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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(1)長屋門のある家-**家-①

 伊予(いよ)市下三谷(しもみたに)地区は、松山(まつやま)平野の南東部、扇状地性の地形に位置する集落で、水田地帯である。気候は温暖小雨で、他地区との水争いが記されたりしているが、昭和20年(1945年)大谷池の完成をみて水不足は解消された。条里制を思わせる小字名も残り、早くから開けていた地区である。**さん(大正12年生まれ)、**さん(大正13年生まれ)夫妻に聞いた。

 ア 生業

 **家の生業は稲作であり、戦前は自作兼地主であった。**さんは、戦前は勤めに出ており、親の跡を継いで農業を始めたのは昭和26年(1951年)である。水稲耕作について聞いた。**さんは、「苗代を立てるのが5月中旬、田植えは7月でした。7月20日ころになっても雨が降らなかったら、『もう、田植えを止めてダイズ植えるか』と言っていました。今と比べるとずいぶん遅い田植えでした。田植えをしてからの主な仕事は田の草取りと病害虫の駆除でした。
 コロガシやハッタンズリ(写真2-1-13参照)という道具で除草します。碁盤目状にコロガシをかけてもイネの回りは除草できないので、手作業でイネの株回りの除草をします。これをモトカキといいます。田に膝(ひざ)をついたり、腰をかがめて行う重労働でした。股(また)の間にイネを1列またぎ、両側の2列を含めて合計5列を掻(か)いて行きます。しんどい仕事ですが、これをすればするほどイネの成育はよかったです。
 虫の防除作業は、まずニカメイチュウで、イネの生育期間中に2回孵化(ふか)する虫です。特に穂が出るころに発生する場合にはシラホドリといって、ニカメイチュウが入っている穂を小さな刃先の鎌で1本1本刈り取っていきます。1本の茎に5匹も6匹も虫が入っていました。この作業が一仕事で、これをやらんと白穂ができます。もう一つの虫はウンカです。最近は減りましたが、当時は農薬が開発されていない時代でたくさんいました。これは円筒形をして先のとがった容器に重油を入れて、少しずつ田の面に落として膜を作ります。それを足で蹴飛(けと)ばしながら歩くのです。大きくなったイネをまたぎながらの作業ですので、ズボンの股がイネの葉にすれて破れることがありました。これをすると、稲株の根本に10匹も20匹もついているまだ飛ばないウンカの幼虫に油が掛かります。油で幼虫の呼吸器をふさいで防除するんです。飛ぶウンカは仕方がなかったが2回ほどこの重油をやると、虫はだいぶん減ってきていました。
 イネの刈り入れは早くて10月の末、遅ければ11月でした。その後早稲(わせ)の『日本晴れ』が出ましたがそれでも10月15日以降でした。刈り入れたイネは稲木か地干しにします。地干しというのは稲株の上に刈ったイネを置いて行く方法で、これは雨になると大変でした。夜でも田んぼに行ってイネを束にし、何か所かに集めて積み重ねます。そうすれば一番上は濡(ぬ)れますが下のは助かります。何日も乾かしてから足踏み式の脱穀機で脱穀していました。子どもは足踏みを手伝うくらいで、母親が適当な大きさにしたイネの束を父親に渡していました。籾になったら、ケンド(ふるい)や風で、籾とわら屑をより分け、かます(穀物などを入れるむしろ製の袋)に入れて持って帰っていました。
 麦を蒔(ま)くのは早くて11月の末くらいです。しかしこの辺りでは、土地が粘土質の地域だから、もともと麦はあまりたくさんは作っていませんでした。」と話す。

