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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(2)社宅ぐらし

 新居浜(にいはま)市にはかつて県下最大の社宅群があった。新居浜は住友の企業城下町といわれて久しいが、住友金属鉱山や住友化学などの各工場・事業所が建ち並び、従業員の社宅が多く立地した。昭和42年(1967年)には全体で5,127戸の社宅と217室の寮・アパートが存在していたが、うち鉱山関係が2,210戸と129室、化学関係が2,100戸(④)あり、両者で8割以上を占めていた。社宅の中で最大規模だったのは住友金属鉱山の川口新田(かわぐちしんでん)社宅(通称「新社(しんしゃ)」:570戸)で、ここは国領(こくりょう)川の谷口に位置し、昭和5年(1930年)から別子銅山の採鉱本部が置かれた端出場(はでば)にも平野部で一番近い所にあった。別子銅山は昭和48年(1973年)に閉山になり、川口新田社宅は平成2年までにすべて撤去され、跡地は平成6年までに山根運動公園として整備され、市民の憩いの場となっている。
 新居浜市中筋(なかすじ)町の**さん(昭和10年生まれ)と**さん(昭和11年生まれ)に、川口新田社宅での生活について話を聞いた。川口新田社宅は1区から6区に分けられていたが、**さんは昭和14年(1939年)ころから29年まで6区に、**さんは昭和32年から40年まで1区に住んでいた。1~5区は大正12年~昭和4年、6区は昭和15~16年に建設された。

 ア 川口新田社宅

 (ア)巨大な共同体

 「新田(しんでん)橋からまっすぐ東西に伸びる広い道は、往還(おうかん)道路と呼ばれました。往還道路の北には西から順番に1区~4区、6区があり、南にはグラウンド、自彊舎(じきょうしゃ)(*7)、薫風寮(くんぷうりょう)、5区、新田倶楽部(しんでんくらぶ)がありました。グラウンドの南には大山積(おおやまづみ)神社があり、境内には土俵がありました。4区と6区の間の道路も広く、これも往還道路と呼ばれましたが、この道は本新田(ほんしんでん)の集落に通じていました。社宅の入口には詰め所があり、鉱山の警備の人がいました。詰め所には昼間4、5人おり、交代で巡回をしていましたが、夜は一人でした。昭和20年代には各家に電話はなかったので、社宅の人は詰め所にあった電話を利用しました。3区の南には防火用水池があり、日浦のうどん屋(食堂)の裏には消防車を置いていました。5区には派出所がありましたが、大きな事件はほとんどありませんでした。昭和60年に公開された緒方拳主演の映画『薄化粧』で描かれた事件(昭和25年)が印象に残っています。社宅内で起こった爆殺事件でしたが、興味本位で現場を見に行こうとしたらしかられたのを覚えています。
 社宅はほとんどが10軒長屋で、5区の南には8軒長屋がありました。薫風寮は社員寮だったらしいのですが、自彊舎と建物が続いていたので、私たちは全部ひっくるめて自彊舎と呼んでいました。自彊舎の2階は広かったので、昭和30年代には社宅の主婦たちが集まり、米を入れる紙袋を貼(は)る内職をしていました。昭和30年代は鉱山が傾いてきたころでした。」

