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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(2)「ゲ」のある家-**家-②

 ウ 母屋

 母屋は一部2階建て切り妻の屋根で、座敷の上は中2階になっていた。玄関を入ると右側が居住空間で、整形4間取り(田の字型の部屋割り)の居室となっている。この家は昭和31年(1956年)に建て替えられ新しくなった。図表2-1-20は建て替え前の母屋である。
 **さんは、「この家はいつ建ったものか中古の家を購入したもののようです。破産したとか、北海道に移住(この地域は北海道入植者が多かった。)したとかで空いた家を買うのが普通だったようです。この辺りの迷信ですが、床の間の上、神様の上には人間は座らないということで、2階はとらず中2階にしています。この家もそのようになっていました。だから、2階になっているところは、座敷以外の部分です。中2階の部分はもの入れになっていました。
 カマヤ(台所)について説明しますと、井戸の深さは2間半(約4.6m)、つるべで水を汲んでいました。水は冷たくていい水が出ていました。昔は井戸の口を空けていたので、冷蔵庫のない時代であり、井戸の口に棒をわたして、傷みそうなご飯をアジカ(つり下げる取っ手のついた籠)に入れて吊(つる)したり、スイカを冷やしたりしていました。後に、井戸の口を開けていると危ないというのでふたをしてポンプをつけました。」と話す。**さんは「私が来たころはまだつるべで、下ろすときに上の滑車からロープが外れたりつるべの桶(おけ)がなかなかひっくりかえらず苦労した覚えがあります。桶は重いので後にはバケツにしました。」と話す。**さんは、「かまどはミツクドといいます。両端の二つのクドいずれを炊いても真ん中のクドに掛かっている茶釜の湯が沸いていて、茶袋を毎朝吊しておきます。そうするとお茶が沸いていました。左のクドでご飯やおかず、卵焼きまでここで作っていました。右端はいつも大きな鉄釜が置いてあって牛の餌を炊いて牛の煮物と言っていました。」と話す。**さんは「焚(た)きつけにはスクズといって枯れた松葉の葉を使っていました。うちわや火吹き竹を使ってもなかなか火がつかず苦労しました。」と話す。
 **さんは「食事は朝と昼は土足のままで食卓で食べます。椅子(いす)は幅の狭いむしろをくるくる巻いて真ん中を縛ったような形の物です。ぬれると駄目ですが冬は暖かくてよかったですよ。夕食は茶の間で食べていました。食事は箱膳(はこぜん)です。1段の重箱みたいなもので、個々人の茶碗や皿、箸(はし)が入るくらいなもので、ふたがついていました。大人の膳は少し高めで下に引き出しが付いていました。そこに書類なんかを入れていました。めったに洗わないし、食べ残したものをそのまま置いていたりするし、不潔な感じもしますが、お茶を飲んだりするときに自然に洗えたんでしょうね。茶の間の座席は母親の座席がご飯をよそう関係でほぼ決まり、父親が母親の側でしたが、決まっているということはなかったと思います。掘りごたつは食後に入る人もいましたが、年寄りはそれに入らず、部屋の大和ごたつ(陶器製のこたつ)の方へ行っていました。小さいのでみんなは入れないんです。
 醬油(しょうゆ)は大きな醬油樽(だる)に籠(かご)を入れてにじみ出てくるのを取って使っていました。残った醬油の実は全部水に溶いてウシにやっていました。ウシが喜びましたねえ。私らは醬油の実ではなく味噌(みそ)を食べていました。表面の味噌は黒く固くなっているので、それを剥(は)がして下の方の部分を食べていました。黒くなった味噌も一緒に混ぜておくともとに返るんで、空気に当たる部分が固くなっていたんです。
 かなり昔のことになりますが、ニワ(土間のこと)で泥臼(どろうす)を引いて籾すりをしていました。臼はカタギ(アラカシ)で歯を作った臼で、臼の取っ手の穴にケサを差し込んで、2、3人がかりで回していました(写真2-1-19参照)。だから広いニワが必要だったんです。ニワから出し入れできる芋つぼも作られていました。このニワですった米や麦を俵に詰めておくのがイチブでした。回りぜんぶ壁にした蔵のような施設です。虫やネズミが入らないように分厚い壁でした。売る米も入れていましたが、ウチで食べる分もあるから、年中米と麦が入っていました。新しい米を入れるときにはピクリン(塩化ピクリン)という薬で消毒していましたが、これで消毒すると目がパチパチして夜が眠れないで困りました。まあ、虫が死ぬんですからねえ。籾すりやヤグラ、芋つぼが必要でなくなったとき、ニワもいらなくなり、造作してヨマ(居室)に作り替えました。     
