農協の店と駄菓子屋が2軒しかありませんでしたから、そこが文化的な、目新しい物資がみられる唯一の手段でした。
 木馬(きんま)遊びがありましたが、木馬を自分で作って山の斜面を滑り降りたり、斜面に枯れ松葉を敷いて滑りやすくしたりしていました。木馬はリンゴ箱を荷台につけて下は竹を敷いて滑りやすくして道路を押したり引っ張ったりもしました。メジロとりは4、5人で1日中、山をかけずり廻り、メジロをとって得意になったものです。とりもちにメジロがかかる瞬間のスリルは今でも忘れません。メジロかごを作るときに切った人差し指の傷を見るたびになつかしく思い出します。」

 (イ)小学校の思い出と行事

 「小学校の修学旅行は松山でした。バスで宇和島まで2時間半、現在なら40分でしょうが、それから松山までが蒸気機関車でした。汽車そのものが自分たちにとって珍しい乗り物でした。ましてや電車など珍しい乗り物でした。松山では県庁見学がお決まりで、南宇和郡選出の県会議員さんが案内してくれていました。
 学校は西隣の集落の家串にしかありませんでした。30分ほどかけて山を越えて家串の小学校に通っていました。ですからトンネルが出来るまでは大変でした。給食などありませんでしたから昼はまた学校から家に帰って昼食を食べてまた学校に行っていました。」
 平碆地区と家串地区は、直線距離にするとわずか400m足らずの近い距離にある。両地区を行き来するためには『ウネの松』と呼ばれる急坂を登っていかなければならなかった。その間およそ1km、往復30分もの時間を要した。学校給食がない時代、家串の小学校に通う平碆の子どもたちは、昼食のために家に戻らねばならず、そのため過酷なこの急坂を1日に2度も往復しなければならなかった。
 昭和31年5月、家串平碆トンネルは貫通し、同年7月開通した。延長204m。昭和37年3月に改修され、それまでオート3輪までしか通行できなかったが、この改修により大型車の通行も可能となった。
 「4月の節句には磯遊び、山遊びがありました。弁当を作ってもらって4月3日は山へ行って子どもだけで陣地を作り、両方に分かれて竹などで刀を作りチャンバラごっこをして陣取りをしていました。刀は竹や単なる木でしたが中にはハゼの木を石でたたいて皮を抜いた刀を作ったりもしました。チャンバラは若宮神社の上に小さなおこもり堂がある広場が合戦場でした。4日には海に弁当を持って行って磯遊びです。この時期が大潮のときですから貝をとるのにはよい時期でした。
 8月のお盆には、新盆の家でわら舟を作り、その舟に果物を載せたりお菓子を載せたりして沖に流していました。それを子どもたちが伝馬船をこいでとりに行くのも楽しみでした。ふだん食べることのできないような果物もありましたから地域の大人たちも黙認していたのでしょう。
 亥の子もあり、亥の子石の取り合いがありました。平碆の東と西で亥の子がありましたが、小学校6年生が大将で、大将はいい亥の子石を取りたいので朝3時か4時に起きて亥の子宿に行って待っていなくてはなりませんでした。亥の子が終わった後、宿で御馳走してもらい、御祝儀のお金を分けてもらったり、お菓子をもらったりしていました。」

 (ウ)子どもの家の手伝い

 「家の手伝いは切干(きりぼし)作りをよく手伝いました。これはサツマイモを切って干したものです。カンコロ飯になったりデンプンの材料です。この作業は、サツマイモの収穫から切って干すまでが大変でした。海岸に竹で編んだ棚を作って、その上に切ったイモを干していました。スライスする機械があり、スライスされたものを干し、それを俵に詰めて農協がまとめて出荷していました。その時期になると家の中も切干イモだらけでした。雨に濡れるといけないので家の中すべてが干し場でした。
 もう一つの手伝いは、イワシの煮干作りの仕分けです。大きい煮干、小さい煮干の分類と、その中に混じっている小さいイカを取るのを手伝ったことがあります。学校に行く前に分別の手伝いをするのです。
 子どもの遊びで、海とのかかわりは生活そのものでした。海藻とり、貝とりなどは夏の子どもの仕事でした。夏は夜遅くまで海岸にむしろを敷いたり、縁台近くでもみ殻を焚(た)いて蚊がこないようにして、将棋をしたり、年寄りの話を聞いたりしたことがあります。海岸で寝るようなことはありませんでしたが、今はこのような光景はありません。私たちの子ども時代は終戦後間もない、貧困の生活の中で、いつも空腹でありながらも、山や海の自然の中に身をおき、思いっきり遊びました。いつも先輩・後輩などと集団で色々の遊びをし、その中から多くのことを学びました。すばらしい子ども社会が作られていた気がします。貧しくて、物不足の時代ではありましたが、心は豊かで、活力があって本当に良き時代に生まれ育ったことを今でも感謝しております。」