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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(2)私立高等学校の制服

 ア 松山東雲高等学校の制服

 私立の松山東雲高等学校の前身、松山女学校は、明治19年(1886年)キリスト教に基づく人間教育を目的として、四国最初の女学校として創立され、のち昭和7年(1932年)松山高等女学校と改称した。戦後の学制改革により、昭和22年(1947年)新制中学校を併設し、翌23年には新制の松山東雲高等学校となり現在に至っている。

 (ア)旧制女学校のころ

 創立当初から大正9年(1920年)ころまでは、俗に“女学生服”というような決まった服装(制服)はなかった。明治年間は、若い娘の服装そのままで、長袖のきものに胸高く紫色の袴をつけ、白襟に白足袋を年中履き、おさげ髪にリボンを付けたり、桃われ(女の髪の結い方の一つ。16、7歳の少女が結う。左右に髪を分けて輪にして後頭上部で結び、鬢(びん)をふくらませたもの)など思い思いの髪型で、正月など島田で登校する生徒もいた。髪も大正時代に入ると束髪、あるいは長く背中にたらした髪にリボンをつけて歩く姿はミッション独特のハイカラなスタイルであった。
 明治32年卒業の**さんは『松山東雲学園百年史』に、「私共が入学したころは、おさげ髪にリボンを結んでおった方もありましたが、桃われとか日本髪の方々もあり、手芸科の方など、お正月には島田でお裁縫の風呂敷(ふろしき)包みをだいて通学した珍風景もありました。(⑩)」と記している。
 大正9年(1920年)二番町校舎から大街道(おおかいどう)の城山東山麓(さんろく)の校舎に移ったころから、革靴が流行し始め、生徒たちも足型を取り、バックルを横で止める注文した黒い靴を履くようになる。しかし、靴を履くことが決められたわけでなく、袴もエビ茶やえんじ色のものもあり、服装全般について自由であったようである。
 大正13年卒業の**さんは『創立80周年記念誌』に、「二番町にあった校舎が、現在の大街道に移転した年に新入生として、わたしたちは入学いたしました。まだ校歌が決定しておらず、制服もなし、長い袖にエビ茶の袴、黒い靴、髪を長く、背中にたらして通学いたしました。(⑫)」と記す。
 大正12年(1923年)学校は、通学服にセーラー服を採用する方針を決め、その考えを発表した。「漸次洋服ニ改メタシ。但シ所謂制服ヲ制定セズ、各自ニ適合調和スルモノヲ着用セシム学校ノ奨励ト父兄ノ理解トヲ俟チテ、自然ニ洋服ニ改マル時期ヲ現出セシメントス。」と記し、その服装は、「夏は純白のセーラー服、ブルーのギンガムのスカート、冬は紺のセーラー服、ネクタイは共に黒色の大き目の三角巾を結ぶ。靴下は黒色とする。(⑫)」と『創立80周年記念誌』に明記している。
 昭和6年(1931年)満州事変が勃発(ぼっぱつ)し、日中戦争、太平洋戦争と戦争が拡大し世情もいよいよ深刻になってくると、服装もセーラー服からもんぺや下駄履き姿に一変し、戦時化された服装は味も素っ気もなくなっていく。
 昭和16年卒業の**さんは『創立80周年記念誌』に、「勤労報国隊の結成-モンペに下駄ばき女学生-」と題し、「やがて日支事変はたけなわになり、漢口攻略、南京陥落などと戦果は進み、軍歌を歌い日の丸の旗をかざして市中行進をするようになり、長く続いたバザーもなく、勤労報国隊が初めて結成され軍隊に勤労奉仕に行く頃は、素足に下駄ばきの女学生になっておりました。モンペの縫い方を習ったのも、防空演習が始まったのもその頃からです。(⑫)」と回想する。
 昭和15年入学、20年卒業の**さん(松山市高浜(たかはま)町 昭和2年生まれ)に、在学当時の制服と世相について聞いた。
 「東雲高等女学校に入学した翌年に太平洋戦争が始まりました。学校も3年次ころから戦争の影響が出始め、スカートは廃止され、もんぺや防空頭巾が登場し、食糧も不足してきました。毎月の8日(開戦日)は『興亜奉公日』といって、ごはんに梅干を入れた日の丸弁当を持参しました。
 当時、当然ながら制服はありました。夏の上着は、麻の入った生地で、白の半袖でラインのないセーラー服でしたが、1年上の人たちは長袖でした。リボン(スカーフ)は黒の絹か、しなやかなデシン(元来中国産の縮緬(ちりめん)に模してフランスで織り出した婦人洋服地)でした。入学してから何年かはスカートでしたが、私が3年次(昭和18年)に禁止になり、もんぺに変わりました。冬は紺のベルト付きで2本の蛇腹(じゃばら)のラインを付けたセーラー服で、上着は卒業まで変わりませんでした。今のように合服はありません。夏だけ帽子があり、初めころはストローハット(麦わらを素材にした婦人帽)でしたが、贅沢品(ぜいたくひん)だということで、通気性のある白のピケの帽子になりました。かばんは肩掛けのうすいグレーのキャンバス製でしたが、2年次くらいからみんな手提げのかばんを持つようになりました。靴は制靴(せいか)がありましたが、3年次ころからは軍需優先・物価統制のため靴は店頭にもなく、下駄・草履・八折(やつおれ)(板裏草履のこと)草履など、家にあるものを履いて行くといった感じでした。もともと、私たちのミッションスクールは自由な校風で禁止事項は少なかったのですが、戦時下という時世で軍の厳しい命令があったのです。」