 イ 屋敷構え

 **家は平野部の住まいらしく、図表2-1-15のようにほぼ台形に近い南向きの屋敷取りである。裏側と西側を白壁で囲い、東側は杉垣である。この地域には多い長屋門をもつ。長屋門は本来は武家屋敷に用いられ中間(ちゅうげん)などを住まわせたところであったが、農家にあっては納屋や厩舎(きゅうしゃ)に用いられ普及したものである。この母屋は、かつて家が焼けたときによそから古屋を買ったもので、もとは江戸時代に建てられたものという。その家も昭和36年(1961年)に建て替え現在に至っている。北東の鬼門(陰陽道で悪鬼が出入りするという北東の方角)、南西の裏鬼門を欠いた構えとなっている。
 **さんは、「家相は、祖父が気にしたほうで南西の裏鬼門は物を入れたらいかんいうのでわざと欠くようにして畑と池を作っていました。池といっても小川の水が流れ込んでいて、コイなど飼う池ではありません。ドジョウはいましたね。防火用水のようなものでしょうか。この裏鬼門を切ると乾張(いぬいば)りといって北西側が出っ張ってよくなるんだそうです。鬼門(北東)も切って空き地を作っています。
 母屋以外には隠居、長屋門、便所と風呂、鎮火さん、干し場、畑などの建物や施設がありました。順をおって見ていきましょう。まず隠居です。隠居は完全に独立した形になっていて、便所、台所、さらには土蔵までありました。隠居する契機は子どもの結婚です。父が日露戦争から帰ってきて間もなく結婚し、そのころに祖父がこの隠居所を作ったということです。隠居したら、地区のつきあいは子どもがします。家の顔は子どもに移るんです。
 次いで長屋門は門長屋(図表2-1-16参照)とか長屋と呼びます。東側は1間ほど上がったところに格子窓、西側はやや低いところに窓がありました。門の内部は西側が駄屋でウシを飼っていました。駄屋はやや天井が低く風通しに格子窓をつけたもので、天井裏にはかますや糯(もち)わら、わら製品の道具を入れていました。糯わらは糯米のわらで、ぞうりやホゴ(わらで編んだ運搬用のいれもの)にするし、柔らかくて丈夫なのでわら細工に向いていて、たくさん取って帰っていました。駄屋の前にあるわら置き場は、ウシの餌(えさ)にする普通のわらの置き場です。ウシは、田の耕作が耕運機になるまでは大抵のところで飼っていました。ウチは昭和26年(1951年)に父が亡くなって、博労(ばくろう)連中(牛馬の売買をする人達)が不幸を断ち切るためにケガエ(主人が亡くなるとその家の動物を替えること)をせんといかんというのでウシを売り、その後は飼いませんでした。耕運機を使って賃鋤(ちんすき)をする友達がいたから、田の耕作は任したのです。それまでは、ウシを使って田ごしらえを済ますと、夏の間は青草があるし涼しいですから、伊予(いよ)市中山(なかやま)町に上げて飼ってもらっていました。昔は歩いて1日がかりで行っていたのですが、戦後はトラックを共同で借りて5、6頭一緒に載せて連れて行きました。私とこはいつも**さんいう人に預かってもらっていて、田植え時分には**さんに手伝いに来てもらうなど交流がありました。ウシは麦蒔(むぎまき)にも使っていたので、夏過ぎには降ろしていました。降ろしたウシの食べ物は、わらが主で、ほかに麦や屑米を炊いて、ぬかも一緒にわらに混ぜて与えていました。門長屋の東側はやや広い土間が取ってありました。その土間には泥臼(どろうす)(籾摺臼(もみすりうす))や唐箕(とうみ)(選別具)などの道具が置かれており、昔はここで籾すりが行われていたようです。泥臼にはハンドルがあって、それに遣(や)り木をつけ、遣り木はロープで上から吊(つ)って使っていました。それに壁際には熊手(くまで)や鍬(くわ)などを引っかけるようになっていました。土間の北東側には籾倉(もみぐら)がついていました。これは籾摺(もみす)り前の乾燥した籾を臨時に蓄えるところです。籾倉の出し入れ口は何段も板を立てるようになっていて、籾がいっぱいになると新しい板を立て、また籾を入れていく仕組みになっていました。私たちの籾すりは、籾すり機を使って乾し場でしていたのですが、土間で籾すりをしていた名残で、籾蔵の出し入れ口はこの門長屋の中にありました。この土間は、わら仕事にも使っていて、そとにわらをたたく油石が置いてありました。父はこの土間で近所の子を集めて柔道を教えたりもしていました。

写真2-1-13 ハッタンズリ 

写真2-1-13 ハッタンズリ 

西条市上市。平成17年10月撮影

図表2-1-15 戦前の**家屋敷取り

図表2-1-15 戦前の**家屋敷取り

**さん夫妻からの聞き取りにより作成。

図表2-1-16 長屋門

図表2-1-16 長屋門

**さん夫妻からの聞き取りにより作成。