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えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(2)三島川河口の子どもたち-三瓶町蔵貫浦-

 蔵貫浦(くらぬきうら)は、藩政時代の吉田(よしだ)藩領の蔵貫浦の名前が今に残ったもので、宇和海(うわかい)に面する三瓶(みかめ)湾中央部に位置し、三島(みしま)川の河口に位置している。江戸期から蔵貫の本村を蔵貫村(宇和島(うわじま)藩領)、浜に面した枝郷を蔵貫浦とに分けて呼び、この蔵貫浦を通称浜とも呼んでいる(⑦)。
 蔵貫浦は、現在は西予市三瓶町蔵貫浦で、明治22年(1889年)~平成18年(2006年)現在の大字名である。
 昭和30年の世帯数136・人口648人、平成18年4月現在で172世帯、人口350人であり、平成18年の世帯数が増加した要因は、西予市三瓶町養護老人ホーム三楽園が出来たためではないかと思われる。
 蔵貫浦の**さん(大正15年生まれ)、**さん(昭和8年生まれ)、**さん(昭和18年生まれ)、皆江(みなえ)の**さん(昭和5年生まれ)の4人に子ども時代に印象に残っている行事や遊びについて話を聞いた。

 ア 正月の天神祭り

 「蔵貫浦は、海に面した集落ですが、専業漁家は2軒しかありません。漁業を趣味的にしていた人は多いと思います。この地域は農業が中心で以前には水田が20町歩(約20ha)ありました。
 印象に残っているのは、天神祭りというのがありました。これは、正月の子どもの行事で、正月の3日に実施していました。今はありませんが、私たちにとっては非常に楽しい思い出に残っている行事で遊びでした。
 この天神祭りは蔵貫浦に三つの地区(三島川に近い方から須賀(すが)、中筋(なかすじ)、脇(わき)の浜。)がありましたが、その地区ごとの子どもの集団で実施していました。
 小学校の1年生から戦前であれば高等科の2年生(現在の中学校2年生)までの子どもたちが、正月2日にはそれぞれの集落で、各家を回って、米、野菜、お金などを集めて宿に集まります。お金は子どもたちのおやつのためのお菓子を買っていました。この宿は毎年変わりますが、宿の決め方は、その年の高等科2年生で大将になった家にお願いをしていました。戦前は子どもが多かったですから、一つの地区で20人は宿に集まっていました。また男と女は別々に小学校1年生から集まっていました。
 そこで何をしていたかというと、天神様は学問の神様ですから、書初めも兼ねて、思い思いの言葉を筆で書いたり、大将に当たる子どもが、ある言葉を言うと、他の者はそれに関係のある言葉を書いたりして、あとで大将が皆の作品に朱色で四つも五つもの丸をつけていました。
 宿では昼と夜の食事を作ってもらって食べます。大体炊(た)きごみ御飯だったと思います。小学校1年生から参加していますので夕食を食べて、最後に皆がお菓子を分け合ってしばらくすると解散していましたが、冬で夜道は暗闇ですから、上級生が下級生を家まで送ることもありました。戦後は昭和30年代の中ごろまでありました。このようなことをしていたのは三瓶ではこの蔵貫だけだと思います。西隣の皆江(みなえ)地区にはありません。女性は女性でしていましたから男の子も女の子も正月はこれが楽しみであったと思います。
 大人が口出すことはありませんでした。子どもが立案して子どもだけでしていました。宿は御飯炊きで大変であったと思います。この行事を仕切るのは高等科の2年生、1年生がしていました。戦後は中学校2年生が大将になっていた地区もあれば、中学校3年生が大将になっていた地区もあり、まちまちです。戦後は宿がほとんどを賄(まかな)っていて各戸から品物を集めることなどありませんでした。子ども同士の連帯感や意思の疎通ができたと思います。」
 