 (イ)新制高等学校の標準服のはなし

 併設の松山東雲中学校を卒業し、昭和39年松山東雲高等学校卒業の職員**さん(松山市下伊台(しもいだい)町 昭和21年生まれ)に制服について聞いた。
 「高校に入学した当時は、冬の上着は紺のブレザー、合いは紺で手編みのカーディガン、夏は白の半袖のブラウスでした。スカートは中学1年のとき(昭和33年)決まった水色の生地のものでした。スカートのひだの数など限定せず、箱ひだ・ワンボックス・プリーツの3種類の中から、生徒の好みによって選んでいました。これは昭和24年(1949年)から36年まで校長をなされたジレット先生が、特に生徒の自主性と個性を尊重され、制服も標準服として大枠を決められ、その中から個性に合ったものを選ぶ教育をなされたのだと聞いています。これは東雲(ミッション)独自のことで画期的なことだと思います。東雲はミッションスクールなので、外国人の宣教師の先生も多く、みな同じ服装をした制服には違和感があったらしく、『服装がみな同じだということがナンセンスです。生徒の顔立ちや皮膚の色も違うのだから、自分に合ったものを着なさい。』とよく言われていました。」

 イ 済美高等学校の制服

 済美高等学校は、明治41年(1908年)澤田裁縫女学校と家政女学校が合併して設立された愛媛実科女学校と同40年に設立された勝山高等女学校が同44年に統合して、済美高等女学校が設立された。戦後の学制改革で、昭和22年(1947年)新制中学校を併設(昭和31年廃止)、翌23年済美高等学校と改称し現在に至っている。

