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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(3)通勤者の多い島

 上島(かみじま)町の生名(いきな)島は、愛媛県の東北端に位置する島で、旧越智(おち)郡生名村の本島に当たる。幕末以降、島の塩田開発が拡大されたが、塩田は最終的には、昭和46年(1971年)に廃止された。一方明治40年(1907年)に対岸の広島県因島(いんのしま)市土生(はぶ)町(現尾道市因島土生町)に大阪鉄工所(後に日立造船工場)が設立され、島の労働力が吸収された(⑤)。
 生名島は旧因島(いんのしま)市(現尾道市)のベッドタウンとして、その生活圏も広島県側になっている。
 因島の造船業が活況を呈していた昭和50年(1975年)ころの人口は3,259人であったが、不況による造船所の規模縮小とともに人口は減少に転じ、平成12年(2000年)は2,124人となっている。
 生名村の労働力人口のうち他市町村への通勤者が55.2%もあり他への通勤者がいかに多いかが分かる。
 生名島で生まれ育ち、太平洋戦争後公職追放の身で、さまざまな職業を経験し、海を庭とし趣味としての漁業を長年楽しんできた、**さん(上島町生名 大正14年生まれ)に生名島での住まいとくらしについて聞いた。

 ア 生名島の住まいとくらし-さまざまな職業を経験して-

 「親父は船大工で、私は11人兄弟の真ん中に生まれました。小学校を卒業して、島の会社で1年働き、16歳のときに大阪へ働きに行きました。大阪では2年働き、戦争が激しくなり軍隊に入りました。憲兵学校に入れられ、昭和20年(1945年)の3月31日に卒業し、訓練の後、4月15日にクアラルンプール(現マレーシアの首都)憲兵分隊に配属されました。終戦後も、憲兵でしたのですぐに日本に帰還できず、クアラルンプールで約2年過ごし、昭和22年に帰国しました。しかし公職追放の身となり、解除になったのが昭和30年(1955年)12月1日でした。
 私の家(図表2-3-8参照)は、昭和4年に建てられました。親父は船大工といっても自宅の仕事ではなく各地を転々としていたようです。ですから家も普通の2階建ての家でした。南に面して立てられ、床の間のあるオクの間と呼んでいた8畳の部屋と、8畳の食事場所になっていた部屋が北側にあり、南側には6畳の部屋と玄関土間のある上り口の部屋がありました。また、かまどや井戸のある土間があり、そこには足踏みの唐臼(からうす)がありました。トイレは南側の土間に近い外にあり、風呂はその南側の納屋の一角にありました。兄弟が多かったので、小さいときの食事は大変でした。子どもたちの寝所は2階の8畳の部屋2間でした。南側はすぐ海ですし、北側は山になっていて、その山の南側斜面が私の家の畑や果樹園でした。水は井戸が2か所あり、家は2軒しかなかったので水で苦労することはありませんでした。
 生名島に帰ってからは、今治で働いたり、生名で雑貨商をしたりしましたが、昭和25年(1950年)に結婚してからは、生名島の南立石(みなみたていし)地区(因島市への玄関口)で、映画館、劇場、パチンコ屋、豆腐屋、自転車屋、アイスキャンデー屋と何でもやりました。映画館、劇場、パチンコ屋などを始めたのは、この島は隣りの因島(いんのしま)に働きに行く人が多いのでそのような人たちの娯楽になればと思ったからです。小さい仕事では年間通じて収入が一定しなかったので、とにかく現金収入になるものはどんなものでも手を出しましたが、一つとして定着しませんでした。船で島々を回り、イモを買い付けでんぷん工場へ持って行ったり、ミカンの買い付けの仕事もしました。ゴカイの養殖やヒラメの養殖も生まれ育った砂浜地区(写真2-3-8参照)で始めましたが、何をやってもこれはというのはありませんでした。今やっている土木業が一番長続きしています。
 海の仕事は生業としてではなく、あくまでも好きで趣味としてやってきました。子どものときから海のそばで海を見ながら育ちましたから、建て網をしたり、兵隊に行く前はカーバイトランプをつけて集まってくる魚を突いてとる、いさり漁などもしました。
 ここは砂浜地区といいますが、家が2軒しかありませんでしたから、特別な日は親戚を呼んで集まりますし、晴れ着を着るのは盆と正月ぐらいで、年祝いなど余り興味がなかったからほとんどしていません。
 とにかく、自分の一生ですから、もうけなくても人に嫌われずにやれたらいいと思います。ですからとってきた魚など皆さんにあげてしまうことが多かったです。そしたら人に嫌われんし、人と仲良くやっていけます。
 私は、海を目の前にして育ち、海に船で出ますから天気については気になります。昔からの言い伝えは大事にしなくてはと思ってきました。例えば、『夕陽に向かうカゼ柱』(夕陽に向かって虹が立てば明日は風が強い)とか、『朝虹は隣に行く暇はない』(朝虹が立つとすぐ雨が降る)とか、『一つドンドロ、港を定め』(雷が鳴ったら気圧変化があり風が強くなるから港に避難しなさい)など船を扱う者、海に生きる者は、天気をよく知り潮加減を知ることが大切です。
 この島にはなぜか漁師は少ないのです。島は小さいから農業でも苦労するし、海に囲まれていても漁師にもなりたがらないし、生活も大変でしたが、日立造船でこの町が変わりました。私は海が好きで、漁をすることも好きで、今まで元気で生活できたのはよかったと思います。」

