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えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(3)遊びの百科全書-宇和島市吉田町魚棚・本町の話-

 宇和島市吉田町魚棚(うおたな)は、同町の南西部にあり、かつて魚屋が集まっていた名残で魚棚と呼ばれている。また、宇和島市吉田町本町は、同町の南西部。旧国道56号沿いの商店街である。現在の国道56号は、西よりの浜(はま)通りを走っている。

 ア 集団遊び、あれこれ

 魚棚で生まれ中学校3年生まで生活した**さん(昭和12年生まれ)に聞いた。
 **さんは、「魚棚は1~3丁目まであり、昭和20・30年代には、3丁目だけでも140軒くらい家があり、子どもの遊び集団は三つありました。当時の子どもたちにとって、最大の関心事は中学校3年生の子どもがトウドリ(親分)をしている遊び集団に属し、そこで認められることでした。亥の子のときには、各丁内ごとに、亥の子の集団が結成されて魚棚全体で一つになりましたが、ふだんのときは遊び集団ごとに行動していました。男の子にとってメインの行事である、亥の子のときには、子どもたちが中学校3年生のトウドリをリーダーとして団結しました。トウドリ同士の確執もありまして、それぞれにテリトリーを持っていましたし、ときには共同戦線を張ることもありました。遊び集団の先輩から、ビワ、ヤマモモなど食べられるものを手に入れる手段や場所についての生きた知識を身に付けました。子分としては、トウドリに気に入ってもらうために貢ぎ物を工面するのが大変でした。たとえ親に怒られても遊び集団への忠誠を重んじていました。ビワ、ヤマモモ、夏ミカンの在り処(か)なども克明に記憶していて、遊び場のマップができ上がっていました。先輩から後輩へと遊びの知恵が受け継がれていました。私の家族は、私が中学校3年生のときに魚棚から本町へ引っ越しましたが、私だけは、トウドリをするまではと決心していたので転居せず念願のトウドリになることができました。
 チャンバラでは、ビワの木やハゼの木で刀を作りました。ビワの木は、とてもはすい(折れやすい)ので登るときに細心の注意が必要でした。ハゼの木はかぶれるおそれがありました。
 当時は、銭湯が本町、桜丁(さくらちょう)、浜通りに合わせて4軒もありました。正月、節句、秋祭りのときには、朝風呂も営業していました。ミカンも集荷場へリヤカーや馬車で運んでいました。ときどき、リヤカーを引くのを手伝って、駄賃代わりにミカンをもらいました。
 お節句の陣地に飾りつける飾り物をつくる費用がいりました。仙貨紙(せんかし)(天正年間に伊予の国の兵頭太郎左衛門[法名、仙貨]が創製したとされる和紙。)や染料などの購入代金を捻出(ねんしゅつ)するために、落ちダイダイを拾って、今、フジ吉田店のあるあたりにあったクエン酸工場へ持っていって、買い取ってもらいました。たまには、落ちてもいないダイダイの実を故意にもぎとって、わざとらしく土をつけて落ちダイダイに偽装する悪知恵も発揮しました。
 ホタ(秋祭りの前夜に行われていた厄払(やくばら)いの行事。)の晩や亥の子のときには、宿(化粧や着替えをする部屋。ホタの晩には本部の機能を果たした。本陣と仮本陣があった。)を設けました。ホタの面作りも創意工夫しました。ミカンを取り入れるのは竹籠(たけかご)でしたから、近所に竹細工屋があったので竹材はふんだんにありました。このほか、荒縄屋(あらなわや)もありましたし、木箱屋には釘(くぎ)がありました。魚をいれたトロ箱は、魚の油を吸ってよく燃えたので焚(た)き付けとしても珍重されました。五寸釘の調達のときには、船大工の倅(せがれ)に、『モッテコイヤ(持って来なさい)。』と脅(おど)したこともあります。肥後守(ひごのかみ)が宝でした。肥後守を研ぐときには、砥石(といし)のある魚屋や散髪屋の子どもたちが頼りにされました。また、鍛冶屋(かじや)の子どもには、グラインダーでの研ぎが課されました。少し危ない話としては、国鉄(現 JR)のレール上に置き釘をして、加工したこともあります。竹細工では、自転車のスポークで作った手製の三つ目錐(ぎり)が重宝しました。国鉄のレールにスポークを置いておいて列車に轢(ひ)かせて平べったくしてから、ヤスリ掛けをして三つ目錐に加工していました。
 けんか独楽(ごま)をするときに必要になる空き缶の加工も結構コツがありました。ほどよい球面をたたき出す技がいったのです。
 川遊びでは、石で堰(せき)をつくって魚とりをしました。ツガニとりもしました。このあたりでは、『モクズガニ』のことを『ツガニ』と呼んでいます。手長エビは、ミミズでとりました。大ミミズや青ミミズのいる場所も先輩から教えてもらいました。ウナギの地獄漁もしたことがあります。海遊びは泳ぎが中心でしたが、貝や牡蠣(かき)、シャコエビをとることもありました。シャコエビはチヌ釣りの餌(えさ)にしました。戦争中は、海は危険だから行くなといわれていました。空襲警報のときに海に行っていてしかられたことがあります。あのときは、舟の艫(とも)にかくれていました。水着は小さな黒っぽい布にひもが付いたもので、黒猫と呼ばれていました。泳ぎが達者になると六尺ふんどしになりました。早く黒猫を卒業して、六尺ふんどしを締めたいものだと思いました。
 イカの繊維やタイヤで消しゴムの代用品もつくりました。白いゴム製の本物の消しゴムは貴重品でしたから、都会から疎開して来た子どもたちを脅し上げて、ようやく手に入れました。
 成人した後、町中に住んでいるにもかかわらず里山のことについて、その地域の人たち同様の知識を持っているということで賞賛されたこともあります。今でも季節ごとに、そろそろあそこに行けばヤマモモを食べられるとか、ビワが色づいているとか、その場の情景を思い浮かべることができます。当時は、やや大げさに言えば、体験を通して身に付けた、いわば『遊びの百科全書』が、生きた力として脈打っていました。」と話す。

