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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(1)大工修行

 ア 海を越えて

 **さん(松山(まつやま)市西垣生(にしはぶ)町 昭和2年生まれ)は、東温(とうおん)市川内(かわうち)町出身で、父親の元で跡継ぎとして大工修行していたが、広島県の親方の元に弟子入りし厳しい修行生活を経験した。また戦後しばらく山口県でさまざまな建築仕事の経験を積んで、愛媛に帰って来た棟梁である。**さんは親方に弟子入りして、大工修行を続けた日々と山口県での建築修行の思い出を次のように話した。 
 「親父は大工でしたので、私は小学校を出るとすぐその下で仕事を覚えて行きました。昭和17年(1942年)に広島県安芸(あき)郡府中(ふちゅう)町の親父の知り合いの棟梁に弟子入りしました。『他人の飯を食べて、一人前になってこい。』と送り出されたのです。広島駅に迎えに来ているからということで、満で15歳のときに今治まで送ってもらい、一人で船に乗って広島へ渡りました。   
 自分の所から一番先に『仕込んでくれ。』と出したから、親父にとって私は一番弟子に当たるのです。広島の親方はよく世話をしてくれましたが、技と心得については相当に厳しい日々でした。下手なことをすると、本気ではないのですが、木の切れっ端(ぱし)や、ときには金槌(かなづち)まで飛んできたりするほどでした。私も何度も愛媛へ帰ろうかと思いました。山口県から来ていた人は帰ってしまいました。陸続きなら歩いて帰れる。私は間に大きい瀬戸内海があるので、帰ることもならず、つらい修行をしました。後で考えたら、帰ることもならず、修行を続けたのが良かったのだと思うのです。 
 少しは気になったのでしょうか、親父はたまに来てくれました。親方は肌着などは買ってくれましたが、あとは食べさせてくれるだけで、当時の年季奉公(一定の年限を定めて勤めること)としてはそれが当たり前でした。親父が来ると、まず作業着やジャンパーそして自転車など、また後には腕時計も買ってくれました。
 親方の元には兄弟子が大勢おり、一人前になるのには普通かなりの時間がかかります。ところが戦時中であったので、歳の順に補充兵にとられたりして、案外早く上の立場になる機会が回って来ました。小さい物から大きい物へと墨付け(木材の面に墨で加工のための線や印を付けること)をさせてもらうようになると、一人前なのです。順に墨付けの格が上がり、あるとき広島の自動車工場で、更衣室の60坪(約198m²)分の『墨付けてみい。』と言われて『はい』と言ってやってみました。建前のときには、鳶職(とびしょく)が上がって組むのですが、後で鳶さんが『おい、ぼんさん、お前がこの墨付けたと聞いたが、一つも間違えてなかったぞ。』とほめてくれました。
 昭和19年(1944年)に、現役志願で工兵として香川県善通寺(ぜんつうじ)の部隊に入隊しました。もし志願せずに広島で大工修行をしていたら、原爆でやられていたはずです。身が軽いので、上等兵(旧日本軍の兵の位)から大事にしてもらいました。最初松の木にロープを結びつける訓練がありましたが、要求された9種類の結び方のうち6種類まで結ぶことができたので、早くから認めてもらえました。『**お前、仕事は何をしていたのか。』と上等兵から聞かれまして、『実は、大工ですが。』と答えました。それ以後上等兵の指示で、同期に入った仲間に結び方を教えることなどもするようになりました。
 あるとき、姉から手紙が来まして、内務班(旧日本軍の兵営内における日常生活の単位)のみんなの前で読み上げさせられて、冷や汗をかいたことがありました。内容に問題はなかったのですが、困ったことだと思い、旧温泉郡出身の上官に相談したところ、それ以後その上官から直接私に手渡していただけるようになり、助かりました。
