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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(2)戦中・戦後の「まち」のくらしと装い

 ア 松山では

 昭和20年(1945年)7月26日の夜をはじめ、度重なる米軍による空襲で松山は市街の大半が焼失し、罹災者は市民全体の53%に当たる約6万2,200人(約1万4,300戸)に達した。廃墟と化した市街地では、焼け出された人々が、焼け跡の片付けをしながら買出しに精を出し飢えをしのいだ。
 空襲で罹災した二人に、松山空襲の様子や戦後の暮らしについて聞いた。
 **さん(松山市高浜(たかはま)町 昭和2年生まれ)は、「昭和20年(1945年)の7月は毎日のように空襲警報が出されサイレンや半鐘が鳴っていました。非常時なので寝巻きを着て寝る人はいません。いつでも逃げられるような普通の服装のままで寝るのです。女子は作務衣(さむえ)(元来は、禅宗の僧侶が農作業や清掃などのときに着る木綿の衣服。上着は打ち合わせ式で筒袖、下衣はズボン状で裾がすぼまる。)のような筒袖の標準服と脇が開き紐(ひも)で縛るもんぺ、それに防空頭巾と水、乾パンや缶詰などの非常食と赤チンやガーゼなどの救急薬品などを詰めた非常袋を肩に掛けた装いです。男子はカーキ色の国民服と戦闘帽とゲートルの服装でした。
 当時、隣組(太平洋戦争中、国民統制のために作られた地域組織)や自警団(非常の際に自らを守るために組織された民間の警防団)、国防婦人会(満州事変勃発後、軍部に協力した女性団体。太平洋戦争中に出征・入営兵士の送迎やお茶の接待などに当たった。)など、たくさんの組織が活発に活動していました。これらに協力しない人は非国民として非難されました。
 昭和20年7月26日の夜の空襲で焼け出されてから3か月ほどして、疎開していた大洲(おおず)から初めてわが家の焼け跡を訪ねました。焼け跡には瓦礫(がれき)が山積し、わが家のあまりの小ささに驚きました。焼け跡には粗末なバラックの家が建ち始めボツボツ復興の兆(きざ)しが見えていましたが、戦災を受けた中心部は、ビルと焼け残ったわずかなコンクリートの建物と樹木を除けば焼け野が原で、一番町方面が一望できました。
 戦時中から終戦後にかけて、少ない物資を割り当てて支給する配給制度がありました。お米は米穀通帳がなければ買うことができません。それ以外は“ヤミ米”と言われました。お米の配給は1日に大人2合3勺(じゃく)(約0.414ℓ)でしたが、戦争が激しくなった終戦直前にはお米などの配給はなくなり、イモやトウモロコシなどの代用品で賄(まかな)っていました。」と終戦前後の食糧難を語る。
 次いで、**さん(松山市春日(かすが)町 昭和5年生まれ)は、「私が昭和18年(1943年)、松山商業学校(現松山商業高等学校)に入学したときは、黒の詰襟(つめえり)の学生服でしたが、2年次ころから戦況が進むにつれて次第に学生服、戦闘帽、ゲートルなど、ほとんどがカーキ色になりました。父は職人なので年中仕事着でしたが、普段はカーキ色の国民服でした。母は年がら年中もんぺとあり合わせの物を着ていました。」と言う。
 さらに、終戦後の様子について「終戦から約1か月して学校に戻りました。最初に登校したのは9月の中ごろで、上着はぼろのシャツで、着の身着のままの格好でした。一応、生存していることを学校に連絡に行くと、先生が『お前生きとったんか。』と抱きしめてくれ、無事を喜んでくれました。勤労作業や戦災のため1年ぶりに先生や級友と再会しましたが、幸いにも空襲で亡くなった同級生は一人もいなくて不思議なくらいでした。
 終戦後の復興は、まずバラックの家を建て、食料を確保することでした。子どもたちはぼろをまとっていても明るく、空腹にも耐え、手を取り合って貧しさに立ち向かったのです。」と語る。

