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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

2 あのころの制服

 戦後の学制改革により、愛媛県立の旧制中学校、女学校、商業学校から新制高等学校になった3校と旧制女学校から同じく新制高等学校になった松山市内の私立3校を取り上げ、昭和30年代までの服装や制服について、世相と関連付けながら聞き取りや周年記念誌などから探る。
 旧制中学校や商業学校(ともに修業年限5年で男子のみ)の男子の制服は、夏はグレーの小倉の霜降り(*4)、冬は黒の小倉で、詰襟(つめえり)の学生服を着用し、靴は革靴、学生帽は黒で夏は白のカバーをつけた。
 旧制女学校(修業年限4年)の制服は、明治期は振袖にえんじの袴(はかま)と白足袋(しろたび)に下駄(げた)履きであった。大正末期以降の制服は、和服から洋服に、履物は下駄から靴になり、多くの学校では縁付きの帽子を着用した。さらに、大正末から昭和初期にかけてセーラー服とスカートになり、合服(あいふく)は白いブラウスにベルト付きのジャンパースカートであった。   
 愛媛県内の中等学校(旧制中学校、女学校、実業学校)では、学校報国隊が編成され、生徒は集団勤労奉仕作業に従事し、昭和19年(1944年)から工場への動員が課せられるようになり、国民学校の児童も農作業などに従事した。学校の敷地も運動場を含めすべての空き地は開墾されて農地と化し、平時の教育活動はほとんど停止した。
 戦時体制下の男子の制服は、戦闘帽に国防色の折襟の国民服を着用し、ゲートルを巻き、靴は編み上げの軍靴を履いた。女子は筒袖の和服からセーラー服へ、さらにへちま襟とベルトが付いた上着となり、下はスカートからもんぺに代わり、履物は下駄となった。
 昭和20年(1945年)8月15日終戦。同22年「学校教育法」が実施され、同年に新制の小学校・中学校、翌23年には高等学校、24年には大学が、それぞれ新しく発足し、6・3制がスタートした。
 愛媛県内の中等学校は、戦前の開校・転換などを経て、同22年4月には公私立合わせて中学校13、高等女学校23、農業学校12、工業学校4、商業学校5、水産学校1であったが、翌23年4月1日、これらの中等学校は学制改革で全日制の新制高等学校として発足した。
 終戦直後は極度な物資不足のため、いずれの学校も粗末な着の身着のままの服装で、制服といえる揃(そろ)ったものはなかった。新制高等学校がスタートした昭和23年ころも、服装は不揃(ふぞろ)いであったが、終戦直後に比べると徐々に折襟や詰襟の学生服やセーラー服が増加した。新制高等学校発足後、男子はかなり早い時期から黒の詰襟学生服に戻ったが、女子は大幅に遅れ、発足からほぼ10年経(た)った同32、33年ころ、ほとんどの学校でスーツ(背広)式かセーラー式の制服が制定され、新制高等学校発足時に比べて教育環境も大きく様変わりした。


*4:小倉の霜降り 綿織物の一つ。霜の降ったような白い斑点模様の入ったグレー系の小倉綿洋服地。男子生徒の夏服などに
  用いられた。

図表3-4 制服の調査対象校

図表3-4 制服の調査対象校

(行政区画は平成17年3月末現在)