   『日本民俗大辞典』には「天神講は、1月・2月ごろ、子どもの仲間によって行われる講。一般的には、学問の神様、
   菅原道真をまつるための講であると解釈されている、(中略)信仰の形態としては、1年に一、二回程度の天神講の際
   に、天神社と呼ばれる小祠への参詣(さんけい)、天神様の掛け軸をかけ、習字の上達、勉学の向上などを祈願する程度
   であり、強い信仰が向けられているわけではない。むしろ、民俗としての重要性は、天神信仰としての側面にあるので
   はなく、子どもによってなされてきた社会伝承としての側面であろう。天神講は、特に、関東地方から長野県、山梨県、
   静岡県東部・伊豆地方に濃厚に分布しているが、おおむね15歳を上限とする子ども(ほとんどの場合、男女とも)が、
   宿や天神社などに集まり、食事をして遊ぶ。いわゆる子どもの行事といってよいが、静岡県伊豆地方では宿をとる場合
   が多く、宿の家の主婦が食事などの準備をするため、他の子ども組の行事、例えば当該地域のドンドヤキなどと比べ、
   最年長者の指導性は弱くなっている。埼玉県秩父郡小鹿野町(おがのまち)や吉田町(現、秩父市吉田)などでは、1月
   24日夜から翌朝にかけてが天神様の祭りで、コーチ(耕地)の天神様に子どもたちが集まり、一晩泊まって遊んだとい
   う。(⑥)(後略)」とある。
 
 イ 亥の子

 「亥の子も思い出の一つです。これも大人は口を出さない行事でした。11月の亥の日で、いまも亥の子は石でついて回ります。蔵貫浦の3地区ごとに亥の子グループがあり、その三つの集団が蔵貫浦の全戸を回りますから各家は3回御祝儀を出さなくてはなりませんでした。現在は二つの地区になっています。昨年の亥の子に来ていた子どもは5人しかいませんで、唄(うた)もじゅうぶん歌えなくなっているようです。
 亥の子には各家庭が餅(もち)をついていましたから餅と御祝儀を一緒にもらっていました。ですから子ども集団は餅当番を決めて、餅だけをもらっていくものが決めてありました。これは必ず途中でいっぱいになり持てなくなりますから途中で交代して当番の家まで持って帰っていました。魚を入れる大きなかごを担いで行っていました。当番の家は、戦前には亥の子宿は決まっていましたが、戦後は毎年交代していました。
 亥の子のときは何日か前から亥の子唄の練習がありました。1週間から10日は練習したと思います。唄だけの練習ではなく、そのときの皆で集まっての遊びがまた楽しいひとときでした。このときに肝試しをしたり、秋ですから果物が実っていますから、ちょっと失敬するとかさまざまの遊びがありました。
 集まったらまず三島神社(写真1-2-14参照)に行ってお参りをしてから宿に帰って唄の練習をしていました。戦後もこの練習は続いていました。亥の子当日は学校も1時間か2時間の授業で帰って、朝から亥の子石をついて回っていました。戦前は午後からだったと思います。天神祭りと亥の子は大人の口出すところはありませんで、子どもが中心でした。」
 皆江地区の小竹さんは「皆江では前日宿に泊まって準備をして、翌日ついて回っていました。ですから泊まった晩に肝試しなどがありました。年齢に応じて肝試しの距離や場所が違っていました。」と語る。

 ウ パン遊びとかくれんぼ

 次にパン遊びとかくれんぼについて皆さんが語る。
 「パン遊び(パッチンともいう。)がありました。パン遊びは県内どこでもあったと思います。戦前のことですが、間者遊びといって、長方形の手札ほどのパンで、軍隊の階級の元帥(げんすい)から2等兵までの札のなかに1枚だけ間者(忍者)の札があり、この札は元帥にだけ勝つことができました。この札を、それぞれの子ども集団が分けて持っていて、集落中を走り回って、相手に出会うとお互いの札を同時に出して、そのとき出した札の階級によって勝ち負けを決める遊びがありました。戦後にはこの遊びはなくなりパンを地面や床の上で、相手のパンを裏返すと取れる遊びになっていました。」と語る。
 「それから、集団かくれんぼもこの集落の特色ではないでしょうか。個人の家の中に隠れてはいけないとか、倉庫ならかまわないなどのルールを決めて、集団でのかくれんぼをよくしていました。普通のかくれんぼは鬼と隠れるものに分かれて、てんでばらばらに隠れていたと思いますが、私たちは集団で2グループに分かれてするのです。探す方は大将の指示に従って探すところをそれぞれが決めて、隠れる方は集団で同じところに隠れていました。今考えると大将の力量が問われていたのですかね。」