 イ のり養殖とともに

 のり養殖を昭和30年代から生業としてきた**さん(上島町生名 昭和6年生まれ)は生名島での生活を次のように語る。
 「昭和35年(1960年)ころからのりの養殖を始めました。生まれは兵庫(ひょうご)県の高砂(たかさご)市で、両親が戦争で引き揚げて帰ってきましたが、働くところがありませんでしたから、船乗りとして生活していました。生名島へ帰ったきっかけは、船乗りとして都会で生活しても、悪友にギャンブルなどに誘われ、結婚もしていましたし、あまりよい生活ではありませんでしたので、ちょうど両親が弓削島でのり養殖を始めましたので帰って手伝いました。家は海岸の近くにあり、浜にのり小屋がありましたから、そこが仕事場でした。昭和40年代の前半にはのり養殖の規模を大きくしました。
 のり養殖と簡単にいいますが、乾燥機がない時代は天日で干していましたからお天気次第で、昭和30年の後半に乾燥機を購入し、ボイラーで乾燥していました。ノリを海から上げると潮抜きのために洗い、機械のない時代は、包丁でミンチにして、1枚1枚作っていました。機械が出始めると新しい機械が次から次へと出てきて設備投資で資金繰りが大変でした。ミンチにする機械から乾燥機も半自動、全自動と次々と新しい機械ができて、いくらもうけても設備投資に金がかかり、もうけるのは機械メーカーばかりでした。
 それでも、30年代からのり養殖をやって私は成功した方だと思います。設備投資にも多くの資本がかかりましたがそれだけ熱心に研究もしました。30年代は栄養分が少ない岩城(いわぎ)・生名の海域でとれていた畳色のノリでも売れていましたが、次第に相手にもされなくなり、よい製品をどれだけ多く作れるかでした。
 水には苦労しました。潮抜きしなくてはなりませんから、数か所の井戸から何百mもパイプで水を引いて大量の水を使いました。ノリは忙しいときは、朝、暗いうちからノリつみに行って、午前8時までにノリをあげて洗い、ミンチにかけ、それを簾(す)にかけ乾燥して、1枚1枚はがすのが夜の仕事でした。徹夜は何回も経験しましたし、あれだけ働いたら今ならもっともうけたと思います。9月ころ種付けし、2月ころまでが忙しく、正月前後は特に忙しい思いをしました。人に使われるのがいやだったのでやってこれたのだと思います。」


図表2-3-8 昔の**家の見取り図

図表2-3-8 昔の**家の見取り図

**さんからの聞き取りにより作成(1階部分のみ)。

写真2-3-8 生名島砂浜地区

写真2-3-8 生名島砂浜地区

越智郡上島町生名。平成17年7月撮影