 (イ)自慢の浴場

 川口新田社宅には「新田倶楽部(しんでんくらぶ)」と呼ばれる共同浴場があった。「新田倶楽部」は、住友の社員および家族の厚生施設として昭和5年(1930年)に建てられた木造2階建ての近代洋風建築の建物である(図表2-2-19参照)。「新田倶楽部」について、**さんと**さんに聞いた。
 「社宅の住民にとって『新田倶楽部』は自慢の浴場でした。基本的に住友の社員と家族専用の浴場でしたが、社員以外でもお金を払えば入れました。お風呂(ふろ)に行くときは『倶楽部に行ってくる』と言っていました。浴場は午後4時から8時まで営業しており、お風呂が沸く4時ころにはサイレンが鳴り知らせてくれました。風呂は年中無休だったように思います。入口正面に番台があり、ここで木札を見せました。木札は会社から各家庭に1枚だけ支給されました。広い脱衣場には脱衣箱のほか、女湯には赤ちゃんを着替えさせる台があり、母親が入浴している間は、だれかが赤ちゃんを見ていました。
 風呂場は男湯も女湯も同じ構造のタイル張りで、大きな楕円形の浴槽と小さな四角い薬湯がありました。広い浴槽は子どもにとってはプールのように感じました。浴槽は1m近くの高さがあったため、出入りしやすいよう内と外に踏み段がありました。窓は磨(す)りガラスで上にあげて開くようになっていましたが、時々その隙間から女湯を覗(のぞ)く不心得者がおりました。今のように個別に体を洗う場所はなく、みんな浴槽のお湯で体や髪を洗っていました。浴室には木桶(きおけ)がありましたが、ほとんど自分の家からかなだらいを持って行きました。ボイラー室は男湯の裏にあり、燃料は石炭を使っていました。浴場で使う大量の水は、煙突山の中腹にあった大きなタンクに近くの種子川(たねがわ)(国領川の支流)から汲(く)み上げて使っていました。風呂の残り湯は、下水を通り城主(しろぬし)橋の近くで国領(こくりょう)川に流していました。
 2階には40畳の娯楽室と散髪屋がありました。散髪屋には、社宅以外の人も入れ、安い値段で男女どちらでもしてくれました。新田倶楽部は、社宅の人にとって憩いの場でした。」

 (ウ)社宅の屋敷取り・間取り

 「社宅は、ほとんどが1棟10軒の長屋(切妻・日本瓦葺(かわらぶき))でした。長屋の中央には共同水場があり、1.5m四方位のコンクリートの水槽の水で洗濯をしました(図表2-2-20参照)。ホースの片方を水槽の水につけ、片方を下にたらし、口で少し吸うと水が出てきました(水槽が洗い場より上にあるため、サイホンのようにして水を使っていた。)。流しには蛇口があり、両側に3~4人並んで食器を洗うことができました。洗濯に使うたらいは、木のたらいとかなだらいの両方使っており、各自がくぎを打ち付けてかけていました。夏になると、昼間大きなたらいに水を入れて日なたに置いておき、温めて子どもの行水に使ったりしました。共同水場には屋根がありましたが、長屋の軒下は狭かったので、雨が降ると傘をさして水場や便所に行きました。社宅は井戸水ではなく水道を利用していましたが、水は豊かで断水は経験していません。共同水場にはゴミ入れの1斗缶が1個つるされており、この中に長屋の住人が残飯をいれました。残飯は、毎日夕方ころ養豚業者がリヤカーで集めにきました。
 社宅の下水はふたのないコンクリートの溝で、1~5区は長屋の表(6区は裏)を流れ、長屋の端から下に向かって流れていました。便所は長屋の端にあり、大便所は各戸別、小便所は共同でした。便所が屋外にあるため、冬場は本当に寒く、雨が降れば傘をさしていく必要がありました。子どものときは夜便所に行くのが怖かったので、家族と一緒に行ったり、家の前の下水ですませたこともありました。後に一戸建てに住むようになり、一番うれしかったのは屋内にトイレがあることでした。大便所の便器は陶器製でしたが、小便所はセメントで下に溝があるだけの簡単な構造でした。し尿は近くの農家が牛を引いて取りに来ていました。6区の坂は急なため、たくさんのし尿を積むと荷車が前に進みにくくなり、牛がむちで思いっきりたたかれていてかわいそうでした。
 6区は後で作られたので、1~5区に比べると間取りは少し広く(図表2-2-21参照)、玄関のほかに勝手口があり、倉庫までありました。この倉庫は各戸ごとにありましたが、半間よりは広かったように思います。6区の台所はセメント張りの土間で、家によっては「すのこ」を敷いていました。
 1~5区は、土間と部屋の間に板張りの上がり框(かまち)(土間から室内へ上がる部分に取り付けられた横木)があり、その下に炭や焚き物を入れていました。炊事場にあった物入れは、2段に分かれており、下の段は土間から、上の段は上がり框から利用できるようになっていました。かまどは焚き口が二つあるセメントの改良かまどで、下には焚き物などを入れていました。最初各戸に水道はなく、洗濯や洗い物は長屋中央にあった洗い場でやっていました。6区は後でできたので最初から流し(人造石研ぎ出し)がありましたが、1~5区は各戸に水道が通ってから自分で流しを設置しました。
 6畳の間には1間半の板戸の押入がありました。1~5区の押入は二つに分かれていましたが、6区の押入は1間半つづきの大きなものでした。1~5区の玄関と6区の勝手口は、ガラスの1枚片引き込み戸で、6区の玄関はガラスの2枚引き違い戸でした。表や裏の戸、部屋の仕切りは障子であったため、夜になると雨戸を閉めました。
 裏の庭は3~4mくらいの幅があり、畑などにしていましたが、裏の縁側のところに物入れを作っている家もありました。隣の庭との境界は、板塀より生け垣が多かったです。
 隣との境は板壁で、声がよく聞こえました。天井の板はありましたが、天井裏に各戸仕切りがなかったため、天井裏から泥棒が入ることもありました。私(**さん)の家では戦時中父親が出征し、母親は選鉱場に働きに行っていましたが、家の米が知らぬ間に減ってしまうことがありました。詰め所の警備員さんに申し出ると見張ってくれ、天井裏から降りて米を盗む泥棒を捕まえてくれました。そんなこともありましたが、社宅の治安は比較的良く、昼間家の鍵(かぎ)をかけたことはありませんでした。」

