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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(1)県立高等学校の制服

 ア 今治西高等学校の制服

 今治西高等学校は、明治34年(1901年)愛媛県立西条中学校(現西条高等学校)今治分校として設立、同38年独立して県立今治中学校となる。戦後の学制改革により、昭和23年(1948年)県立今治第一高等学校、さらに同24年9月県立今治西高等学校となり現在に至っている。

 (ア)旧制今治中学校のころ

 今治中学校第33回生で昭和9年(1934年)入学の**さんは『創立100周年記念誌 蛍雪』に、「1年生の制服は夏服から各自思い思いの服装で、半ズボン姿が大部分。黒い小倉の服を着た上級生には必ず挙手の敬礼、うっかりしていると『コラッ1年坊主』と1発ビンタをもらうこともあった。6月に新調したダブダブの小倉の霜降りの制服を着、大きな編上靴を履いて白線1本の今中生が出来上がった。(④)」と記している。
 今治中学校に昭和9年入学、14年卒業の**さん(今治市別宮(べっく)町 大正11年生まれ)は、「帽子は黒の学生帽です。白線は1年生は1本、2年生は2本と増えていき、5年生になると5本も巻いて真白になっていました。当時はその白線を見て、上級生には敬礼をしたのです。」と話し、さらに、服装について、「冬は小倉の黒の詰襟、夏の6~9月いっぱいは小倉の霜降りの詰襟で、左襟には学年章を付けました。暑いときは上着をとり、白やラクダ色のシャツになりました。厳冬期でもオーバーなどの防寒具はなく、重ね着をして寒さを防ぎました。私たちの卒業後から、登・下校時はゲートルを巻くようになりました。戦時色が濃くなるにつれて、服の色はカーキ色(国防色)に代わり規制が厳しくなっていったのです。靴は上はくるぶしまである黒の編み上げの靴でした。頭髪は丸刈りの坊主頭です。かばんは上級生は手提げが多く、種類は自由でしたが、私たちから全員肩から掛ける多少水色がかった木綿の大きなかばんになりました。」と話す。
 今治中学校に昭和18年入学、23年卒業の**さん(今治市長沢(ながさわ) 昭和6年生まれ)は、「戦後、再び学校に戻りました。2年上の学年までは黒の学生服を着ていましたが、私たちは戦時中で物がないため、配給された植物(ウラジロやミツマタ)の繊維で作ったカーキ色の襟付きの服(国民服)を代わりに着ていました。その他にも、同じく配給されたペラペラの人絹の服もありました。私たちは戦時下で衣料不足のため、黒の詰襟の服は着ずに済んだのです。当時、中学生の服装は、戦闘帽にゲートルと国防色の国民服です。女学生は、セーラー服ともんぺでした。靴は決まりとして革靴ということでしたが、特に戦後は品物がなく、地下足袋(たび)や下駄履きも多くいました。私は父親が買ってくれたサメの皮で作った靴を履いて行きましたが、すぐ駄目になりました。足元はゲートルや脚半(きゃはん)で、帽子は私たちの1級先輩までは黒の学生帽でしたが、私たちは戦闘帽に白線を巻いたものでした。戦後、黒い学生帽に変わりましたが、物がないため戦闘帽姿も残っていました。」と語る。