 (ア)旧制女学校のころ

 明治末期の服装は、木綿の長袖の和服に紫の袴で、裾に2本の白線を入れたもので、袴を胸高にしめ、履物は下駄、髪は束髪で風呂敷(ふろしき)包みをかかえていた。体操の時間は日本手ぬぐいで姉様かぶりをして、襷(たすき)がけでふじくら草履(ぞうり)(表をいぐさで編み、木綿鼻緒をつけた草履)を履いていた。当時、女学校に通っている人はごくわずかで、男性の憧れの的であった。
 明治44年卒業の**さんは『済美学園百年史』に、「私達の服装は、長袖の着物にえび茶の袴の裾下から3寸(約10cm)のところに1本の白線を入れていましたが、合併(澤田裁縫女学校と家政女学校)後はそれぞれ2本になりました。髪は当時、二百三高地髷(まげ)という、前髪にタボを入れてひさしに出し、髷を高く結い上げた形にしていました。(⑬)」と記している。
 さらに、大正3、4年になると、活動的な筒袖になり、その後、袴にゴム靴の時代もあった。大正9、10年ころの運動の授業時は、裸足で袴の裾をくくって、くくり袴で行ったという。
 大正4年卒業の**さんは、「大正元年頃の済美高女生は、袴の裾に白い線を2本、袴の裾より10センチ位の所へ1センチ位の間隔をおいて付けていました。大正2年(1913年)に松山中学(現松山東高等学校)の5年生から『横着者じゃないか、僕たちの頭の上に頂いている白線2本を女の分際として裾につけてるなんて…』と、よく野次られたものです。松中生に野次られた袴の白線は除かれて、その代わりに後ろの腰板に小さな2本の白線を付けることになりましたが、間もなく之も廃して、現在と同じように『美』の徽章(きしょう)を用いるようになりました。着物は長袖から筒袖に改められました。当時、鞄等を持っている方は一人もなく、重い書籍を風呂敷に包んでいました。履物は大抵高いはまの入った日和下駄をカランコロンと音をたてながら歩いたものでございます。(⑬)」と『済美学園百年史』に袴の白線のエピソードを記している。
 大正13年ころからセーラー服となり、帽子をかぶり、靴も革靴になった。当時のスカート丈は意外に短く、裾線が膝上にきて、全体的にさっそうとした姿である。
 大正15年卒業の**さんは、「カシミヤの海老(えび)茶色の袴に黒靴といった服装でした。入学致しました夏から制服になったのでございます。冬の服装は自由でしたが、和服が多かったようです。(⑬)」と述べ、まだ女学生の服装は洋服(セーラー服)より和服が主流であった。
 昭和20年卒業の**さんは、「私が希望に胸を膨らませて、済美高等女学校に入学したのが昭和16年(1941年)の春で、その年の12月8日には太平洋戦争が勃発したのでした。今まで白いブラウスにジャンバースカートだった制服も、この時から全国統一のヘチマ襟の上着にフレヤースカートに一変しました。(⑬)」と戦時中の制服について記している。
 終戦直前の昭和20年4月に入学、26年卒業の済美高等学校教員**さん(松山市南斎院(みなみさや)町 昭和7年生まれ)は『済美学園百年史』に、「遠い懐かしい寄宿舎の思い出」と題した文を寄せている。
 「昭和18年頃からは次第に戦争の影響による食糧難等によって寄宿舎の生活も苦しくなって来た。生徒の服装は昭和6年頃から12年まではセーラー服である。13年頃から1年生がジャンバースカウトと白いブラウスになり、16年には全員がジャンバースカウトになる。昭和17年からは1年生から戦時服のヘチマ衿、フレヤースカウトになる。昭和19年には全員ヘチマ衿の上衣とモンペになっている。戦争が激しくなり3、4年生は軍需工場に学徒動員され、1、2年生だけが残って、ほとんど勤労奉仕に出かけていくことになった。が、ついに昭和20年7月26日の松山大空襲で、学校の校舎も全焼してしまった。しかし、寄宿舎の前に掘った防空壕に避難して、澤田先生はじめ寄宿生は全員助かった。(⑬)」と記している。
 さらに、**さんは、「夏の制服はなく、服装は白いブラウスであればよかったのです。冬の上着は白いカバー付きのへちま襟でバンド付きでした。生地は人絹でしたが、セーラー襟は布が多く必要なので贅沢品(ぜいたくひん)として姿を消しました。へちま襟でバンド付きの女学生の制服は戦時中の定番の上着です。下のもんぺはきものをほどいて縫い直した絣(かすり)がほとんどで自分で縫いました。学校に行けるだけでありがたいと思っていました。」と述懐する。

 (イ)昭和30年代のはなし

 昭和31年卒業の済美高等学校教員**さん(松山市土居田(どいだ)町 昭和12年生まれ)は在校当時の制服について、「私たちの冬の制服は、白のネクタイに2本の白線の入ったセーラー服とひだスカート、合服は紺のスカートにテーラーカラー(背広襟)で白の長袖のブラウス、夏は同じスカートに白の半袖のブラウスです。私たちが卒業した翌年の32年(1957年)からダブルの6つボタンに幅広のテーラーカラーのジャケットになっています。昭和30年代のはじめ、修学旅行が復活して東京方面に行くようになり、生徒からセーラー服では中学生に間違われるので変更して欲しいと要望が出され、同32年から他校に先駆けて改定しました。さらに、38年にはハワイアンブルーの夏スカートの制定、42年には上着のカラー、ダーツ(体型に合わせて衣服に装飾的につけたつまみ)等を4つボタンに変更し、襟元にリボンをつけるようになりました。」と語る。

 ウ 聖カタリナ女子高等学校の制服

 聖カタリナ女子高等学校は、カトリック精神に基づく人間教育を教育方針として、大正14年(1925年)松山美善女学校が設立され、昭和5年(1930年)松山商業実践女学校、同6年松山商業女学校に改め、さらに、同17年(1942年)松山女子商業学校と改称した。戦後の学制改革で、昭和22年(1947年)新制中学校を併設(廃止昭和40年)、松山女子商業高等学校と改称し、のち、同43年(1968年)には現在の校名に改称し現在に至っている。

