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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(3)足袋と地下足袋

 足袋(たび)類は保温や装いを整えるために用いるもので親指とその他の指の間に指またがある。使用法は地下足袋(じかたび)が直接地上を歩くのに対して、足袋は草履や下駄など外の履き物と併用して保温や整容を目的とするもので、そのために指またがついたと考えられる。室町時代には、革足袋(かわたび)が一般的であったようであるが、木綿の足袋を履き始めたのは江戸時代である。引き続き久万高原町西明神の**さん、**さん、西条市丹原町で履物店を経営する**さんに聞いた。
 **さんは、「男物の足袋には、黒、白、紺くらいの色がありました。女物はえんじ色やうぐいす色やさまざまな色物がありましたが、えんじ色を履いている人が多かったです。昔の男の方は、結婚式など正式な場所でも黒足袋を履いていましたが、息子の結婚式のころには、男女を問わず白足袋になっていました。神主さんとか、お坊さんは昔から白足袋ですね。男の人は、紺色の足袋で丈夫なのを選んで、先述したように、冬にはわらずがけで山に行っていました。普通は冬だけ履くものでしたが、儀式などには夏足袋といって、薄い生地で、裏は晒しを使った足袋がありました。
 戦時中や戦後すぐのころは、物資のない時期で布も配給でしたから、足袋も自分で作っていました。足の甲の部分が2枚、底の部分が1枚の型紙を作って、布地を裁った後、まず甲の2枚を縫い合わせ、最後に底を縫いつけていました。こはぜは普通4枚つけていました。」と言う。
 **さんによると、足袋の材質は男物はキャラコ(薄く光沢のある平織りの綿布)やコール天、女物は繻子(しゅす)(すべりがよく光沢のある布地。材質には絹や綿、化繊のものがある。)と雲斎(うんさい)(雲斎織のことで、地を粗く織った厚地の綿布。よく足袋底に使う。)が普通と言う。
 地下足袋に類するものとして、古くから地上歩行用に底を刺して厚くした足袋は考案されていたらしく、鷹匠(たかじょう)がよく用いたことから鷹匠足袋と呼ばれたという(②)。明治末には、足袋底にゴムを使用しはじめ、さらに大正期には剥(は)げやすかったゴム底の改良が行われ、大正12年(1923年)の関東大震災後の復旧工事に活躍した。愛媛でも戦前から地下足袋の使用が始まるものの、本格化するのは戦後のようである。
 **さんは、「地下足袋の種類は、こはぜの枚数と足の大きさ、それに底ゴムの質で区別されます。こはぜは多いほど脚(あし)を包む部分が長くなり、用途に応じて3・5・7・10・12・15枚がありました。底のゴムが薄すぎると山などへ行って石を踏むと痛いですから農業関係の人は、普通の底の地下足袋で波形に刻みが入ります。とび職のように高いところの仕事の人は、足の感覚が大切ですからゴムは薄く滑らない飴(あめ)ゴムで、どの方向にも対応できるよう縦横に刻みが入り、碁盤目状になります(写真2-3-22参照)。こはぜは12枚が多いですね。お客さんの注文も『地下足袋もらお。25cmの12枚。』という調子です。」と話す。

写真2-3-22 とび職と農業用の地下足袋

写真2-3-22 とび職と農業用の地下足袋

とび職用(底が基盤目状)と農業用(底が波状)。西条市丹原町。平成16年12月撮影