 エ 夏の遊び-定期船を遊び場に-

 「夏の海は子どもたちの生活の一部でした。夏は上半身裸でシャツなど着ることもなかったぐらいです。私たちの育ったところは、夏は海で泳ぐ以外は遊びはあまりなかったと思いますが、海で子どもが亡くなったなど聞いたこともありませんし、記憶にもありません。海での遊びは、中でも潜水競技はよくやりました。どれだけ水中で潜っておれるかということです。浜に停泊している小さい船底をくぐるのは普通ですが、網船といって少し大きい船、そして2艘(そう)並べてある船の底、さらに3艘とそのような遊びをしました。
 定期船からの高飛び込みもやりました。戦前ですがイロハ丸という宇和島と八幡浜を結ぶ定期船が蔵貫浦湾に入ってきていました。しかし岸壁がありませんでしたから本船まで小船でお客さんを積んでいっていました。それに子どもが一緒に乗って定期船に乗り込んでいました。出航し始めると船員にしかられ船から飛び込んで岸に帰っていました。戦後はありませんでしたが船員もある程度大目に見てくれてのどかな時代でした。戦後は子どもがタコとりに夢中になる時期がありました。昭和30年(1955年)前後はタコがよくとれました。それが海の遊びで、食卓にものる御馳走でした。
 また、色に特色のある石を子どもの泳げる能力に応じて海に投げ入れて、潜ってその石をとってくる遊びもよくしました。年齢などに応じて石を投げる距離や潜る深さを変えていました。
 戦後の昭和20年代から30年代には皆、海で泳いでいましたが、昭和30年代後半に学校にプールができると海で泳ぐと大人にしかられていました。おそらく養殖が始まり海が汚れてきたものと思います。この海岸は砂浜でしたが、埋め立てられてすっかり様子が変わりました。
 海では釣りもよくしました。戦前では竿(さお)からテグスなどの道具を作ることがまた楽しみでもありました。戦後も竹のいいのを選んで釣竿つくりをしていました。
 集落のそばを流れる三島川も遊び場でした。特に夏には、石積みを川底に作ってエビやウナギとりをしました。この辺ではツガネ(川ガニでモクズガニのこと)といいますが、これをよくとりました。」

 オ 待ち遠しいのはお祭り-御馳走が目当て-

 秋祭りは氏神様の例祭です。10月15日には御馳走を作って親戚(しんせき)や知人を招き、秋の収穫を祝います。子ども心に待ち遠しいのはお祭りでした。この地区の三島神社の秋祭りは、江戸期の大名行列の『ねり』とか『おねり』といわれる子どもの大名行列があり、小学校2年生ぐらいからさまざまな役割を与えられていました。小学生が奴(やっこ)さんに見立てられ、大長柄(おおながえ)、鉄砲、弓などを持って練り歩き、そのほか稚児行列や警護の役があり、青年団が世話役で子どもが大名行列に参加していました。大名行列に参加する役が終わった小学生高学年から中学生は、牛鬼を作って祭りに参加していました。今は子どもが少ないので牛鬼も小さくなってしまっています。」

