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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(2)ランプのくらし-**家-①

 鬼北(きほく)町上鍵山(かみかぎやま)地区は、四万十川(しまんとがわ)の支流広見川(ひろみがわ)の上流域で、高知県檮原(ゆすはら)町を間近にする四国山地にあり、標高は約300m近くの谷あいに立地する。上鍵山の属していた旧日吉(ひよし)村の人口は昭和35年(1960年)約4,400人、それが平成12年(2000年)には約1,900人に激減し、急速な過疎の進む地域でもある。北宇和(きたうわ)郡鬼北(きほく)町上鍵山の**さん(大正12年生まれ)、**さん(大正15年生まれ)夫妻に聞いた。

 ア 生業

 **家の生業はシイタケ栽培と米麦の栽培や牛の肥育などであり、昭和初期は養蚕も行っていた。主たる収入源であるシイタケ栽培について聞いた。**さんは次男に生まれ、和菓子屋に丁稚(でっち)奉公、戦時中は軍需工場で働いたり兵役にとられたりの生活で農業には縁が薄かったが、兄が戦死したため戦後は農業に従事することになった。
 **さんは、「この地域には戦前から時々ブンゴジン(豊後人つまり大分県の人)がやって来てシイタケの天然栽培に従事していました。おそらくこのあたりの山にはノブ(ノグルミ)、ナラ(コナラ)などのシイタケの原木になる木が多かったからだろうと思います。その手伝いをしながら技術を習得していったものと思われますが、父は戦前から天然菌糸のシイタケを栽培していました。人工の菌糸を植え付けて栽培する方法とは違いましたから、貴重なもので、乾しシイタケ100匁(375g)で今のお金にしたら約1万円くらいになったと思います。
 天然栽培ですから技術がないとできませんでした。原木は個人から買ったり、自分の山のを伐ったりしていました。クヌギは植えないといけませんが、昔は針葉樹の木は少なかったからノブやナラは比較的容易に手に入っていました。これらの原木は伐ってもすぐ芽を吹いていましたから、15年もするとまた立派な原木に成長していました。原木を伐る時期に要領がいりまして、10月ころ、木の葉が色づくころあいに、伐採するんです。木の水が上がったとき伐るということでした。その原木を適当な長さにして、鎌切りといって切り目をポンポンといくつか入れるんです。シイタケの菌は空気中をいくらでも飛んでいるのですから、それが切り目につくのを応用するわけです。その原木にシイタケが生える確率は、上手下手もありますが大体6割から7割です。菌がつくと2、3年で生え始めます。天然栽培の場合は秋と春に生えていました。そのころはシイタケは難しいからと、この辺りでは養蚕ばかりで、シイタケ栽培をする人が少なかったので絶対量が少なく、色が黒かろうが、肉厚だろうが肉薄だろうが高値で取引されていました。
 シイタケの乾燥は土小屋といって粗壁の小屋でやっていました。そのころは全部木炭乾燥で、下に1mと1.5mほどの穴を幾つか掘って炭火をいれ、上の方には10段ほど棚を作り、下が乾いたら上の段と入れ替えるなどの作業をやっていました。暑くてきつい仕事でした。土小屋は、幅が2間(約3.6m)長さが5間(約9.1m)ほどもあったでしょうか。大きなナバ(キノコ)籠(かご)10杯分くらいを一度に乾かしていました。この土小屋は火を使うので家より少し離れたところに建てていました。後にシイタケの乾燥機が入ってからは、別の小屋で乾燥していました。シイタケの販売は、森林組合ができるまで、専門の業者がいて、神戸(こうべ)の方に売りさばいていました。
 昭和30年代半ばころにはシイタケの人工栽培が始まり、特別な技術を必要としなくなって、あっという間に広がり、この地域の特産品になりました。しかし、天然の菌は強いので、人工栽培よりは長いこと生えていました。人工栽培は4、5年もすると原木が腐ってしまっていましたが、天然栽培のものは8年でも10年でも生えていました。そのかわり人工栽培になると、菌糸によって秋生え、春生え自由に選べます。秋生えは薄手のシイタケが、春生えは厚手のシイタケが生えます。今はドンコといって肉厚の菌種が人気です。
 田んぼはこの辺りでは多い方で4反(約40a)ほど作っていましたが、米はほとんど売って、食べるのは裏作で作っている麦と少しの米でした。この辺りでは、『3反(約30a)百姓は食える。』と言いまして、3反あればぜいたくはできませんが、男衆(おとこし)などに出稼ぎに行かなくても麦飯くらいは食べることができました。」と話す。

