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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(2)道後温泉とともに

 道後(どうご)温泉街で土産物店を営む**さん(昭和12年生まれ)に話を聞いた。実はこの店は昭和49年(1974年)まで「すし元(もと)」という旅館であった。旅館の創業は江戸末期から明治初期ころで、**さんの曾祖父(そうそふ)が始めたといわれる。

 ア 道後の町並み

 日本最古の温泉として知られる道後温泉は、聖徳太子が入浴したという伝承もあり、古くから朝廷との関係が深かったが、中世に河野氏が温泉館(ゆのたち)を設け、江戸期に松山・松平家初代藩主松平定行により温泉施設は充実する。明治22年(1889年)道後湯之町が誕生し温泉が町営になると、本格的に温泉を中心としたまちづくりが始まった。現在の本館(神の湯三層楼)が完成したのは明治27年で、以来半農半商だった町は旅館その他の商業地に変貌(へんぼう)し、家屋もわら屋から2層3層の楼になっていった。
 昭和28年(1953年)の国民体育大会開催時に、各旅館に内湯がないので評判が悪かったため、同31年に内湯が引かれたが、内湯の完成は本館から離れた鷺谷(さぎだに)などの高台に大型ホテルが建ち並ぶ要因となった。昭和39年商店街に全蓋(がい)式のアーケード、同52年にはレンガ歩道が完成し、温泉商店街の景観は一変することになった。

 イ 旅館から土産物屋へ

 旅館をしていた当時について、**さんは次のように話す。
 「私が小さいころ道後には、木造の旅館がたくさんありました。今は高台に大きなホテルが立ち並んでいますが、昔は本館を中心とした温泉街に旅館はありました。本館には主に観光客が入り、道後の町方の人はだいたい本館または、その南の鷺(さぎ)の湯(大正2年〔1913年〕開業)に入りました。現在の椿湯の所には西湯(大正11年開業)があり、村方の人が入っていたように思います。本館には神の湯と養生湯、霊(たま)の湯がありましたが、養生湯は私が子どものときになくなりました。
 昭和30年代に旅館で雇っていたのは帳場が一人、仲居さんが4~6人と、下働きのおばさん(ご飯炊き)が二人、そして板場さん。板場の見習いの若い人を『追いまわし』といいますが、若い人はなかなか辛抱が難しく、一人前になる前にやめる子が多かったです。仲居さんは戦前にはこの近辺の若い人が来ていましたが、戦後は南予から来ました。旅館の仲居さんは労働者で、花嫁修業の行儀見習のために来たのではありません。家人も仲居さんも帳場も皆それぞれよく働きました。朝早く起きるのは台所の2階に住み込んでいたご飯炊きのおばさんで、午前6時ころから働いていました。昭和30年代はすごく忙しく、朝宿泊客が出発すると、昼には休憩・食事をする客が来て、夕方には次の宿泊客がやってくるといった風でした。ご飯炊きのおばさんは重労働だったのでやめる人が多く、長く続いても10年くらいでした。やめることを『あがる』といいますが、板場さんもたびたび代わりました。出す料理は当時どの旅館もそんなに変わらなかったように思います。板場さんによって食材を買う業者はちがっていました。魚介類は、戦前には松前(まさき)(伊予郡松前町)から『おたた』(女性の生魚行商人)さんが来ていましたが、戦後は三津(みつ)(松山市)の魚屋さんから仕入れました。
 昭和30年ころまでは、仲居さんの服装は和服でした。昭和30年代末ころになると、晩はお給仕に行くので和服でしたが、朝から昼間にかけては黒のスカートに白いブラウスに変わりました。和服は自前だったので、たくさん持っていました。年に何回か松山市内の呉服屋さんが丁稚(でっち)(商人・職人の家に年季奉公した少年)に反物を担がせて店に売りにきました。」
 旅館をやめて土産物店を始めたことについては、次のように話す。
 「旅館は昭和49年(1974年)の年末にたたんで、土産物店を始めました。旅館をやめたのは、昭和39年温泉街にアーケードができて自動車が入らなくなったためです。アーケード建設前は、日よけにくるくる回すテントがあり、毎日それを開け閉めしていました。当時の道後の宿は今に比べると小規模で、木造瓦屋根のものばかりでした。現在大きなホテルが建っている高台は当時田んぼや畑、雑木林であり、私は麦踏みに行った思い出があります。昭和31年(1956年)に内湯ができてから道後温泉本館の近くにあった旅館は次々と高台に立地移動し、大きなホテルになりました。うちも当時は移転を考えましたが、結局旅館業はやめ、土産物店を始めることにしました。旅館業に比べて土産物店は楽です。旅館業は24時間お客さんの世話をしないといけませんが、土産物店はシャッターを下ろしたら仕事は終わりで、自分の時間を持てます。店を開くにあたっては、私の父は素人だったので、他県の土産物店を実際に見て、良いところを見習いました。最初は松山ならではのものにこだわった時期もありましたが、途中から洒落(しゃれ)たものや、ちょっと高級感のあるものを探して店に置きました。店の中のレイアウトはみんなが知恵を出し合って考えました。」

