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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(1)漁家とミカンづくり

 昭和34年(1959年)に出版された『愛媛県新誌〔改訂版〕』によると今治市関前の岡村島については、『528戸のうち漁業130戸で、あとはみかん栽培を主とした農家が多い。しかし、みかん園187町歩(約1.87km²)のうち62町歩は、隣接の広島県豊田郡豊町(現呉市)大長(おおちょう)の人が所有し自作している。大長の人は対岸から毎朝モーターつきの農船で耕作にくる。(①)』とあり、岡村島はみかん農家が多数を占めていたことがわかる。
 漁業については、昭和12年(1937年)の漁業者は195戸、漁船173隻であったが、戦時中の兵力動員などもあって、昭和22年(1947年)は108戸116隻と減少した。漁船の動力化が進み、昭和22年の29隻が同30年には98隻となった。昭和34年の経営状況は、小型底引き10、さわら流網30、釣80、延縄(はえなわ)30(兼営あり)、他に建網(たてあみ)、たこ壺(つぼ)、さより流網、1そうローラごち網などであった(②)という。
 平成12年(2000年)の統計(③)では、農家総数117戸で、うち専業農家48戸、兼業農家のうち農業を主とした農家が19戸、農業を従とした農家が50戸で、販売を主とした農家の経営耕地面積107haのうち樹園地が105haでほとんどの農家が柑橘(かんきつ)栽培を主としている。
 漁家については、総数55経営体のうち専業が23、兼業は32であるが、多くの経営体は漁業を主としており、柑橘栽培は従的なものである。
 生活の基本となる水の確保については、昭和27年(1952年)ころから簡易水道が敷設されたが、時間給水や断水など不便が多く、昭和40年代には、岡村島では最大の白潟(しらかた)井戸はじめ共同の井戸が15、個人の自宅井戸53があり、井戸は長く村民の命の源であった (②)。

 ア 岡村島の漁業

 今治市関前岡村の**さん(昭和7年生まれ)に岡村島の漁業について聞いた。**さんは、昭和27年(1952年)から平成12年(2000年)まで旧関前村漁業協同組合の世話をし、平成になってから引退する平成12年までは、長年にわたって愛媛県全体から漁家の経営を見てきた。
 「旧関前村(現今治市関前)は三つの島から成りたっていましたが、岡村島は漁業者中心の島で、大下(おおげ)島は農業を主とし、小大下(こおげ)島は石灰石の採掘で成り立っていました。
 漁村といえば、ある程度漁家が固まっている集落が多いと思いますが、この岡村島の集落は、農家も漁家も混在しているところに特徴があると思います。漁家と農家との間に争いとか生活習慣の違いなどによる垣根があったとは思いません。岡村島には1寺、1社しかありませんので、門徒・氏子としての結束も強いといえます。
 関前岡村は、愛媛県の北の端で、広島県と接していて、広島県の豊島(広島県呉(くれ)市豊浜(とよはま)町豊島(とよしま))は、広島県でも有数の漁村ですが、県境がすぐそばですから岡村の漁船といつもけんかをして紛争は絶えませんでした。江戸時代から松山藩の庇護(ひご)のもとに、岡村の漁民がこの広島側の海域に長らく進出していました。戦前の漁業権の免許は国にありましたから、慣行実績で免許が与えられていました。ですから岡村島の漁業者はかなり活発で勢力を持っていたといえます。
 漁師もいろいろな種類の漁をしていました。大きく分けると網と釣縄とに二分されますが、岡村島には、一本釣りと延縄(はえなわ)(1条の幹縄に、適当な間隔を置いて多くの釣り糸を取り付け、それぞれに針をつけたもの)と、さわら流し漁(網を海底に固定せず潮流にのせて網を流し上層回遊魚であるサワラをとる漁法)はありましたが、魚を一網打尽にとるような網がありませんでした。さわら流し漁は、流れの速い海流に網を流しておけばよいのですから、潮にとらせていたといっても過言ではありません。網については、極端にいえばさわら流し網しか知らないといってもいいほどです。これは、潮の速さがそうさせたのだと思います。
 戦後、網による密漁で漁場が荒らされ、岡村の漁師の自衛策として、多くの網を取り入れました。小型底引き及び1そうローラごち網なども結局は一本釣りだけでは網にかなわないので始めたのです。外圧による防護策の一種でした。真珠養殖や冬ののり養殖など手がけたのもその表れでした。この海域は冬の季節風が強いところですから、冬に収入がある新規漁業として、ハマチやタイの養殖も組合の維持運営のために考えました。
 この海域の特筆すべき漁業としてアビ鳥(大きさはカモメぐらい。平家鳥ともいう。体は鵜(う)に似て潜水に巧みで魚群を追って集まる習性がある。)漁がありましたが、専門的には『鳥付きこぎ釣り漁業』というのが正式名称です。この漁は、戦後一時期、冬の一本釣りの稼ぎ頭でした。多くの鳥がイカナゴを追いかけて海面に集まってきます。その下にはタイやスズキがいることがわかりました。岡村島や広島県の豊島の一本釣り業者はその鳥が集まっている海域で漁をしていました。漁場に着けば鳥を驚かさないように手こぎの船にかえて漁をしていたぐらいです。イカナゴの群れに鳥が集まるわけですから、イカナゴは大きなタモ(水中の魚をすくうのに用いる網)ですくってとっていました。戦後何年かはその漁が盛んでした。この漁が衰微したのはひんぱんな船の航行と船の高速化したエンジン音でしょうか。
 漁師の収入を少しでも増やすために、それまでとれた魚の販売を仲買にすべて任せていましたが、組合直営の鮮魚運搬を、昭和34年(1959年)から始め、平成10年(1998年)まで継続しました。
 現在は漁場を取り巻く環境も変化し、漁獲量の減少と市場価格が輸入物などの影響を受けて上がらず、漁師さんは大変だと思います。」