 イ 宇和島では
 
 宇和島は、昭和20年(1945年)5月10日以降、9回もの空襲を受けた。中でも同年7月13日と同29日の空襲で市街の約7割を焼失し、宇和島の市街地の大半は焼け野が原になった。その空襲の様子や戦中・戦後の暮らしについて聞いた。
 戦時中の暮らしについて、**さん(宇和島市朝日(あさひ)町 大正14年生まれ)は、「昭和20年7月から8月に戦災を受けた時、私は結婚して鶴島(つるしま)町に住んでいました。生きるために必死でしたので、着るものどころじゃなかったし、関心もありませんでした。戦時中の男子の平常服は、国民服・ゲートル・戦闘帽で、結婚式も国民服でしたし、背広などは店頭から消えていました。女子は筒袖の和服ともんぺです。仕事着や普段着のもんぺは木綿のきものをほどいて作り変えたものでしたが、よそ行きのもんぺは上等の絹のきものから作り変えました。下はもんぺでないと罰せられたのです。」と言う。
 **さん(昭和8年生まれ)は、『女たちの太平洋戦争-旧宇和島高女同窓生の記録-』の中で、「昭和21年(1946年)4月、落ち着いてのんびりしていた美しい城下町は、まわりを残して焼失し、一面焦土と化した市街地をふみしめながら、セーラー服にもんぺ姿、ゲタばきで、競争2倍強の難関をくぐりぬけ憧れの宇和島高女(現宇和島南高等学校)へ入学しました。しかし、終戦直後の市民生活は荒廃の極におちいり、インフレの襲来とこれに対しておこなわれた新円切替。特に食糧事情は深刻で、校庭の西の隅を耕して畑にし、先生と共に、せっせと肥えたご(担い桶)をかついでイモ作りです。また、教科書は新聞紙より質の悪い紙にプリントしてあり、それを切って自分で製本して使用しました。茶色のザラ紙のノートはすぐ破れるため、消しゴムで消すことも出来ず困ったものです。(③)」と記している。
 終戦直後の暮らしについて、**さん(宇和島市大宮(おおみや)町 昭和7年生まれ)は、「空襲で家財や着るものも全(すべ)てが焼けてしまったので、着の身着のままでした。“こした”(股下)といったズボン下をズボン代わりにはき、下駄(げた)で学校に通いました。私が通っていた宇和島中学校(現宇和島東高等学校)の制服は、カーキ色の詰襟の学生服に帽子は戦闘帽でした。昭和19年に入学したときはゲートルを巻いていましたが、終戦後はなくなりました。」と語る。
 先ほどの**さんと**さん(宇和島市大宮町 昭和9年生まれ)に、終戦後の物不足の様子を聞いた。
 **さんは、「終戦直後は、空襲に遭わなかった田舎に、よく買出しに行きました。食糧はお金では売ってもらえず、必ずきものと食糧の物々交換でした。いわゆる売り食いの“たけのこ生活”です。農家に買出しに行ってもヤミを取り締まる経済警察官(太平洋戦争中、経済統制違反を取り締まるため設けられた警察組織の警察官)が張り込んでいて、交換してもらったお米を“ヤミ米”だと言って取り上げられたこともありました。終戦後も経済統制が続き、衣料品は切符制で品物を買ったら決められた点数分をハサミで切り取ってお金を添えて店主に渡しました。人絹やスフは認められていたのですが、綿製品とタオルは衣料品店で扱うことができなくなりました。」と言う。
 子どもの服装について、**さんは、「お下(さ)がりか布(つぎ)をあてたもの、上下不揃(ふぞろ)いのものなど、あり合わせがほとんどでした。履物は下駄のほか、“トンボ”と呼ぶわらで編んだ草履(ぞうり)がありました。私は小学生のときは、国防色の服を着て、防空頭巾をかぶって学校に行きました。先生方も国防色の服を着ていました。物不足の生活は当たり前で、惨めとか恥ずかしいなどと思ったことはありません。終戦後も、ずっと物不足は続いていましたが、空襲におびえないでよい生活は極楽でしたし、復興の意欲に満ち満ちていました。間もなく朝鮮戦争による『特需』が始まり、食生活が落ち着いた昭和30年ころから既製服や洋服の生地も出回るようになり、“衣の時代”がやって来ました。」と言う。