 (ア)昭和20年代のころ

 昭和26年(1951年)から同60年(1985年)までの34年間、家庭科の教員として勤務した**さん(松山市石手(いして) 大正10年生まれ)の話を中心に、新制高等学校の制服の移り変わりを探った。 
 「学校保管のアルバムなどを調べたところ、昭和6年(1931年)の冬の制服はセーラー服とプリーツスカート、夏は白の長袖ブラウスとプリーツスカートと黒の靴下です。昭和9年にはスカートがズボンになり、戦時中は作務衣(さむえ)のような筒袖の合わせ着ともんぺ姿になっています。」と、まさに世相を反映した変化であると言う。
 18回卒業の**さんは『創立50周年記念誌』に、「私達の格好といえば頭には菊水の鉢巻、胸には学校名、氏名、血液型を記入した名札をつけ、制服の下はモンペで、肩に掛けた防空袋には防空頭巾や両親の写真等を入れていたように思います。(⑮)」と学徒勤労動員の思い出を述べ、さらに、同期の**さんも同誌に、「私は昭和18年、第2次世界大戦の激しい最中に入学しました。永代(えいだい)町にあった女子商は静かな環境の中に設備の整った立派な学校で、1年生は100人程でA組とB組に分かれており、私はA組でした。服装は入学してから1年程は、ヘチマ衿の制服にひだスカートでしたが、戦争が益々(ますます)激しくなったため、2年目くらいからは、下はモンペになりました。昭和20年3月、2年生の3学期に私達は学徒勤労隊として松山兵器所へ入所しましたが、それが母校の見納めになりました。それは、その年の7月26日の松山大空襲で、学校が焼失してしまったからです。(⑮)」と戦時中の服装や空襲について記している。
 また、元教員の**さんは、「朝晩お祈りを捧げたり、特に清掃、服装などきびしかったのですが、そういうものが一番欠けている時代でしたから、私の心に強く焼きつけられましたね。道を歩いているだけで『ははあ、これは女子商の生徒じゃあ。』ということがすぐわかりましたもの。同じ市内の女子高校の生徒と比べてみても、黒い靴下をはいて、清楚な百合の花を胸にして歩いている姿はやはりよかったですよ。(⑮)」と記述する。
 続けて**さんは、「終戦後の昭和22年(1947年)から再びセーラー服とズボンに、同26年からプリーツスカートに戻っています。冬の上着は紺のセーラー服、夏は白のセーラー服で黒の靴下でした。」と言う。
 松山女子商業高等学校併設中学校を昭和28年に卒業した教員**さん(松山市中央(ちゅうおう) 昭和13年生まれ)は、「私が中学校から高校卒業までの昭和20年代後半から30年初頭の服装は、既製服はほとんどなく洋服は全部誂(あつら)えか手作りでした。戦後の混乱期が一応落ち着き、既制服が豊富に出回ったのは同30年代からです。私の中学校の制服の生地はサージで、布を買って洋装店で仕立て、それを着て入学しました。私が中学に入学した当時、併設の高校は全員揃(そろ)ったセーラーの制服を着ていました。地元の中学校が自由服だったので、制服は憧れでした。夏の制服は紺の襟とネクタイの白のセーラー、下は紺のスカート。冬は紺のセーラーと白のネクタイ、紺の折りスカート。合服は長袖のセーラーと紺の折りスカートでした。」と言う。

 (イ)昭和30年代のはなし

 先ほどの**さんは、「昭和32年(1957年)に制服の大改定がありました。上着は4つボタンのダブルのスーツ(背広)型ジャケットと白の長袖のブラウスになりましたが、セーラー服の生徒も半分くらいいました。背広型になってからネクタイは紐になり、初めてベストと防寒用にレインコートが登場したのです。この型の冬服とベストは同59年(1984年)ころまで続いていましたが、スカートとリボンは度々変わっています。
 さらに、昭和38年ころ、夏のスカートはグレーの箱ひだ、ネクタイはグレーの紐、ブラウスは半袖、靴下は白のソックスに変わっています。宗教的な理由で肌を見せるのはいけないということで、ブラウスは長い間、長袖でしたがやっと半袖になり、靴下も夏だけですが白に変わりました。次いで、昭和42年に紺の箱ひだのスカートになり、同53年には冬服のリボンが男性用結びネクタイに変わっています。」と言う。さらに「昭和32年に制服の大改定がなされて以来、特に冬服は大きな改定もなく私が辞めた同60年ころまで続きました。それ以降の制服は、多様化する好みに対応して、組み合わせの選択方式となり、スカート丈も短くなりました。」と語る。
 また、**さんは家庭科の授業で生徒に自分で縫った物を制服として着させたり、「家庭一般」の授業で全員に原型から製図させ、スカートやブラウスなど自分で縫わせたと言う。
 同校の卒業生や保護者に人気があったシャネルタイプの紺の制服は、平成15年に現在の制服に改定された。