 18歳で終戦を迎えました。知り合いの上官が終戦時に少尉となり、『お前は次男だから、残務処理に残れ。』と言われ、しばらく残りました。香川県と徳島県の県境の雲辺(うんぺん)寺に工兵隊の駐屯地があり、そこで残務に当たりました。高い屋根の丸太を寄せた大きい兵舎でした。ときどき日帰りで壬生川(にゅうがわ)駅まで汽車で帰り、バスに乗り換えて実家のある川内町へ帰りました。
 残務も終わり、昭和21年(1946年)に実家で親父を手伝って、家を建てるようになりましたが、親父が急に死んでしまいました。村の人、親戚の人などが『親父の子じゃろが。しっかりやれ。』と言って、家を建てる話を持って来てくれ、自分で墨を付けて、刻んで建てました。しかし困ったことには、兄弟弟子が広島なので、いざというときに間に合わないのです。職人を集めるにしろ、建築資材をそろえるにしろ、若い私は大分苦労しました。
 昭和24年(1949年)に仲間から山口県での仕事の話が来て、岩国(いわくに)へ出かけました。朝鮮動乱が休戦となった昭和28年(1953年)には、岩国で米軍の航空隊の仕事をするようになりました。手間賃が県や市などの公共の仕事の3倍でした。ただし仕事のミスは許してくれません。一言『ノー。』と言われたら、すべて終わりです。当時の建物は鉄主体のかまぼこ兵舎でした。朝鮮から持ち帰ったものを、また組み建てるのです。危険はありましたが、収入は大きかったのです。
 当時松山の日当が350円で、岩国は400円でした。社長や専務が見ていて、『あいつは使える。』と仕事ぶりを認めると、次は50円上げてくれるのです。600円までは50円刻み、600円からはランクが変わって、100円刻みに上がりました。相当もうけましたので、後日の大きい仕事のための準備資金を貯めることが出来ました。
 親方が亡くなって、現場の引き受けをみんなが渋り、独身の私に仕事が回ることになりました。歳の若い者が責任を持たされるのですから、**の言うことはみんなが聞くという約束で引き受けました。兵舎の仕事の後は、将校用の住宅の仕事をするようになりました。
 その後、コンクリートの基礎工事に取り組みました。当時は仮枠工事の専門の業者がいなくて、需要が非常に大きかったのです。セメントを練るのも、手回しのミキサーが出始めたころでした。あのころの建築機材の変化は目まぐるしいものでした。ビルなどの大きい工事の経験も積みました。
 さらに宮島の県営住宅の仕事が入ってきましたが、工期を短く切られた仕事で、25軒の内13軒は、他の業者の手で柱が立てられ押し入れの造作が始まっていて、残りの12軒を『同時竣工(しゅんこう)せよ。』という条件でした。『無理は承知だが。』と、社長から相談がありました。生来負けず嫌いでしたので、『なんとか、やってみましょう。』と言って仲間を集め、突貫工事を始めました。作業能率を上げようと、当時は珍しかった電動の丸ノコを4万円で買いました。大きさ40cmで、重さが30kgもあり、めったに売れるものではなく、金物屋がびっくりしていました。おかげで、なんとか工期に間に合わすことが出来ました。そのせいか次には県営住宅35軒全部の仕事が回って来て、社長も大喜びでした。良い仕事をしようと思えば、まず人です。助けてくれる仲間です。もうけようと思えば、良い道具です。腕を磨き、道具をそろえ、人を集めて、初めて良い家が建つのです。」

 イ 弟子を育てつつ

 **さん(宇和島(うわじま)市丸穂(まるお)町 昭和2年生まれ)は、棟梁として長らく家屋の建築に携わり、多くの弟子を育ててきた。**さんは大工修行の日々と、弟子を育てることについて次のように話した。
 「私が弟子入りしたのは、少し遅くて21歳のときでした。家は内海(うちうみ)村油袋(ゆたい)(現愛南(あいなん)町)の農家でした。兄貴が戦争に行っている間は、親父を手伝って畑と漁師の生活をしていました。私が18歳のとき、兄貴が除隊して帰って来ました。しばらくして親父から『お前が家の跡を継ぐのではないし、分家になって家督を分けてやるとしたら、三反貧乏で、お前も食べられず、兄貴も食べられずという形になるから、お前は職人になって、一本立ちしてくれんか。』と言われました。そこで津島(つしま)町須下(すげ)の親方に弟子入りしたのです。この人は彫刻でもなんでもできるすごい腕の人でした。人が辛抱するくらいのことは、自分も辛抱するという気持ちは持っていましたから、親方の元での修行は苦になりませんでした。棟梁に7年間仕込んでもらい、27歳になって年季が明けました。