 イ 漁家の住まいとくらし

 **さん(今治市関前岡村 大正15年生まれ)に岡村島での住まいとくらしについて聞いた。**さんは岡村島の半農半漁の家に生まれ、高等小学校を卒業して約1年間父親の漁の手伝いをした後、佐世保(させぼ)海軍工廠(こうしょう)(海軍に直属し、兵器・弾薬を製造する工場)で働き、その後陸軍の船舶兵として海外で従軍し、終戦後漁業に従事、そして一時期サラリーマンとしての船乗りの経験もした。

 (ア) 広い土間のある漁家

 「私の家は(図表2-3-3参照)、約130年前の明治8年(1875年)に建てられたものだと聞いています。土間の広い家でした。以前はこの島のほとんどの人が半農半漁の自給自足の生活をしていましたから、私の家の土間にも食生活に関するいろいろなものがありました。醬油(しょうゆ)、味噌(みそ)、漬物、ワラたたきの台になる臼(うす)などが置いてありました。土間には通称イチブという物置がありました。南側が入り口で、玄関の上がり口の踏み台は、下駄箱になっていました。2階建てでしたが、中2階でした。その2階はすべて物置でした。3畳の居間は、その地下がほとんど芋つぼでした。その奥に4畳半の座敷があり、納戸は、昔、お産に使っていました。座敷の外に縁側があり、縁側には板戸がありました。その奥に便所があり、その便所は外からしか入れませんでした。燃料はすべて薪(まき)や炭でしたから薪置き場は外側にありましたが、家の中にも木納屋(きなや)と呼ぶ薪置き場がありました。かまどは焚(た)き口が三つありました。かまどのすぐそばに板敷きの場所があり、炊事の合間にちょっと休めるようになっていました。
 外の庭は、カドと呼んで、物干し、網などを干すのに使われていました。それから、漁具を染めるかまども外にありました。
 水は小さな島ですから貴重なものでした。私の家の井戸(写真2-3-1参照)は、隣家も長年共同で使っていました。もちろん飲料水にです。井戸水が少なくなることもありましたが、渇水期などは隣の家に使用を自粛してもらっていました。よそに水をもらいに行った記憶はありません。一晩でまた湧(わ)いてきていました。簡易水道ができていましたが、時間断水がしばしばありました。
 風呂(ふろ)は、当時は各個人の家にはあまりなく、岡村島に銭湯が3軒ありました。西にある善照寺の下に1軒とこの私たちの住んでいる集落に2軒ありました。私の家の近くには藤湯(ふじゆ)があり、蛭子(えびす)神社の前には昭和風呂(現在は岡村島小学校僻地(へきち)集会所)がありました。この昭和風呂は終戦後なくなりました。風呂水は村井戸から水を引いて使っていました。藤湯は昭和30年代の初めころまでありました。子どもを藤湯に入れた記憶があります。藤湯がなくなるころに自分の家に五右衛門風呂(ごえもんぶろ)を作りました。昭和32年(1957年)のころでした。毎日のように風呂を沸かしましたが、水は貴重ですから毎日替えるということをしないこともありました。
 私が高等小学校を卒業したのが昭和15年(1940年)でしたが、1年余り家の延縄漁・さわら流し網などを手伝いました。昭和17年に徴用(ちょうよう)(国が国民を強制的に動員し一定の業務に従事させること)で佐世保海軍工廠(こうしょう)に行きました。図面通りに戦艦や潜水艦などの部品を作る部署でした。そのとき、夜学に通うことも許可されていたのでしばらく通い、もしこの夜学を卒業できれば、外国語は中国語でしたので、中国に行きたいと思っていました。もちろん英語はありませんでした。この夜学へ通うのも戦局が厳しくなり1年もしないうちに通学が不許可になりました。軍隊の募集があり、私は海軍に志願しましたが体も小さかったし、肺活量検査で不合格でした。何度も肺活量検査をさせられ、もうちょっと、もうちょっとと10回ぐらいしましたが不合格でした。それで陸軍に志願したところ、陸軍も体が小さいからとの理由で船舶兵として配属され、タイ国のシンゴラ(タイ領マレー半島のソンクラ)というところに駐屯していました。船舶の修理などが主でしたので実戦には参加しませんでした。」