 ウ 屋敷取り・間取り

 道後の町は、石手川扇状地上に立地している。商店街は、温泉本館から道後駅まで逆L字型に形成されており、本館前の東西の通りを本町(ほんちょう)、南北の通りは北から中通り、四丁目と呼んでいる。本町にある**さんの住まいの屋敷取り・間取りについて聞いた。
 「道後の町屋は、店の奥に和室(客室)があり、その奥に庭、さらにその奥に家人の住まいがあるというのが典型です。本町の町屋は、だいたい間口3間半(約6.4m)で奥(南)に向かって短冊型の敷地でしたが、うちの間口は以前の持主の関係で2軒分の広さがありました。敷地は東隣の店の奥を昭和30年代初めに購入し、広くなりました。道後の旅館の中でうちは比較的空間が多かったように思います。昭和35年(1960年)改装した当時、道に面した建物は木造3階建てで、1階はロビーや帳場、台所、家人の居室、2、3階には客間がありました。屋敷の中央南北に通路(2階は廊下)があり、奥に通じていましたが、各棟の間に庭がありました。庭の奥に6畳と8畳の部屋があり、ここで家人が生活していました。一番奥に蔵があり、昭和31年に1、2階とも内湯に改装しましたが、内湯ができた後も客のほとんどは本館に入りに行っていました。蔵はもともと2階建てで、1階には漬物の樽(たる)を並べ、2階には着物を収納していました。うちは屋敷内に建物が別棟で五つ(倉庫を除く)あり、それが廊下でつながっていました。家がいろいろな棟に分かれているため維持管理は大変でした。
 私が子どものころ台所には焚(た)き口が三つのかまどがあり、1斗(約18ℓ)炊(だ)きの平釜でご飯を炊いていました。薪(まき)は燃料屋さんが東側の通路を通って運び入れていました。薪は本当にたくさん使ったので、裏の倉庫と建物の間にも屋根を作って薪(まき)を積み上げ、床下にも一杯入れていました。しばらくして改良かまどになり、燃料棒(オガライト:オガ粉を原料として、棒状に熱圧成型した燃料)を燃やしました。その後ガス釜を使ってご飯を炊くようになりました。かまどの横には板場さんの調理場と人造石研ぎ出しの流しがありました。
 道後は私が子どものとき(戦前)から水道がありました。松山市内で井戸を使っていたときに、道後はすでに上水道がありましたが、井戸も併用していました。うちは水の使用量が多いので主に水道を使いました。道後の水道は、八幡(はちまん)さん(道後の町で生まれ育った者は伊佐爾波(いさにわ)神社のことを『八幡さん』と呼ぶ。)の上(配水池)にいったん汲(く)み上げてそこからおろしていました。台所には、氷で冷やす特注の大きな冷蔵庫がありましたが、昭和30年代に電気冷蔵庫を買いました。
 神棚は台所の食器棚の上にあり、水神(すいじん)さん荒神(こうじん)さんはかまどの上にありました。お手洗いの神様も祀(まつ)りましたし、『地主さん』という神様を祀るため、小さな祠(ほこら)も作っていました。うちにはその他合わせると30か所くらい神様がおり、炊きあがったご飯を下働きのおばさんが折敷(おしき)(細い板を折り回してふちにした角盆)に入れて全部の神様に供え、それを母が順番に拝んでいました。全部の神様に正月のお飾りもしていました。父やいろいろな人が石鎚(いしづち)山や富士(ふじ)山に行ってお札をもらってきたのを住まいの各所に置くものだから、家の中は神様だらけでしたが、現在は10か所以下に減らしました。」

