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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(1)風呂敷

 風呂敷は、方形の布で作られ、運搬や汚れなどからの保護、収納を目的とする生活用品である。風呂敷の語源には諸説がある。室町時代ころから風呂(ふろ)との関係を示す記述が見られ始める。風呂から上がったときに自分の衣服を間違えないために包んでいた定紋(じょうもん)(家紋)入りの布、蒸し風呂の中で敷いた布、風呂から上がったときに板敷きの床に敷く布などがある。いずれにしても風呂で使用した布が語源であるという。それが江戸時代前期になると、「風呂敷包み」などの用法がみられはじめ、時代が下るにつれて「包み」の言葉が取れ、風呂敷は包むものと考えられるようになった(⑥)。
 生活者の立場から伊予(いよ)郡松前(まさき)町中川原(なかがわら)地区の**さん(大正11年生まれ)に、風呂敷などの染色にかかわってきた四国中央(しこくちゅうおう)市川之江(かわのえ)町の**さん(昭和16年生まれ)・**さん(昭和25年生まれ)夫妻に風呂敷の思い出を聞いた。
 松前町は重信川をはさんで松山市の南岸に位置する農業を中心とする町で、中川原はそのほぼ東端にある水田地帯である。**さんの実家は伊予市宮下(みやのした)地区で中川原とは同じ生活圏にある。
 **さんは、「風呂敷は木綿かモスリン(薄地で柔らかい風合いの綿モスリンや毛織物がある。)製でした。柄はいろいろでしたが、唐草模様などは良い方でしたね。お嫁さんに行くときには、縮緬(ちりめん)(絹織物の一種。布面に細かい縮みが入れてある。)の風呂敷と木綿の定紋入りの大風呂敷を持って行かせる風習がありました。戦前だけでなく、戦後もそうしていました。息子の結婚式のときに結納の品を包んだり、結納品の上に掛けるのも、この定紋入りの大風呂敷です。この大風呂敷は、儀式のときや良いきものを包むときに使う物でした。紋は息子も娘も、実家の紋です。
 縮緬の小風呂敷は、松が描いてあったり、鶴が飛んでいたり縁起の良い柄でした。この小風呂敷は、あまり使わなくて、親戚の結婚式とかやや改まったときに、お土産を持って行ったり持って帰ったりしていました。それに、風呂敷自体を贈答用に使ったりもしていました。遠方から来た人から、お祝いに、お祝い品ごとそれを包んできた風呂敷も頂いたことがありました。
 普通の木綿の風呂敷は何にでも使っていました。紙は破れますが風呂敷はめったに破れるものではなく、何度でも使えますから便利な入れ物でした。農作業で山に弁当を持って行くのも風呂敷でしたし、小旅行のときなどもボストンバックなんかなかったから、風呂敷で行っていました。小学校の男の子どもたちが学用品を風呂敷に包んで、腰に巻き付けて行ったりもしていました。  
 昭和50年(1975年)ころ、夫が長期入院したときに、遠方から見舞いに来て泊まって帰る人たちに、風呂敷を袋に作り直す方法を教えたことがあります。縫い合わせて手提げにしたり、1升瓶が入るような袋にも変えられました。あの頃は、生活改善の運動が盛んでしたからね。」と話す。
 四国中央市の**家は、江戸時代からの染物店で、明治時代の物といわれる風呂敷と布団の模様見本が残っている。現在(平成16年)、風呂敷はあまり扱っていないが、父親の時代を含めて風呂敷についての思い出を、**さん・**子さん夫妻に聞いた。     
 **さんは、「風呂敷に限りませんが、模様は渋紙に描いて彫刻刀で彫ります。渋紙は、和紙を3~5枚重ねて柿渋をかけたものですが、防水・防虫になりますし、紙が固くなり彫りやすくなります。染料は昔と今とでは随分変わりました。私が15、16歳で仕事を始めたころは、化学染料の他に鉱物染料も使っていました。赤茶色を出すベンガラ(弁柄)は中国地方の酸化第二鉄、黒色は墨の原料にもなる油煙、紺色は鉱物染料のベレンス(ベルリン青ともいう紺青(こんじょう)の顔料)でした。単につけるだけでは色落ちしますから、媒染剤(ばいせんざい)(色を定着させるためのもので、布面に塗って上に染料をつける方法や染料の中に混ぜて使う方法がある。)を入れます。ベンガラや油煙には呉汁(ごじる)(水につけたダイズをひいた汁)や柿渋、ベレンスには呉汁や布海苔(ふのり)(海藻のフノリからとった糊(のり))という具合です。最近は化学染料でずいぶん安定しましたが、染色はお天気仕事で、晴天の日でないと作業が十分できないので苦労しました。
 風呂敷(ふろしき)の寸法は原則的に幅(はば)で呼びます。一幅(ひとはば)は規準によっていろいろですが、普通、鯨尺(くじらじゃく)9寸(約34cm)を一幅に、二幅(ふたはば)、三幅(みはば)などと呼ぶのが原則です。ヤール幅といって約91.4cmのものもあります。大風呂敷は三幅を二つつないで六幅(むはば)(約2m)になっています。もっと大きなものもありましたが、六幅が普通で、色は焦げ茶色に染めていました。よく使われるのは、三幅(約1m)か二幅(約70cm)のもので、女の方が『使い風呂敷』といっていたのはこの大きさです。
 風呂敷の材料は、木綿が一般的で、絹の風呂敷もありました。木綿の方が縛ってもよく締まるし、雨のときでも安心して使えます。絹が多くなったのは、最近です。絹の風呂敷は正式な場で使うもので、余程のことがないと使いませんでした。絹風呂敷の材料としては、鬼縮緬(おにちりめん)といってしぼ(織物の表面に作られる凹凸)が大きい縮緬、それに東雲(しののめ)(しぼがやや小さい縮緬)や白山紬(はくさんつむぎ)(紬は腰がつよい絹織物で風呂敷によく使われる。白山紬は、石川県白山山麓(さんろく)の白峰(しらみね)村の特産)は高級品です。安価な絹風呂敷には富士絹(くず繭から生産される絹布)などがありました。絹の風呂敷には家紋や名字を入れたりします。
 図柄は、昔、この地方では、対角線に線引きして分け、片方を茶色に、片方を青に染めたような図柄が多かったですね。
 父の代には絹も染めていましたが、蒸しの段階が一つ余計にいりますので、私は絹は扱っていません。最近は風呂敷の注文が随分減りました。やはり、きものが洋服に代わったのが原因と思います。最近は絹が主流です。木綿の注文が入るのは、だいたいお祝い事で、自分のうちの家紋を風呂敷に入れるときに注文が来るのです。」と話す。
 **さんは、「例えば、一級建築士に合格されたら、記念の年月と名前を入れたものをお祝いに配ったりする贈答用ですね。娘さんの大学卒業式用のきものを送るときに、たとう紙(きものなどを包む紙で渋などを塗ったもの。)に包み、四幅(約1.3m四方)の風呂敷で包むというので、娘さんの好きな花をデザインして、端に娘さんの名前を染めぬいたものを作ったり、誕生日の季節の花をデザインしたりしたこともあります。きものを運ぶのに使ったりしますから、各家庭でも四幅(よはば)物くらいまではありました。」と話す。
 **さんは、この大風呂敷は自家用に私が作ったものですが、商品を入れた、ぼて(渋紙をはった竹籠)を置くところを、同じ色に染めた布で二重に補強しています。父は、ぼてに製品を入れこんな大風呂敷で包んで背負い、朝早くに出発して4、5時間歩いて、新宮(しんぐう)村(現四国中央市新宮町)の方まで行っていました。一度行くと2、3日はお客さんの所に泊めてもらいながら、商売していました。きものなどの染めもしていましたから汚れたら大変です。交通手段が徒歩から自転車に代わっても、ぼてに入れて風呂敷に包むスタイルは変わりませんでした。やがてスクーターになり、戦後に自動車が普及するとそのスタイルはしなくなりました。担ぎ方は、大風呂敷ですから背中に背負い、両肩に掛けて運んでいました。風呂敷は、もともと物を包む物、運搬のための物ですが、結納などの道具としても使います。その場合は、松竹梅などのめでたい模様が染められています。」と話す。
 **さんは、「風呂敷は、用が済むと小さくなるのが魅力だし、風呂敷を持っていない家はほとんど無いと思います。しかし、使うかというとほとんど使わない。昔は、クチナシで黄色く染めた風呂敷をタンスの中に入れておけば虫除けになると言われていました。その名残で、化学染料になった今も衣装包みは黄色く染めてあります。」と話す。
 松前町中川原の**さんが、風呂敷を袋物に変えることを教えていたころ、つまり昭和50年(1975年)ころが、日常生活の中から風呂敷が消えていく時期に当たるとされる。しかし、一方で昭和63年(1988年)の横浜シルク博物館主催、日本風呂敷連合会協力による風呂敷アンケートの結果では、家庭内の風呂敷所有数で11枚以上所有している家庭が約41%とされ、1枚も持っていない家庭はわずか1%しかない(⑥)。現在(平成16年)でも多くの家庭で所有されていると考えられる。これは、風呂敷が適当な贈答品として使われていた(写真2-3-33参照)ことにもよるであろう。