 (イ)昭和30年代のころと新しい制服の誕生

 今治西高等学校に昭和33年(1958年)に入学した**さん(今治市別名(べつみょう) 昭和17年生まれ)は在学当時の服装について、「入学当時、男子は全員黒の詰襟の学生服、女子には決まった制服はありませんでしたが、白か紺の地味なもので、夏は白いブラウス、冬はセーターかカーディガンなどの私服や中学時のセーラー服などで通学していました。」と言い、さらに、かばんや靴について、「かばんは革製の手提げです。靴は紐つきのズックの運動靴でした。男子の髪型は短髪、または坊主でしたが、卒業が近づくと伸ばしていました。女子は特に決められた髪型はありませんでした。一般的に短く、オカッパの人もいましたが、長い人はほとんど三つ編みでした。」と話す。
 さらに、女子の制服の制定について聞くと、「私が入学して間もない昭和33年(1958年)の1学期、制服の話が持ち上がり、先生方と各クラス男女が入った制服委員会ができたのです。さらに、絞って女子だけの会ができ、私は最後までかかわりました。」と話す。
 当時、家庭科の教員で、制服委員会のまとめ役であった**さん(松山市南江戸(みなみえど) 大正9年生まれ)に、制服制定の経緯を聞いた。
 「昭和33年に野澤校長先生が着任されました。先生は『急がなくてもいいから、どこにもない、生徒が喜ぶモダンな品(ひん)のある女子の制服を作ってください。』と言われ、これを契機に検討を重ねました。当時女子の制服といえば、スーツ式かセーラー式のものばかりでした。制服委員会で苦心しながら取材したり検討を重ね、6点の試作品を作り上げ、そのうちから3点の作品を選び全校生徒に投票させ、昭和34年(1959年)に冬の制服が決まったのです。
 新しく制定されたセーラーカラーの制服の原型になったのは、私が学生のとき、よく見かけた東京九段の精華高女の制服と、生徒を引率した時、京都で目にとまった京都府立第一高女の制服です。ともに、セーラーの前襟がウエストまで延び、ラインは普通の帯状でなく、立体感のある蛇腹(じゃばら)(蛇腹糸のこと。蛇腹伏せに用いる縒(より)を強くかけた糸)の白線を2本付けた制服でした。この制服の特徴は、前襟はウエストまで、後ろ襟は小さく、脇も絞り、スカートは長めのため、細身でスマートに見えます。当時、この制服がマスコミで全国に紹介されると、県外の学校から見学に来るなど、話題を呼んだものです。」と当時を振り返る。
 さらに、夏の制服について、「冬服制定の翌年、昭和35年には夏の制服も決まりました。従来は白のブラウスがほとんどで、定められたものはありませんでした。新しい夏の制服は、白地の生地に紺で2本の蛇腹の入ったセーラーカラーです。袖は長袖、中袖、半袖の3種類あり、生徒に自由に選ばせました。」と話す。
 2年生のとき、ピカピカの制服で修学旅行に行ったという、先ほどの**さんは、「今でも西高生を見ると『あの制服は私たちが決めたんだ。』と心の中で自慢しています。近年、全国的に制服の改定が進んでいますが、女子の制服は、改定されることなく伝統を守り続けていて、今の生徒や卒業生も誇りを持っています。これからも、この制服を続けて欲しいものです。」と熱く語る。
 女子の制服は、制定以来45年を経た現在も変わることなく続いているが、近年男子の夏の上着がポロシャツに変わった。

 イ 宇和島南高等学校の制服

 宇和島南高等学校は、明治32年(1899年)創立の愛媛県立宇和島高等女学校と同42年創立の私立宇和島実科女学校(のち昭和18年から鶴島高等女学校と改称)を継承して、戦後の学制改革で昭和24年(1949年)県立宇和島南高等学校となり現在に至っている。
 