 カ 木のネンガリや竹馬とダイラ(クモ)のけんか

 「年間通じて遊んでいたものにネンガリがありました。戦前戦後も木の棒でのネンガリでした。長さ50cmぐらいで、米を収穫したあとの田んぼでやるのが一般的でした。材料はウバメガシが硬いので一番よくて、道具を作ることからが楽しみでした。竹馬も作ってよく遊びました。竹馬の先に草履や下駄を引っ掛けて集落の中を歩き回りました。ときにはお互いで倒しあいなどもしました。皆江で印象に残っている遊びにクモのけんかがありました。ジョロウグモ(コガネグモのことで、雌の背甲は暗褐色の地を銀白色の短毛が覆い、腹部背面は黒褐色の地に三条の黄帯がある。8月に産卵し9月中旬に死滅。本州以南に分布し地方によっては誤ってジョロウグモと呼ぶが別種である。)のけんかです。皆江は棚田が多いですからその石垣にクモの巣があり、それを捕まえてきて庭木に放すと翌朝は大きく巣を張っていました。庭がクモの巣だらけになっていて大変でした。とりに行くのも楽しみですし、けんかさせるのも楽しみでした。小さい枝の上でけんかさせるのです。子ども同士で自分のクモの勝負に真剣になり、これが楽しみでした。皆江ではそのクモのことをダーラ、蔵貫ではダイランと呼んでいました。黄色いしましまのクモです。なぜダーラ、ダイランと呼ぶのかは知りません。」

 キ モノのない時代

 蔵貫生まれの**さん(昭和8年生まれ)は子ども時代を次のように語る。
 「昭和20年(1945年)、終戦の前後でモノが極端に不足していたころ、私は小学校高学年でした。学校から帰るとまず、すきっ腹を満たすのにランドセルを投げ出し、イモ団子をほおばるのが常でした。当時ほとんどの家庭に、このサツマイモを原料にしたイモ団子か、カンコロ飯がおやつ代わりに毎日作られていました。サツマイモの粉を蒸したものがイモ団子で、炊いたものがカンコロ飯。食べるのを急ぐあまり、ときにはランドセルから教科書や筆箱が床に飛び出し、母親にこっぴどくしかられたこともありました。
 また、雨降りの日以外は、ほとんどの者がわらで作った草履(ぞうり)でした。母親がこの草履を毎日のように作ってくれていました。今思うと当時のお母さんはどこの家庭でもよく働いていたと思います。道路は今のように舗装(ほそう)されておらず、走ると土が舞い上がる道で、そのために足の裏は泥まみれ、そのまま家に上がると部屋の床は足の形の芸術画が出来上がるからすぐばれてしまい、後になってまたお目玉をくっていました。腹ごしらえが終わると外に出て、3人、5人と友達が集まり、その中に高学年で一人のリーダー的な役をするものがいて、その日の行動、遊びを決めていました。
 今は釣具店に行けば丈夫で軽いカーボンの釣竿(つりざお)、いろいろの道糸、透明なハリス、さまざまな浮子、リール等何百種類もの釣道具が店いっぱいに並べられていますが、当時は釣道具を自分たちで作っていました。今日は釣道具を作る日と友達のあいだでその日の目標が決まると、一斉に裏山へ釣竿用の竹をとりに、手ごろな竹を探して山の中を駆けずり回って、自分の気に入った竹を見つけるとワクワクしていました。この竹はしばらく乾燥した後、曲がった部分は熱を加えて曲がりを直したりもしていました。次は道糸作りです。木綿糸にカキの渋を塗りつけて水の中でも切れないように強くするのです。
 そのころ農家では養蚕が盛んで、どこの農家でも蚕を飼っていました。成長して繭を作るようになる直前の蚕を5・6匹もらってくるのです。蚕には大変残虐で悪いことをしたけど、背中を裂くと絹糸になる原料のどろどろした飴(あめ)色でゼリー状のものが出てきます。両手の指先でつまみ、勢いよく両方に引っ張るとハリスの代用品テグスが出来上がります。これには上手、下手があり、巧く出来ると仲間で自慢しあったりで大騒ぎでした。錘(おもり)は道糸に結べるような形の石ころを探します。ただ釣り針だけは作れないから、店に買いに行きました。針は釣る魚に合わせ、いろいろの太さがあって、何種類もの大きさを買ってくるのが楽しみの一つでもありました。
 竹の竿に渋の糸、お蚕様よりいただいたハリスに感謝し、釣針を結び出来上がる完成品は大切に家の軒下に掛けておきました。今のものとは比較のしようもない代物ですが、何もない時代の宝物の一つだったような気がします。」と語る。

写真1-2-14 子どもの遊び場(三島神社)

写真1-2-14 子どもの遊び場(三島神社)

西予市三瓶町蔵貫。平成18年10月撮影