 玄関は大きな板戸で、昼間は腰高障子の戸にしていました。何しろ大きな戸で何度も開け閉めしなくていいように潜り戸を付けていました。錠は棒を落とし込んで閉まるようにした戸で、鍵(かぎ)は文字どおり鍵型に曲がった昔ながらの鍵を使っていました。戸には鍵を差し込む穴があいていました。
 風呂(ふろ)と便所は母屋の外側にありましたが母屋にくっついていました。この辺りは右ヨマ(右側に居室があること)ですから、来客のトイレに対応できるようにしていたんです。一方で農家ですから、外便所もありました。私らが子どものときは、便所のことを二重橋といっていました。板が2枚わたしてあるだけの便所だったからです。風呂水も一緒になった下肥を、その板をはずしては汲んでいました。ここの便槽は風呂水も入るんですからそれは大きかったですよ。4尺(約1.2m)に1間(約1.8m)ほどの面積で、肥たごにして40~45荷(か)は十分入っていました。それに玄関脇に小便用の外便所がありました。「肥取(こえと)り」といっていましたが、訪ねてきた客もここで小便しては『こんにちは』だったんです。これらの下肥は麦や野菜の肥料になっていました。だから、風呂水だけでなく、お正月用の糯米(もちごめ)の研ぎ汁まで入れていました。これしか肥料がなかったんです。稲は生育期間中にやったらいけませんので、ウチはなかったのですが、タメツボ(野壺)といって大きな穴を田んぼの側に掘っておいてそこに下肥をためておき、稲を植える前にそれを撒いているウチもありました。下肥が足らんウチでしょうか、西条市壬生川まで買いに行って直径50cmもあるような大きな肥たごをリヤカーに積んで帰っているのを見ました。年末には糯米(もちごめ)をお礼に持っていくという話でした。壬生川(にゅうがわ)まで行くいうたら半日かかりますよ。風呂と便所を外れたところに持っていくのは、臭いのと火を使って危ないからではないでしょうか。
 ウチは風呂(ふろ)があったんですが、近所では寄り合い風呂の習慣がありました。みんながお金を出しおうて風呂を作ったものです。4、5軒で作って、沸かす順番もあったんでしょうか、当時は大家族ですから縁台の足が折れるんじゃないかと思うくらい人が待っていました。人が集まるから話に花が咲いてにぎやかでした。みんなが済むまでに夜中までかかっていました。
 奥の間は寝間です。前の間は客間としても使っていました。ちょっとした来客が『こんばんは』と来たりすると前の間です。ご馳走がでるときには座敷を使います。座敷は祖父が寝ていましたが、年に何回かしかない行事で、金比羅講(こんぴらこう)とかお大師講、地区の会合などのときには座敷を使います。結婚式は大勢になりますから、襖(ふすま)や障子を抜いて使っていました。結婚式のお客さんはヨマグチから上がっていました。ヨマグチには踏み台がなかったので、臨時の踏み台を作っていました。死んだ人もヨマグチから出ていました。嫁さんは『嫁はニワからもらえ』と言いますから、玄関から入ったんだと思います。座敷のところにある踏み石はお寺さんが使っていました。母屋の2階はたんすやひつを置いている部屋で、子どもたちの部屋になっていました。結婚当初は私たちもここに寝ていました。
 正月には、床の間の神棚に三方をおいて、一つの三方にサトイモ、ダイコン、ニンジン、魚一対を、もう一方の三方にお餅(もち)を供えていました。正月2日には、父親が別に板1枚の神棚を作って、お棚といい、その上に六角に切った大根とかいろんな品を置いて、それを下ろしてお雑煮を作っていました。雑煮の材料は餅、いりこ、ダイコン、サトイモなどですが、サトイモは必ず入れます。正月3が日はサトイモは切らずに丸のままで使うといわれました。月見のときも丸のままでしょう。それに正月3が日は父親が朝早く松明(たいまつ)つけて、クミジに行ってひしゃくで若水を汲んでいました。この風習は親父の代で終わりました。しめ飾りは、縄とウラジロとダイダイで作り玄関とオイベッサン(写真2-1-20参照)にあげます。オイベッサンのしめ飾りは翌年新しいしめ飾りを供えるまでそのままにします。オイベッサンは人目につかない所に祀(まつ)るものらしいので茶の間の隅においていました。牛を売るなど大金が入ったり、お包みをいただいたりしたときにはオイベッサンの棚にまず供えていました。荒神さんは台所の柱に、お宮のような屋根をつけた箱に祀っていました。」と話す。

図表2-1-20 昭和30年ころの**家母屋

図表2-1-20 昭和30年ころの**家母屋

**さん夫妻さんからの聞き取りにより作成。

写真2-1-19 挽き臼と遣り木

写真2-1-19 挽き臼と遣り木

泥臼も同じようなひき方をする。西条市上市。平成17年10月撮影

写真2-1-20 オイベッサン

写真2-1-20 オイベッサン

西条市上市。平成17年9月撮影