 エ 住まいの1日・1年

 (ア)住まいの1日

 「朝食と夕食は祖父の遺言で家族一緒に食べることになっていました。味噌は買いましたが、漬物は毎年決まった業者が原料を持ってきて、蔵の1階に樽(たる)を並べて漬けていました。道後には湯川(ゆがわ)といって、西湯から西の方角に残り湯が流れる川があり、町の人はそこで洗濯をしていました。湯川で洗った洗濯物のすすぎは、**さん宅の前を流れる川でしていました。うちも戦前までは湯川で洗濯をしていました。物干し場は3階の大屋根の上にありましたが、危ないのでお風呂場(2階建)の上に移しました。物干し場が移ってからは、風呂場に洗濯機を設置して洗濯をするようになりました。
 し尿は近隣の農家が取りに来たし、ごみは回収人が集め、ごみ焼き場に運んでくれました。旅館の生ごみは肉や魚の残飯が入り特に良いらしく、養豚業者が毎日取りにきていました。
 私が通っていた道後小学校は、現在のメルパルクとにぎたつ会館の所にありました。メルパルクが校舎で、にぎたつ会館が運動場でした。隣近所には子どもが多かったので、学校から帰ったら友達と晩まで遊んでいました。私が子どものときには、城北(松山城の北部地域)は静かでしたので、国鉄の汽車の音が聞こえました。城北には練兵場があり、大きな障害物もないので聞こえていたのでしょう。」

 (イ)住まいの1年

 「正月飾りの世話は私の家では本来男の仕事ですが、父が忙しかったので、ほとんど母がやっていました。年末の餅(もち)つきは朝から晩までかかりましたが、まず神様に供える餅をつき、後に家族が食べる餅をつきました。餅は、白い餅、あん餅、ダイズをひき割ったものや青海苔(あおのり)を入れたりしたものをつくりました。鏡餅は一臼では足りずにたくさんつきましたが、正月には小さな鏡餅とお賽銭(さいせん)を持って、八幡さんなどの神社にお参りに行きました。小さな鏡餅は各部屋(客室)にも飾りました。
 道後の祭りは、戦後に始まった温泉祭りがにぎやかです。昭和21年(1946年)の南海大地震で道後の湯が止まり、再び湧(わ)いてきたときに大喜びして湯祈禱(ゆぎとう)のときに踊ろうということになり、3月19~21日に町内みんな家族総出で踊りました。
 秋祭りは、10月7日の宮出しが盛大で、大街道あたりの『大唐人(おおとうじん)』『小唐人(ことうじん)』の神輿(みこし)をはじめ、道後八町八つの神輿が八幡さんに来ていました。神輿がけんかして、放生池(ほうじょういけ)や道後公園の池にかき夫とともによく落ちていました。湯之町の神輿は弱かったので、溝辺(みぞのべ)のような強い神輿が来たら逃げていました。途中かき夫がいなくなり、子ども神輿だけが出ていた時期もありましたが、今は再びにぎやかになっています。旅館をやっていたので年中忙しく、お祭りのときに家でご馳走を作ったりすることはできませんでした。昔の道後の宿はみんな同じで、休日を楽しむとか、家でくつろぐということはありませんでした。
 昔の道後は、店と家が全部一緒で住民も多くおり、近所同士は親戚(しんせき)のようなつながりを持っていましたが、今ほとんど職住が分離しており、通ってくる人が多くなりました。」