 (ア)旧制女学校のころ

 明治40年(1907年)の「県立宇和島高等女学校細則」の服装規定によると、「衣服ノ地質ハ木綿類ヲ主トシ、筒袖、又ハ袖ノ長カラサルモノヲ用ヒ且袴ヲ着クヘシ。其ノ他携帯品ノ類モ成ルヘク質素ナルモノヲ用フヘシ。常ニ頭髪ヲ乱サス、衣類ヲ正シク着シテ容儀ヲ整フヘシ。(⑤)」と記している。
 開校当初の衣服は、元禄袖(元禄小袖に模し、袖丈を短くした殺袖(そぎそで)。少女などの袖に用いる。)のきものに、えび茶袴(はかま)に紅緒の下駄。体操の時間は袴の裾を紐で結ぶ“くくり袴”である。大正2年(1913年)にはきものの袖が筒袖になり、同14年から制服が和服から洋服へと変わり、靴を履くことになった。
 この制服は、スカートをつけて上着の上からバンドを締めたホック付きの折襟で、縁付きの通称“大黒帽”をかぶっていたが、昭和3年(1928年)東京方面への修学旅行を契機に大きく変更されセーラー服に変わった(⑤)。さらに、靴下は黒、髪型は束髪から少女らしいマーガレット(女性の洋風結髪の一つ。頭髪を三つ編みにして大きな輪にしリボンで止めたもの)に変わり、儀式には白いネクタイをしめた。また、帽子も大黒帽から、丸みの縁のある帽子に改定された。
 昭和2年、宇和島高等女学校(現宇和島南高等学校)卒業の**さんは『創立80周年記念誌』に、「服装は着物に紫又は海老茶色の袴をはき黒い靴下に黒い靴、しかも其の靴は大抵の人がはじめはゴム靴と云うスタイルでした。式の日には袂の長い着物を着せてもらうのが嬉しかったのを憶えて居ります。(⑥)」と記し、さらに服装の大改定について、「校舎も新校舎が建ち(但し木造)、さすがにお堅い宇和島高女の制服も洋服に変わりました。そのスタイルは紺サージの上着とスカート、白い運動シャツ、其の上に校章の金具の付いたバンドを締め、帽子は麦藁(むぎわら)の広い鍔(つば)の付いた袋のような布の帽子をかむっていました。(⑤)」と記している。
 宇和島高女同窓会「作楽(さくら)会」の前会長**さん(宇和島市朝日(あさひ)町 大正14年生まれ)は、「私が女学校に入学した昭和13年(1938年)ころは、まだまだ世の中は落ちついていて、物もそれほど不自由ではありませんでしたが、徐々に戦時体制に組み込まれていきました。
 夏の制服は、ジャンパースカートに白のブラウス、冬は黒のネクタイに紺のセーラー服、夏冬兼用のジャンパースカートです。スカート丈は膝より5cm下とされていましたが、おしゃれな生徒は規定のぎりぎりまで伸ばしていました。規定より長すぎても、時折あった服装検査で注意されました。物資不足による布の節約のためか、上からの指導で数年後、セーラー服からへちま襟の服に変わっていくのです。髪は両方に分けたおさげを黒いゴムテープで束ねていました。入学する前、憧れていた帽子は無くなり、かばんはランドセルや背嚢(はいのう)(軍人、学生などが物品を入れて背に負う方形のかばん)のように両肩に掛けたものだったと思います。靴は革靴でしたが、皆ズックで木綿の黒の長靴下を履いていました。」と語る。
 昭和19年(1944年)に鶴島高女専攻科(現宇和島南高等学校)卒業の**さんは『創立百周年誌』に、「昭和16年4月、希望に燃えて入学し、この年の12月には太平洋戦争が始まりました。服装も私たちの学年より、紺の着物と袴から糸瓜衿(へちまえり)に白衿を掛けた国民服になり、髪も三つ編で両肩に分け、専攻科の頃にはモンペ姿となりました。履物も靴がなく、さしはまの下駄で通学しました。(⑤)」と記している。戦争が激化する昭和18年末からもんぺの着用が義務化され、作務衣(さむえ)のような婦人標準服が一般化し、戦時色一色になっていった。
 また、生徒たちは、学校から勤労報国運動のため農家に派遣され、繊維の原料となる桑の皮はぎ、桑摘み、麦刈りなどの農作業に汗を流した。
 宇和島高女の最後、昭和21年春に入学した(作楽会の内部では「どんじり会」と呼ばれる。)**さん(宇和島市妙典寺前(みょうでんじまえ) 昭和9年生まれ)、**さん(宇和島市大宮(おおみや)町 昭和8年生まれ)、**さん(宇和島市保手(ほで)昭和8年生まれ)の3人に、宇和島高女から新制高等学校までの制服について聞いた。
 「戦後の制服は一応ありましたが、物不足で揃(そろ)わないので、家にあるものを着ていくという状態で千差万別でした。服装検査のようなものはありませんでしたが、時節柄、派手なものを着てくる人はいませんでした。夏の制服は、白で水色の襟のセーラー服か、黒のジャンパースカートと白の半袖のブラウスで、ひだ数は自由でした。冬は、黒のセーラー服とジャンパースカート、ネクタイは黒の棒状のもので、儀式の際は白と決まっていました。セーラー服にもんぺと下駄、髪型は二つに分け三つ編みに編んだ格好が一般的な女学生スタイルでした。男女共学前には、戦時中に強制されたへちま襟でベルトをした服を着た人やもんぺをはいた人もいましたが、下はもんぺとスカートの併用でした。既製服や布(きれ)がないので、親のきものや洋服をほどき、染め変えるなどして家で作り替え、簡単なもんぺなどは自分で作りました。当時、合服(あいふく)はありませんでした。」