 ウ 西条では
 
 空襲に遭わなかった西条(さいじょう)でも、終戦前後の物不足は深刻で、生きるために必死だった。人々の衣服は、国民服ともんぺのカーキ色一色となり、生きるための闘いが日常化していった。戦中・戦後の西条の暮らしについて、**さん(西条市中野(なかの) 明治40年生まれ)と娘の**さん(昭和7年生まれ)に話を聞いた。
 **さんは、「大正13年(1924年)愛媛女子師範学校(現愛媛大学)を卒業後、周桑(しゅうそう)の国安(くにやす)尋常小学校に勤めましたが、服装はきものでした。戦争が激しくなり、女子は筒袖にもんぺという標準服に、男子はカーキ色の国民服になりました。私の西条の家では綿や繭(まゆ)を生産し、木綿や絹の反物を織っていたので、着るものには困ることは、あまりありませんでした。祖母は特に機織(はたお)りが上手で、一日に1反(大人のきもの1着分の分量)くらいは織っていたと言います。西条市とはいえ、この辺りは農村部だから、食生活に不自由を感じることはありませんでしたが、農家でない家は、いろいろな面で不自由を感じたと思います。戦時中の食生活は、一般には麦ご飯と漬物程度で質素でした。戦時下なので、戦争に勝つためにみな必死に耐え忍んでいたのです。そのころの衣服は、まさに非常時ですから国民服ともんぺに全(すべ)てが集約されます。この格好は街も村もありません。次第に軍事色の強い服装になっていきました。普段着は簡単服(ワンピースに仕立てる婦人用の夏服。俗にあっぱっぱという。)で、親のきものをほどいて作り変えたものやお下(さ)がりで、贅沢(ぜいたく)などできませんでした。
 終戦直後、世の中は大きく変わり、生きるために必死の時代でした。食べることが優先して着ることなど考えも及びませんでした。農家でも強制的な供出のためお米は自由にならず、丸麦を混ぜた麦ご飯を食べました。街の人は、きものや帯などの衣服を農家で米やイモなどと交換していましたが、“ヤミ米”だといって警察に挙げられた人もいました。大百姓の中には、交換したきものや帯を娘の嫁入り道具の一つにした人もいました。戦災に遭わなかった西条でも、生き延びるのに精一杯の時代でした。」と話す。
 一方、娘の**さんは、「女学校(現西条高等学校)に入学したのは、昭和20年(1945年)4月です。そのころの制服は、上はセーラーに下はもんぺです。当時、戦時下のため勤労動員で倉敷人絹(現クラレ)の塩田に行きました。そのときの服装は、作務衣のような上着に、もんぺと両肩から防空頭巾と弁当・救急品を下げたものです。女学校の憧れのセーラーの制服は、間もなくスフの入ったペラペラの婦人標準服乙型(和服式)やへちま襟(襟(*3)の型の一つ。後ろから前まで刻み目を入れず、やや丸みをもたせ、へちまの形に似る。婦人のコートに多く用いる。)に変わり、その下はスカートではなくて平常時も、もんぺ姿になりました。昭和17年に入学した先輩の話では、セーラー服にスカートをはいての通学は3年生(昭和19年)の2学期までで、その後はもんぺに変わったと聞いています。
 西条のような田舎町にも空襲警報が度々鳴るようになり、その度に教室を飛び出して、校庭のあちこちに掘られた防空壕(ぼうくうごう)に退避しました。夜ももんぺをはいたままという日が続きました。」と話す。
 **さん(西条市大町(おおまち) 大正4年生まれ)にも終戦前後の暮らしについて聞いた。
 「私は中国の上海(しゃんはい)にあった新聞社に勤めていた昭和17年(1942年)に出張で内地(日本)に戻っていたとき、縁あって下関(しものせき)(山口県)の女性と結婚しました。当時、“ぜいたくは敵だ”のスローガンにより、国民服は冠婚葬祭にも使用されていました。だけど、国民服は見栄えがしないからと言って、家内の親の強い要望もあり、国民服の婚礼写真に加えて紋付袴(はかま)の正装でも撮りました。
 西条中学校(現西条高等学校)に通っていたときは、ゲートルを巻いて革靴を履き通学していました。まだ物資は豊富でしたし、ゲートルに違和感もありませんでしたが、昭和18年に中国から帰郷してみると、男子の服装はみんな国民服に変わり、女子はもんぺ姿になっていました。旧制中学校の教壇に立ったときは、母がきものをほどいて洋服に仕立て直してくれた上着を着て行きました。
 西条は空襲に遭いませんでしたが、物不足は戦災を受けた街と余り変わらなかったと思います。まず、食べることが最大の問題で、一日一日を何とか過ごすため、買出しは大変ながら大切でした。大事なきものをそっと風呂敷(ふろしき)に包んで農家に向かう母がかわいそうで、申し訳なく思ったものです。終戦の年は、米も麦も大凶作で食糧難に拍車をかける結果になりました。
 戦後、平時の生活に戻ったのは、昭和20年代の後半からだと思います。その衣食住が大きく変わるきっかけとなり、日本を救ってくれたのは朝鮮戦争の『特需』です。これ以前の終戦直後の日本は貧乏のどん底で、毎日食べることばかり考えていました。いわば、日本は崩壊寸前で、国民は餓死寸前でした。さらに、その上、戦災で焼け出された街の人たちは“餓鬼道(がきどう)”を行く思いだったと思います。朝鮮戦争は皮肉にも、日本がどん底から這(は)い上がるきっかけになり、経済に大きな刺激を与えたのです。」と話す。
 さらに、**さん(西条市大町 大正7年生まれ)に聞いた。
 「私が西条高女(現西条高等学校)に通っていた昭和の一桁(ひとけた)の時代は、セーラー服にスカートで、夏冬にかかわらず靴下を履いていました。世の中も一応落ち着いていました。戦時中は、母が病弱のため私の嫁入り支度に作ってくれていたきものや帯を手押し車で農家に持っていき、食料と交換してもらっていました。買出しは大変な仕事でしたが、生き延びるためには必要だったのです。進行するインフレのため、農家は価値の下がったお金とは交換してくれませんでした。
 また、出征兵士を見送るとき、男子は戦闘帽、国民服にゲートルを巻き、女子はきものを着た上に白の割烹着(かっぽうぎ)をはおり、大日本国防婦人会と書いたタスキを肩にかけて、祈武運長久の旗を持っていました。西条は幸いなことに、これといった空襲もなく、平穏な中で終戦の日を迎えました。
 終戦後も買出しは続きました。交換してもらったお米はほとんど玄米だったので、農家の庭先に据えてある“ダイガラ”(唐臼(からうす))という足踏みの臼で、何度も何度も踏んでやっと白米にしたものです。」と語る。


*3:襟と衿 かつて和・洋服にかかわらず、「襟」の語は男子用。「衿」の語は女子用に用いられたが、現在、「衿」は男子
  女子を問わず和服にのみ用いられる場合があるが、他は「襟」を用いている。本章では、参考引用文献以外は、すべて
  「襟」を用いた。