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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(2)人口二人の島 豊島①

 越智(おち)郡上島(かみじま)町弓削豊島(ゆげとよしま)は、弓削島の南東約4km、東西に細長い島で周囲約2kmの小島で、漁場と採草地として利用されていた。島の東南部の花崗(かこう)岩を切り出すため入植者があり、昭和4年(1929年)16戸、昭和12年(1937年)32戸となり、昭和32年(1957年)ころまでは35戸前後が石切りや柑橘(かんきつ)栽培、漁業に従事していた。島の周囲は急な崖(がけ)になっているところが多く、集落は緩斜面がある北側中腹にあり、最盛期には178人もいた(④)。平成4年(1992年)からは1世帯二人になり現在に至っている。
 弓削豊島で生まれ、約40年間、豊島で生活した**さん(上島町弓削 昭和4年生まれ)に昭和40年(1965年)ころまでの話を聞いた。

 ア 落穂のひとつも大切に

 「私は昭和4年(1929年)に豊島で生まれ、昭和47年(1972年)まで豊島で生活し、その後、弓削でのり養殖を始めたので弓削に移り住みました。
 私の子ども時代は、祖父母、両親、兄弟8人でした。私が長男で、あと男3人、女4人でした。祖父は漁の手伝い、祖母は漁の手伝いや、石切り場の人に豆腐を作って売ったりして生計を立てていたようです。父親は、豊島の花崗岩切り出し場の石割り職人をしていました。
 豊島の花崗岩採掘は明治10年(1877年)ころから開始され、明治時代には、豊島石として大島石と並び称せられるほどだったそうです。この島では自給自足の生活でしたから、籠(かご)を持たされ麦の落穂を拾わされたことが、子ども時代のこととして一番記憶に残っています。落穂のひとつも大切にしなければならないぐらい食生活が大変でした。段畑もありましたが、畑はかなり広く、約6反(約59.4a)あり、昭和40年代には1町(約99a)3反ありました。終戦後、しばらくでしたが納屋で牛を飼っていたこともありました。このような小さい島で昭和30年代には100人以上が生活していたのでにぎやかでした。
 私の家は(図表2-3-6参照)、6畳、4畳、3畳、2畳の畳の部屋があり6畳の部屋に仏壇と床の間があり、床の間にはエビスサンを祭っていました。一般の漁家にあるような縁起棚(商売繁盛や息災を祈るために設けた神仏混合の神棚)はありませんでした。父親が純粋な漁師ではなかったからでしょうか。出入り口の土間を挟んで子どもたちの寝所になっていた6畳の部屋、食事場所の4畳半の部屋があり、台所になっていた土間があり、焚き口が二つのかまどがありました。4畳半の部屋には掘りごたつがありました。台所の地下には戦後作った雨水を貯めるタンクがありました。入口から奥まで子どものころはすべて土の土間でしたが、昭和20年代後半、土間の一部を6畳の畳の部屋にしました。風呂は台所の隣りにあり、出入りは台所と外の両方からできるようになっていました。トイレは外の西側の納屋(写真2-3-3参照)にありました。納屋の下は8畳ぐらいの地下室(写真2-3-4参照)になっていて、地下に漁具、1階に農具が収納されていました。納屋の軒下は麦などを刈り取ったときの雨よけにしていました。
 豊島には小学校がありませんでしたから、佐島(さしま)(上島町佐島)の親戚(しんせき)の家から2年間、佐島小学校に通いました。3年生のときに魚島(うおしま)から郵便船が下弓削に着くようになり、それに児童も乗せてもらい弓削の小学校に通いました。昭和21年(1946年)に分教場が開設され、昭和22年に弓削小学校豊島分教場が新築され、本校から2名の先生がきてくれていました(昭和44年〔1969年〕3月にはこの分教場も廃止された。(④))。
 私は尋常高等小学校まで行きましたが、卒業したころから太平洋戦争の時代になっていました。昭和18年(1943年)に呉(くれ)海軍工廠(こうしょう)の募集がありましたのでそこへ働きに行きました。戦艦大和(やまと)、武蔵(むさし)を何度も見ました。ここで2年働き終戦になり、豊島に帰ったのは昭和20年の11月で、17歳でした。工場は軍需工場でしたので、指導者のほとんどが軍人でちょっとしたミスも連帯責任にされ、精神注入棒でよく尻を殴られました。風呂にはいっては、赤いあざを見せ合って何でこんなに殴られるのかとぼやいたものでした。あの経験は二度としたくはありません。
 豊島はいつも水不足に悩まされていました。家の近くに井戸がありましたが、これは白く濁っていて雑用水や畑に使うのが主で、飲料水には適しませんでした。家のすぐ下の海岸にもう一つ井戸があり、この井戸が飲料水に適していました。4軒か5軒が共同でこの水を利用していました。いくら日照りでも枯れることはありませんでした。満潮になると海水も入り、干潮になると澄み切ったきれいな水になっていました。海水が入らないようにすると水が湧いてこなくなるといわれていました。満潮で海水が混じっても、しばらくすると真水が上の方にありました。この水を運ぶのが大変でした。1斗(約18ℓ)ほど入るブリキ缶二つを海岸から家まで急傾斜を担(にな)い棒で担(かつ)いで上がり、水瓶(みずがめ)に貯めていました。
 風呂は五右衛門風呂が以前からありました。終戦当時はたい網が盛んで、この島へ船団を組んで漁に来ていたグループがありました。時には40人、50人といました。その船の連中が風呂に入らせてくれとよく来ていました。勝手に自分らで沸かして入らせていました。」

図表2-3-6 豊島の家の見取り図

図表2-3-6 豊島の家の見取り図

**さんからの聞き取りにより作成。

写真2-3-3 地下室があった納屋

写真2-3-3 地下室があった納屋

上島町弓削豊島。平成17年7月撮影

写真2-3-4 地下室のある納屋出入口

写真2-3-4 地下室のある納屋出入口

写真中央のひさしは地下からの出入口。上島町弓削豊島。平成17年7月撮影