 (イ)新制高等学校のはなし

 先ほどの3人は、「新制高等学校になり男女共学になって男子が入学してきました。男子の制服は黒の詰襟の学生服が主流になり、女子はもんぺが姿を消し、ほとんどの人がジャンパースカートとセーラー服に戻りました。かばんは白の帯芯(おびしん)で作った肩から掛けるもので、ほとんど自家製でしたが、かばんのない人は、有り合わせの布で作った木口(きぐち)の袋物で通った人もいましたが、高校になって手提げの革のかばんが出始めました。履物はほとんど下駄で、ズック靴、草履などもありました。」と振り返る。
 小西善次郎初代校長は、歴代校長の座談会で、白線なしの制帽について『創立70周年記念宇和島南高等学校沿革史』に、「昭和25年(1950年)に校区制になってみんなが集まった最初の入学式に、あの狭い講堂に一杯入ったですがね、スシづめになって立たんといかん。場所が狭いから無理ないんだけれども、何か後ろの方でガサガサしてるんですね。それから何か知らんけれど怒鳴ったんです。怒鳴った拍子に『白線をとれっ。』と言うたんです。そしたら皆、ビリビリビリッと素直にとったんです。それで私は逆に感激して『お前らは素直であるっ。』そして、『新制高等学校は旧制高等学校と全然違うんじゃ、旧制高等学校が付けているような白線に恋々たるようなやつは、この中にはひとりも居らん、お前らは偉い。』それでおしまいです。(⑦)」と述べている。
 この“事件”をきっかけに帽子から白線がなくなり、白線のない帽子に校章をつけた独自の制帽が誕生した。校章のデザインが「柏」といわれながら正確には不明であったものが「月桂樹」であることが明らかになった(⑥)。
 昭和25年(1950年)に入学した宇和島南高等学校1期生の**さん(宇和島市大宮町 昭和9年生まれ)は、「私は新制高等学校最初の生徒です。昭和26、27年になると、社会も急速に落ち着き、学校も格段に整備されましたが、まだ物資は不足していました。冬は黒か紺の詰襟の学生服で中学とあまり変わりませんでした。夏は白の半袖シャツで、女子は黒のセーラー服とジャンパースカートです。帽子は南高(なんこう)独特の白線のない黒の学生帽です。履物はズックが中心でしたが下駄もいました。男子の髪型は坊主でしたが、3年の夏休み以降は長髪が認められました。服装は黒の詰襟の学生服とセーラー服になりました。」と話す。

 ウ 松山商業高等学校の制服

 松山商業高等学校は、明治34年(1901年)愛媛県立商業学校として設立され、同39年校名に「松山」を冠した。戦後の学制改革により、昭和23年(1948年)県立松山商業高等学校となる。一時、統合により県立松山東高等学校商業科となったが、同27年県立松山商業高等学校として分離し現在に至っている。