 独立して初めの2年間は家を借りて住みましたが、29歳のときに住宅金融公庫で借りて、今の自分の家を建てました。土地が6万円と家が42万円くらいでした。20年間払うのですが、毎月3,500円くらい払っていました。利息も加算されているのでしょう。私の今の家は図板(大工が建築現場で使う、板に描いた図面)が残っていますが、しばらくすると青写真(青地に白線あるいは白地に青線の複製図)を板に張って、現場で見るようになりました。
 夜は遅くまで仕事をしていました。朝までかかって図面を仕上げて、それを持って施主さんと交渉していました。施主さんが『ここをこうしてほしい。』と言われて、私は『そうすると、こちらはこうなって、具合が悪くなりますよ。』と他の部分に起こる変化を説明したり、『それならいっそこういうふうにしたらどうですか。』などと代案を勧めたりしました。そのように話を進めて、具体化させ図面を仕上げていったものです。
 弟子をとったのは昭和31年(1956年)ころのことでした。それから昭和60年(1985年)ころまで弟子がおりました。数えて30人近くになると思います。近隣の中学校を卒業した子たちに、簡単な試験と面接をして選びました。6人の弟子を養いながら、棟梁としての仕事を進めて行きました。
 なにしろ食べ盛りの元気者ばかりなので、家内はこの台所で毎日ご飯を3升5合炊きました。洗濯も毎日で、繕いもしてやらないといけないし、それはそれは忙しい毎日でした。子どもももう少しほしかったのですが、弟子を育てるのに忙しく、結局わが子は男の子二人です。弟子で一番年長は今62歳になっています。その子はこの間、40年ぶりに大阪から訪ねて来ました。県内にも4人おります。途中でやめる子もいますし、ときには銭儲(もう)けの方向に走り出す子もいました。当時は1か月に1,500円くらいの賃金でした。私が弟子入りした昭和20年(1945年)ころは、一銭もお金はもらいませんでした。盆と正月に小遣いをもらうくらいでした。親からの仕送りもなく、棟上げのときに御祝儀をもらうのが楽しみでした。
 私が60歳になるまでの間は、夜は人に紹介してもらった施主さんとの折衝をして、帰ってくると2時、3時でした。それから一眠りして、起きて弟子の仕事をこしらえたのです。自分が墨を付けて『これは、こういうふうに刻めよ。ここはこういうようにせよ。』と指示をして、仕事の段取りを組んだのです。大工仕事の順序としては、最初は継ぎ手(部材を長手方向につなぐ木組み)の穴彫りだけです。細工するところはさせてもらえません。ギムネというボルト錐(ぎり)(ねじ状の錐)であらかじめ丸く穴を彫っておいて、大体一つの穴を3回ほどやりかえて、深さ3寸(約9cm)の穴をきれいに作らせるわけです。ノミを金槌でたたいて仕上げさせるのです。それが半年くらいたって大分頭に入ってきたら、次は刻みといって仕口(部材を交差する方向につなぐ木組み)の刻みをさせます。いわゆるホゾ(二つの木材を接合するとき、一方の木材に作る突起)やそれを受ける部分の刻みをさせるわけなのです。
 今から14~15年前のことですが、宇和島の造船会社がつぶれて、県に頼まれて失業対策事業の世話もしました。愛媛県職業能力開発協会から『半年の実技講習をやってほしい。』と言われて、引き受けました。1期生が12人いました。私の現場の仕事も手伝わすし、雨のときは、設計から基礎工事など、全部図面に表して教えたわけです。学科をするための机から椅子の用意もして、4年間教室を開きました。そのころ、一方では弟子が3人くらいおり、それの育てはまた別途で、忙しい毎日でした。」