 イ 出来事

 **さんは、つづけて「昭和32年(1957年)には、東宝映画『大番』のロケーションがありました。ロケーションの舞台になった本町筋に黒山のような人出ができたのを思い出します。
 昭和天皇が、昭和25年(1950年)に伊予路を巡幸されました。日の丸の小旗を振りながら吉田小学校にお迎えしました。
 昭和41年(1966年)、二回目の伊予路巡幸のときには、皇后陛下も同行されました。立間(たちま)駅にお着きになり、立間の農業機械センターを見学されました。桜橋から浜通りをお通りになられたのを覚えています。」と話す。

 ウ 春から夏の遊び

 本町で生まれ育った**さん(昭和14年生まれ)に、商店街の子どもの生活誌について聞いた。
 **さんは、「当時は、一年間を通して、遊びのサイクルが出来上がっていました。正月には、独楽回しや缶けりをしました。竹馬での鬼ごっこもこの季節の遊びでした。電信柱に止まっている間は、休憩できるルールでした。消防の出初式(でぞめしき)が近づくと竹を工面してきて、水鉄砲を作り始めます。
 吉田の出初式は缶の寄せ合いで知られていました。2本の柱の間に張り渡した針金に吊(つ)るしたダス缶(小石を詰めた石油缶3個ほど)に東西方向から放水してこれを敵方に寄せ合う競技でして、これを缶の寄せ合いと呼んでいましたが、子どもたちもこの競技のミニチュア版をして競い合いました。
 缶の寄せ合いごっこが終わると、コンヤマ(4月3日のお節句に、男の子たちが陣地[秘密基地]を作って、陣取りをする行事。)の準備に取り掛かります。仙貨紙を張り合わせて大きな旗や小旗を作りました。
 いよいよ4月3日になると、飾り付けた大きな旗や小旗だけでなく、陣地を奪い合う行事でもありました。本町筋のものは聖人山(しょうにんやま)に、東小路(ひがしこうじ)あたりの子どもたちは馬(うま)の背(せ)に陣地を作りました。更にその奥に別な集団がという具合で、地区ごとに思い思いに陣地を造りました。
 夏はもっぱら泳ぎでした。あまり泳げないころには、当時は水の澄んでいた三輪橋(みつわばし)。現在は架け替えられ吉田大橋と呼ばれている。)あたりで水浴びをしたり、橋の上から飛び込んだりしました。かなり泳げるようになると、国安(くにやす)川の河口あたりで泳ぎました。」と話す。

 エ 学校の思い出

 **さんは、「吉田小学校の6年生のとき、松山方面へ一泊二日の修学旅行がありました。鉄道に乗ったのですが、片道だけで6時間くらいかかったのを覚えています。
 中学校に入るとバスケットボールに熱中しました。バスケットボールは屋内競技のように思われがちですが、昭和20年代には、ほとんどの学校に体育館がなかったので、コートは屋外にありました。当時は、『籠球(ろうきゅう)』と書きました。私は背が高かったこともあり、センタープレーヤーとして頼りにされました。女子のチームは県内でも強い方にランクされていました。」と話す。

 オ ホタと亥の子

 **さんは、つづけて「夏になると秋の行事のホタや亥の子の準備にかかりました。当時の遊びといえば、11月の「中(なか)の亥(い)の日(ひ)(11月に入ってから2番目の亥の日をさす。)」にすることになっていた亥の子です。この辺りは商家が多かったので、亥の子の行事を通して、商売の初歩を学ぶことができました。収入と支出のバランスをどのようにすればよいのか、トウドリやフクトウドリを務める年長組の差配を受け、切り盛りをしました。子どもたちの領分として、大人が入り込めない世界が確立されていました。一か月くらい前から、夕飯が済むと、その年の宿になった家に泊まり込んでホタや亥の子の準備をしました。経済というか、収支のバランスを調整しながら、子どもたちが自分たちの責任でやり遂げる行事でした。当時は中学校3年生がトウドリをすることになっていましたが、年齢相応の課題を与えて、子どもたちの自立心を育てていく流れがあったように思います。
 現在では低年齢化して小学校6年生がトウドリ役になりますが、子ども中心の行事というより、どちらかというと保護者主導になってしまい少し寂しいように思います。これは、少子化が進んだことと、平等意識が広がった影響だとは思いますが、地域文化の存続のためには、かつての子どもだけでまとまることのできた仕組みが大きな役目を果たしていたのではないかと感じています。」と話す。