 (ア)旧制商業学校のころ

 『創立80周年記念誌』に、「大正期の松山商業学校の服装は他校と違って白い脚半(きゃはん)姿で、じつに印象的な通学姿であった。校外生活の規則も厳しく、映画館・飲食店・遊技場等に出入りをすると、停学・退学処分を受けていた。修学旅行は満鮮(満州・朝鮮)旅行であり、生徒は楽しみにしていたという。(⑧)」と記している。
 服装について、15期生で大正8年卒業の**さんは、「洋服は給料取りの服装としてほとんど行きわたっていたけれども、家庭着としては専ら和服を使っていた。中学生は洋服の真似事で小倉の黒木綿に白ネルの裏打ちのついた服である。帰宅すると直ちに脱いで和服に換え外出には袴(はかま)を着用した。5か年間夏冬各2着ずつ4着ですむように維持補修をするのであるから、新入生の服はダブダブで縫い上げをすることもある。それよりも松商の特異なことをいわなければなるまい。それはゲートルを付けなければならぬということで、水兵の公式の外出服装だと思えばよい。県中(けんちゅう)(現松山東高等学校)や北中(ほくちゅう)(現松山北高等学校)はゲートルを付けないでよい。どうして松商だけがゲートルを付けなくてはならないのだろうか。(⑨)」と『創立60周年記念誌』に記している。
 戦前・戦中は、時代を反映して「教練」という必修科目があり、カーキ色の軍服姿でサーベル(軍人や警察官が腰に下げた西洋風の刀剣)を下げた将校が教練を指導した。服装違反は厳重に取り締まられ、通学時には夏冬問わず、ゲートルを巻かねばならなかった。靴は革靴であったが、物資不足に伴って牛革から豚革へと変化した。
 制服・制帽について、29期生で昭和8年卒業の**さんは『創立80周年記念誌』に、「冬は白木綿の総裏地のついた黒木綿の小倉織の詰襟、夏は霜降りで、裏無しの木綿の詰襟が制服であった。校章のついた5つの金ボタンが輝き、襟には白いセルロイド製のカラーがつけられていた。授業はいつもホックとボタンを止めて正装で受けるのが原則であった。通学時は夏冬共にカーキ色のゲートルを巻く規定で、上手に巻かないと途中でゆるみ、熟練するまで一苦労をした。靴は黒革の短靴と規定されていたが、一足(そく)5円もして私たちには貴重品であった。従って、はじめから靴底に半張り(靴の底革の前の方の半分だけ張ること)をしたり、金具を打ち付けたりして大切に扱っていた。鞄は白の木綿の縦長で校名が黒ラシャで貼り付けていた。すべて学校規定であって、ラッパ型やセーラー型のズボンが流行したが、勿論服装違反として厳重に取り締まられていた。しかし、私たちは制服・制帽に大きな誇りを持って、楽しく5か年間通学したものであった。(⑧)」と記している。
 昭和14年(1939年)の入学生は、やがて戦争の激化にともない同18年の12月卒業という変則的な在学期間を経験した。黒の学生服もカーキ色の国防色になり、生徒も学徒勤労動員されていった。
 40期生で、昭和18年12月繰り上げ卒業の**さん(松山市湊町銀天街 大正15年生まれ)は、「私が松商に入学したのは昭和13年です。2年次には野球部が敵国のスポーツだとして中止になり、3年次には太平洋戦争が始まり軍事一色になりました。入学した昭和13年次、5年生の夏の制服はグレーの生地に霜降り、冬は黒の詰襟や折襟の学生服でしたが、4年生から下の私たち新入生まではカーキ色の国防色の服に変わっていました。私たちは国防色の4期生です。2年後輩の42期生からの帽子は、服と同じカーキ色の戦闘帽になり、かばんも肩に掛ける布製から背嚢(はいのう)のような背負いかばんに変わりました。靴は編み上げで紐つきの豚革の革靴で、服の色に合わせてゲートルを巻きました。髪型は丸坊主です。」と言う。
 また、**さん(松山市春日(かすが)町 昭和5年生まれ)は、「松山商業学校45期生として入学した昭和18年は、戦争真っ最中で、同23年に卒業したときは、終戦後の混乱期で物資不足の貧しい時代でした。在学5年間は太平洋戦争たけなわの時代から終戦後の混乱期まで、変化に富んだ時代を過ごしたのです。
 私たちの服装は、すべて自由で制服はありませんでした。品物がないため服もばらばらで揃(そろ)いませんでしたが、なるべく詰襟の黒の学生服を着るよう言われていました。また、戦後、再び学生帽が戻ってきましたが、戦時中からの戦闘帽もありました。かばんは肩から掛ける白の布製で、履物は自由でしたが、主にズックで下駄、草履、地下足袋などさまざまでした。」と語る。
 昭和24年(1949年)新制高等学校になり男女共学になった。制服は決まっていなかったが、20年代の後半から詰襟の学生服とセーラー服が主流を占めるようになった。

 (イ)昭和30年代のはなし

 60期生で昭和37年卒業の**さん(松山市北土居(きたどい)町 昭和18年生まれ)は、「私たちが入学した翌年の昭和35年(1960年)に女子の制服が全員揃(そろ)いました。31年はセーラー服、33年はセーラーと新しいスーツ型の制服の混在期だったといいます。冬服は紺のスーツ型の上着に長袖のブラウスと紺のひだスカート、夏は白の半袖ブラウス、合服は長袖のブラウスにベストです。男子は前のままで、夏はカッターシャツに夏・冬兼用の黒のズボン、冬は黒の詰襟の学生服です。帽子は黒で蛇腹(じゃばら)の入った今と同じ学生帽です。かばんは革製の手提げで、補助バッグなどはありません。髪型は男子は丸坊主でしたが、それが校風だと思っていたので何の抵抗もありませんでした。」と話す。