 (イ)島のくらし

 **さんはさらに海とのかかわりなどについて語った。
 「昭和21年(1946年)7月に岡村島に帰りました。ちょうど20歳でした。兄が戦死していましたから私が家で両親の手伝いをすることになりました。
 家では、延縄とさわら流し網、たい網と1年中漁に出ていました。延縄は一人では操業しにくい漁なので、父親と母親と私の家族ぐるみで船に乗り漁をしました。休むのは盆と正月、後は海が荒れたときぐらいでした。昭和27年(1952年)に結婚しましたが、漁業は収入が不安定なので将来のことを考えると不安がありました。
 昭和36年(1961年)に父親が漁をやめたので、その年の昭和36年から昭和52年(1977年)までサラリーマン船員として、兵庫県姫路(ひめじ)市の製鉄会社の船に乗りました。これは老後の生活を考えてのことでした。漁協では年金はありませんから、会社員として老後、年金がいくらか入るようにと考えてのことでした。
 特に漁に関する信仰というものはここでは余り聞きませんが、さわら流し漁のときにてんぷらを食べたら不漁になると言っていましたから、私は人が言えば言うほどあえて迷信打破のためてんぷらを食べたことがあります。私の家の屋号は古分家(こぶんけ)というのですが、近所の人が『古分家がてんぷら食べても漁ができるのやから、食べていこう』などと食べ始めたこともあります。
 共同作業は、さわら流し網を積み込むときなどや網を染めるときは、水汲(く)み、染料入れ、網の煮炊きなどがありました。
 冠婚葬祭の手伝いの組織がありますが、これはコウジュ(講中(こうじゅう)ともいう)といってそれぞれの組単位での互助組織です。私のところは中組ですが、1組、2組があり1組が8軒、2組が12軒です。岡村島に現在14のコウジュがあります。以前は10軒組などといって近所の互助組織もあったようですが、戸数が減りましたから今では中組一と二組が年中行事を一緒にすることで従来の機能を維持しています。
 島での生活は、貧乏生活が一番つらかったですが、逆にいえばこの貧乏生活が苦しさに耐えさせたと思います。半農半漁の生活もさることながら、味噌とか醬油なども自給自足しなくてはなりませんから敷地は農業にも対応できるようになっていたのだと思います。昭和30年代にはみかん栽培が農業の主になっていました。戦後の食糧難の時代はイモ、麦畑でしたが食糧事情が好転してからはみかん畑に戻した覚えがあります。
 『何かごと』のときに大きな皿(写真2-3-2参照)に料理を盛っていました。今はあまり使いませんが、家に5枚ありました。これを使っていたことは、私の年代ぐらいの者じゃないと知らないと思います。ちょっとした振る舞いなどのときに、豪華に見せるために利用していました。若いとき、南宇和郡に行ったときに同じような皿の料理が出たので驚いた記憶があります。
 渇水のときの段畑への水の工面は大変でしたが、肥料としての下肥の処理も大変でした。段畑に肥おけを担いで上がっていましたが、私は小柄ですからなお大変で、おけだけが移動しているなどといわれました。今思えば、苦労したことが何とか支えになり、今に生かされていると思います。
 私は今でも現役で漁をしています。古い昔を懐かしむわけではありませんが、あの時代の方が人間的な思いやり、共同生活の精神などがあったと思います。現在は、人間が利己的になり潤いがなくなってしまいました。極端な言い方をすればあの時代のままの方が住みやすいのではなかったかとさえ思います。」

図表2-3-3 広い土間のある漁家

図表2-3-3 広い土間のある漁家

**さんからの聞き取りにより作成(1階のみ)。

写真2-3-1 家庭用井戸

写真2-3-1 家庭用井戸

今治市関前岡村。平成17年7月撮影

写真2-3-2 料理を盛り付けていた大皿

写真2-3-2 料理を盛り付けていた大皿

今治市関前岡村。平成17年7月撮影