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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(1)山あいの集落の住まい

 昭和20年代初めころに撮影された山あいの集落旧北条(ほうじょう)市(現松山(まつやま)市)の九川(くがわ)地区の景観を見ると、地元で入手できる資材を生かした住まいづくりを屋根の葺き材からうかがうことができる。ここには今日では当たり前のようになっている瓦葺(かわらぶき)屋根の住まいはほとんど写っていない。瓦(かわら)が広く普及する以前は、中央部の住まいのように杉皮で葺(ふ)かれた屋根やその周辺の住まいのようにカヤで葺かれた屋根が農山村ではみられていた。杉皮やカヤといった近隣で入手可能な自然の素材を活用して生まれたのが、このような屋根を持つ住まいだったのである。
 杉皮葺(すぎかわぶき)の屋根は中央部のどっしりとした構えの住まいばかりでなく、その手前の農作業用の物置小屋にも見える。『日本民俗大辞典』によれば、スギは日本特産の常緑針葉樹であり、東北から九州に至る広い範囲に分布しており、古来からヒノキ同様、建築用の構造材や造作材として多用されてきた。そして、伐採された材木から剥(は)ぎ取られた樹皮は、天日でよく乾燥させた後に屋根材とされたのである(①)。杉皮は軽い上に、重ね合わせることによって、雨水の浸透を防ぎ、そのうえ寒暑にも強いことから、使い勝手のいい屋根材として活用されていたのである。
 また、この住まいの屋根は二重屋根の形式となっている。県内ではこの下側の屋根(庇(ひさし))を「オダレ(オーダレ)」とか「ゲ」と呼ぶ(②)。軒先は建物から長くのびていて軒先に雨樋(あまどい)を設置することが普及していないころには、この形式によって上側の屋根から流れ落ちた雨水を建物から離れたところへ落としていたのである。そして軒下の空間が生まれ、生活に必要な道具や薪(まき)などを置くことも可能であった。こういった二重屋根の形式は、今日でも農村部の木造瓦葺の和風住宅にはよく見られる。この場合は2階部分を完全な居住空間として高く持ち上げるのではなく、中2階の収納空間が生まれている。その結果、夏の厳しい日差しが屋根を暖めても、容積の大きい屋根裏空間がそれを和らげ、居室での生活を快適にさせているのである。
 中央部の住まいの周辺に目を転じると、今度はカヤ葺(ぶき)屋根の家屋が見える。愛媛ではカヤ葺屋根の住まいのことを「クサヤ」と呼び、中でも南予地方では「クズヤ」と呼んでいた。また、カヤ場の少ない平野部や島しょ部では小麦を主体とした麦わら葺の「ワラヤ」が多く、カヤ葺屋根は一部の上層農家に限られていたのである(②)。防水性や耐久性の違いこそあるが、そこにくらす人々の生活の一端を屋根材からも推察できる。先ほどの杉皮葺(すぎかわぶき)の住まいと比べると、カヤ葺屋根の勾配(こうばい)はやや急になっているように見える。屋根の勾配は、葺(ふ)き材とその葺き方によって決まり、水が浸透しやすいものほど雨水を速やかに流下させるために急勾配にする必要がある。一般的に瓦屋根の勾配は4寸勾配(約22度)~6寸勾配(約32度)程度とされ、カヤ葺は矩(かね)勾配(約45度)が標準なのである(③)。カヤ葺屋根の寿命は、気候風土や日照などの立地条件や地域によって異なるが、県内では10~20年の間隔で一部または全部の葺き替えが行われていた(②)。一軒の屋根を葺き替えるには、大量のカヤが必要なため集落で共同のカヤ場を所有している地域もあり(④)、相互扶助組織としてカヤ講を組織し、葺き替えのおりには、村人が共同で作業を行っていたのである。
 一方、写真序-2は今年(平成17年)9月下旬に撮影した九川地区である。中央部の住まいをはじめとして瓦葺の屋根に変わっている住まいが多いことがわかる。地元の方にうかがうと、この地区の住まいが杉皮やカヤ葺から瓦葺の屋根へと変化していった時期は昭和20年代後半~30年にかけてのことで、当時は戦後の住宅建設ブームが起きていたため、山林から切り出される材木の価格が押し上げられ、その景気の良さに後押しされて地区全体が活気に満ちた時期であったとのことである。また、中央部の住まいやその右上の住まいが2階建てに変わっていることも、戦後から今日までの住まい変化の大きな特徴である(図表序-2参照)。

写真序-2 平成17年の九川の景観

写真序-2 平成17年の九川の景観

松山市九川。平成17年9月撮影

図表序-2 住宅の建て方

図表序-2 住宅の建て方

愛媛県統計課提供資料から作成。