 イ 社宅の1日・1年・一生

 (ア)社宅の1日

 「新田社宅の住人の職場は端出場(はでば)で、山根の駅から住友鉄道に乗って通勤していました。住友鉄道は一般の人も切符を買ったら乗れましたが、社員は会社が発行する定期を使いました。鉄道は、最初汽車でしたが昭和25年(1950年)から電車になりました。勤務時間が3交代制(1勤:8:00~16:00、2勤:16:00~24:00、3勤:0:00~8:00)であったため、3勤の人が端出場に行き、交代で2勤の人が帰る時間まで鉄道は動いていました。2勤の人は帰るのが夜中になるため、たまに間違えてよその家で寝てしまうこともありました。親戚(しんせき)の者もいったん家を出ると、便所に行って帰るだけで間違うことがありました。それだけ似たような長屋でした。
 社宅内には新田(しんでん)生協という店があり、当時は『配給所』といっていました。酒や米も配給所で買いました。社宅内の店でほとんどの買い物はできましたが、衣料品を買うときは喜光地(きこうじ)商店街へ、たくさんのものを買うときは山根の配給所に行きました。当時は行商人もよくきていました。富山の薬売りが年に1~2回、行李(こうり)に薬を入れて売りに来ました。子どもには風船をくれたのでよく覚えています。
 往還道路と2区と3区の間の道路は特に広かったため、子どもの遊び場となり、親に『往還に行って遊んどいで』とよく言われました。当時は車もほとんど通らず、夜になるまでゴザを敷いて遊びました。夏休みのラジオ体操もここでしていました。子どもはビー玉遊びやメンコ、くぎをさして領地をとる遊びなどをしました。女の子は道路にうずを書き、けんけんでいって自分が領地をとったらそこに自分の好きな絵を書いたりする遊びをしました。社宅の子どもが通っていた角野(すみの)小学校(現新居浜市立角野小学校)は、当時1クラス45~50人で1学年6クラスありましたが、社宅の子どもは大きな割合を占めていました。
 台所では、昭和20年代まではかまどを使いましたが、30年代になると主に石油コンロを使いました。また、電気代が安かった(住友が発電)ので、電熱(電気コンロ)もよく使いました。私(**さん)は昭和33年に結婚しましたが、そのときに嫁入り道具で電気釜を持参しました。当時電気釜はまだ珍しかったです。ご飯はちゃぶ台を使って食べました。ちゃぶ台は子どもが勉強するのにも使いました。焚(た)き物を集めるのは子どもの仕事で、煙突山など近くの山に行き、こくばかき(落ち葉をはく熊手(くまで))で集めました。たくさん拾って帰ったら親に褒められるので、一生懸命拾いました。社宅の子どもは家の手伝いをよくしました。
 社宅の下水は、週に1回みんなで掃除をしました。大便所は各家で掃除しましたが、共同の小便所はトイレ当番がありました。家の掃除は、各家ともよそよりきれいにしようと競ってしていたように思います(**さんが社宅にいたころ、掃除機はまだなかったが、**さんが社宅に住んでいた昭和30年代には掃除機が入ってきた。)。
 冬場に共同水場で洗濯するのは本当に冷たかったので、掃除機より洗濯機をまず購入しました(昭和34年ころ)。当時の洗濯機は、ローラーで絞って脱水をするタイプのものでした。衣類が二つのローラーに挟まり、するめのように絞られて平たくなって出ますが、油断をしているとボタンが圧力でパチンと割れるので、気を遣いました。洗濯機は玄関の横に置き、そこで洗濯をしました。ただし障子など大きなものを洗うときは、相変わらず共同水場を使いました。洗濯物は、1~5区では裏の縁側に干していましたが、6区は表に物干し場を作り、そこに干していました。
 昭和30年ころは、まだテレビもない時代で、家でくつろぐ手段はラジオを聞くくらいでした。白黒テレビは東京オリンピックのときに買いました。当初テレビのある家は少なく、近所から大勢テレビを見に集まるものだから2勤、3勤の人は、ゆっくり寝ることができませんでした。迷惑になるので、そのうちテレビのない家も無理をして購入しました。」