 イ 屋敷構え

 **家の昭和30年(1955年)ころの屋敷構えを図示した(図表2-1-6参照)。この地域では屋敷を屋地(やじ)と呼んでいるが、山麓(さんろく)に細長く連なる屋敷構えである。中心となる母屋は入母屋のカヤ葺き屋根で、そのほか瓦葺(かわらぶ)き、杉皮葺きなど様々な建物を持つ家である。西端には大師堂があり、東側には第2の隠居であるカンキョ(閑居)が後に作られた。
 **さんは、「家相や風水はいいませんし、屋敷神もありません。けど、お正月には神主さんや山伏などが来て家祈禱(やぎとう)(家内安全の祈禱)というのをやっていまして、お札をもらって座敷、カマヤの火の神様、井戸の水神様、便所、風呂場、蔵、味噌(みそ)蔵、駄屋など、あちこちに貼(は)っていました。
 最初に母屋以外のヘヤ(隠居部屋ともいう)、大師堂、納屋、蔵、風呂と便所について順に説明します。まず、ヘヤは私が生まれたころにできたもので、80年くらいたっています。大体このあたりの風習なんですが、隠居する契機は子どもの結婚で、隠居すると同時に仕事は子どもが取り仕切ります。隠居はヘヤに移ります。もし、隠居した人の親、つまり祖父母がいた場合にはカンキョを作ってそちらに祖父母が移ります。私の場合は祖母が元気でしたから、それで入り口のところにカンキョを作りました。それぞれ独立した生計を保てるようになっており、便所、台所が完備しています。
 次に大師堂は、曾祖父(そうそふ)のころに信仰し始めて作ったようです。曾祖父は、大師講や近所で家祈禱もやっていましたが、親の代にはもうやっていませんでした。しかし、善根宿(遍路のための無料宿泊施設)はやっていて、大師堂に泊めてあげ、食事の準備などの手助けもしていました。お遍路さんといっても、この辺りは遍路道はありませんから、信仰半分、食べるため半分の遍路が来ていたんです。『食い国遍路』と悪口をいう人もいました。単に門づけだけされたときには5勺(しゃく)(約90mℓ)ほどでしょうか米をお接待していました。     
 さらに草葺(ふ)きの納屋は、半分が駄屋で、半分が納屋です。駄屋にはウシを飼っていました。ウチは2、3頭でしたが、この辺りでは3、4頭が普通でした。1頭は大きなウシを持っていて労働力としてつかいます。堆肥は取れるし、小さいウシを肥育して肉牛として売るといい小遣いにもなっていました。飼料は人間が食うに困っていたんですから草だけです。当時は、川に生えるヨシまで1本もないくらい刈り取られていました。ようハメ(マムシ)にかまれなんだもので、草鞋(わらじ)を履いて朝暗い内に1荷はウシのえさを刈って来ないといけなかったんです。労働力としては、田を鋤(す)くのが一番の仕事ですが、昭和30年ころは木材が面白いように売れ、木を引き出す仕事にも使いました。山で皮を剥(は)ぎ、乾燥させてできるだけ軽くした木材をトラックの通る道まで運び出すんです。こんな労働をするウシは少なくとも120貫(450kg)以上もあるような雄牛でないとできません。田仕事を考えてもこの辺りでは雄牛を飼っていました。木が滑って牛の足に当たりそうになったら、ちゃっちゃっと小走りに逃げていました。ウシは大変利口な動物です。木材運搬の経験のあるウシは、田を鋤くのにも非常に使いやすかったです。木材運搬でしつけていますから、田を鋤いているときに『さしっ』というとすぐに左に曲がるようになるんです。右は綱を引っ張ればいいので、ウシを引く鼻やりの仕事が一人省けるんです。堆肥は、当時品評会があるくらい大切な肥料で、麦田にやっていました。
 稲の肥料には堆肥は使っていません。方々にあった肥草刈りの場所で夏草を刈ってワラグロにしておいて、春の彼岸に下ろして枯れ草を水田にすきこんでいました。 
 脱穀精米は納屋と庭でやっていました。子ども時分の脱穀は、庭で千歯扱(せんばこ)きでやっていました。それだけで全部は落ちませんから、から竿でたたいたりします。納屋には泥臼(どろうす)が置いてありました。これは籾(もみ)すりの道具です。籠(かご)の中は赤土に塩を入れて練った土が入れてあります。これにカタギ(アラカシ)を板に削って挽(ひ)き臼(うす)の歯のように作る臼の専門業者がいました。何年かすると歯がすり減るので付け替えたりしていました。これで籾すりをするのは主に冬の仕事でしたが、3人ほどでかかる大仕事でした。泥臼から角のように出た棒の穴に遣り木をさして動かすんです。泥臼で挽いた籾はマンゴク(万石簁(どおし)。穀物の選別具)でふるいに掛け、玄米になっていない籾はもう一度泥臼にかけていました。自宅で使う玄米はヤグラで精米していました。
 稲わらを使ってわら草履を作ったり、ホゴ(わらで編んだ運搬用のいれもの)を編んだりする仕事は、わらたたき石が納屋にあったけれども、土間で夜なべ仕事としていました。夜なべはせんといかんような地域の風潮で、大黒柱に掛かったランプの下でやっていました。
 次に蔵ですが、蔵には米や麦、籾も入っていました。味噌(みそ)蔵は味噌や醬油(しょうゆ)、タカナやコウコ(たくあん)などの漬け物が入っていました。味噌や醬油は大変重要な食品でした。味噌は麦やダイズ、場合によっては二等米のような米を入れて作っていました。醬油は籠(かご)を浸けてしみ出してきたのを使っていましたが、残った醬油の実(ひしお)も食べていました。
 最後に、便所と風呂(ふろ)は一つの建物です。風呂水は便槽に入れていました。農家の便所は、下肥を汲む肥たごという桶(おけ)があるでしょう。あれで最低でも100杯はある大きさでした。人糞尿(じんぷんにょう)は大切な肥料でした。風呂水と混合して直接麦田にやっていました。4反の田にやる下肥の量は半端ではありません。人糞尿と風呂水でも足りない人は、谷の水を流し込んで増量していました。あまり効かないでしょうねえ。室内にも便所はありますが、これは病人と来客用です。便所といっても、支柱の上に編んだ竹を敷いたような物で、それに穴が開いていて、前に板が1枚ついているだけのもので、ザノコといっていました。竹を使っていたのは製材がなかったし、板が貴重だったからです。家を建てるときの板は、大工さんが木挽(こび)きで引いた物です。垂木も柱も全部大工さんが木材から作りながら家を建てていました。風呂は五右衛門風呂で、底板を上手に敷かないと、尻が熱くて大変でした。」と話す。

図表2-1-6 昭和30年ころの**家屋敷構え

図表2-1-6 昭和30年ころの**家屋敷構え

**さん夫妻からの聞き取りにより作成。