 【愛光学園の通学風呂敷】
 愛光学園の高等学校では、かつて風呂敷を通学の道具として使っていた。同校出身で、共に11期生の**さん(昭和25年生まれ)と**さん(昭和25年生まれ)に風呂敷の話を聞いた。
 **さんは、「創立は、昭和28年(1953年)です。私は11期生ですが、3期生のころはみんな風呂敷で登校しています。私たちのころは、肩掛け鞄(かばん)で登校する生徒と風呂敷(ふろしき)で登校する生徒が混じっていました。風呂敷は黒色で、帽章(校章はユリの花である。)と同じ星の図案が一隅(ひとすみ)に白抜きにされていました。風呂敷登校していた理由は、質素を校風とする精神からだと聞いています。現在の通学用道具は自由になっています。」と話す。
 同じく11期の**さんは、「私は、高校からの入学で、仲間はみな風呂敷通学でした。風呂敷は、分厚いゴワゴワの感じがする木綿で、丈夫な大きなもの(一辺が92cm)でした。包むときには、帽章が上に来るように包み、残った両端で縛ります。だから、帽章が見える形になっていました。風呂敷の良い点は、使い方が簡単なことです。真ん中に品物を置いてくるんで縛るだけですし、それに形の変わったもの、例えばかなり大きな箱でも運べます。欠点は、長く運ぶとき荷崩れしそうになることがありました。休日で郷里に帰るとき、風呂敷で帰るのは何となく気が引けて、できるだけ夜に帰っていました。当時、風呂敷を使うのはめずらしくなかったと思いますが、若い者には少なかったと思います。」と話す。

写真2-3-33 記念品として贈られた風呂敷

写真2-3-33 記念品として贈られた風呂敷

西条市個人蔵。平成16年7月撮影