 (イ) 社宅の1年

 「昭和20年代ころ、住友は全盛時代で社宅に空家はほとんどありませんでした。住友には『親友会』(大正9年発足)という社員の親睦(しんぼく)会があり、11月3日には住友5社の運動会がグラウンドでありました。かなり盛大なもので、観覧席は一杯になり、店もたくさん出ました。運動会にはタライ、洗面器や食料品などの景品があり、親子で競技に出て景品をたくさんもらうと自慢でした。昭和30年代になると、鉱山にややかげりが見え始め、運動会も住友5社ではなく新田社宅だけでやるようになり、以前ほど盛大ではなくなりました。また、5月には相撲大会が大山積神社の境内でありました。現在の別子銅山記念館のあたりに観覧席のある立派な相撲場があり、鉱山の社員が相撲をとっていましたが、本職の相撲取りが来ることもありました。
 正月は玄関にささやかな門松を取り付け、注連飾(しめかざ)りや鏡餅(かがみもち)も飾りつけました。3月の節句には雛壇(ひなだん)を飾り、5月の節句には鯉(こい)のぼりもあげました。幟竿(のぼりさお)(ヒノキ)をそれぞれの家が立てていました。お盆にはグラウンドで盆踊りをしましたが、グラウンド西の松林の前に大きなスクリーンを設置し映画が上映されたので、みんな夕涼みがてら見に行きました。
 餅(もち)つきは、昭和20年代には長屋全部が臼(うす)を持ち回りで使い、交代でやったので、最後の家が終わるのは夜になりました。昭和30年代になると、近所2~3軒だけで餅をついていたように思います。
 10月の新居浜太鼓祭りでは、現在山根グラウンドで統一かき比べが盛大に行われていますが、当時はありませんでした(かき比べが始まったのは昭和51年)。当時社宅の人は、太鼓祭りは自分たちの祭りではないと思っていたので、わりと冷めた目で見ていました。社宅の人にとってのお祭りとは、5月と11月にある親友会主催の相撲大会、運動会の二つでした。」

 (ウ) 社宅での一生

 「当時は物の貧しい時代なので結婚式は質素であり、年配の人が媒酌(ばいしゃく)人をして、結婚式・披露宴は社宅でやりました。結婚式には、親戚(しんせき)や組内の者が参加しました。お祝いの『パン豆』(引出物にする米菓子)は近所に配りました。葬式も瑞応寺(ずいおうじ)からお坊さんがきて社宅でしました。鉱山の菩提(ぼだい)寺が瑞応寺であり、現在でも年1回は殉職者の供養をしています。火葬場は瑞応寺の西にありました。今みたいに折り詰めの料理などない時代なので、冠婚葬祭のときには近所の人(大体組内の10軒長屋)が集まって炊(た)き出しをやりました。料理を入れる器も結構たくさん持っていました。多いときには30人くらいの人数が集まるので、足りないときは近所で借りていました。」


*7:自彊舎 もともと青年坑夫たちの教育のために作った私塾であったが、鷲尾勘解治(別子鉱業所支配人)が大正15年に
  住友の施設として再興したものである。

図表2-2-19 新田倶楽部の概略図

図表2-2-19 新田倶楽部の概略図

**さん、**さんからの聞き取りにより作成。

図表2-2-20 10軒長屋の構造

図表2-2-20 10軒長屋の構造

**さん、**さんからの聞き取りにより作成。

図表2-2-21 社宅の間取り図

図表2-2-21 社宅の間取り図

**さん、**さんからの聞き取りにより作成。