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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(3)死をいたむ

 ア 葬送の儀礼

 人が亡くなると北枕(きたまくら)にして座敷に寝かせ、新しい布団を打ち掛けて魔除けの刃物などを置くところから葬送の儀礼が始まる。やがて親戚や近隣の人々がお悔やみに訪ねて来て通夜(つや)となるが、同時に手伝いの近所の人々は葬礼の準備に着手する。男性は棺桶(かんおけ)作りや墓穴掘りなどを行い、女性は死装束を縫ったり、手伝いの人々の食事を用意するなど役割を分担した。
 葬式の当日は、まず死者の身体を拭(ふ)いて清める湯灌(ゆかん)を行い、着替えをすませてから入棺した。湯灌は近親者が縄襷(なわだすき)をして行う場合が多いが、宇和島市の九島(くしま)ではきものを左前にし3尺(約91cm)の縄帯を締めて行ったという。
 湯灌後の死者の着替えは白装束が多く、これを縫う際には、新居浜市では身近な女性が集まって通夜の夜に一部分ずつ縫うが、布を裁つのに鋏(はさみ)を使わず手で引き裂き、縫糸には結玉を作らなかったといい、今治市宮窪町宮窪地区浜(はま)では嫁や娘など必ず3人で縫う決まりがあったという。また入棺にあたっては、四国中央市富郷(とみさと)町では男性は紋付を着せ、女性は晴れ着を着せてから白装束を着せた。南・北宇和郡では棺桶の上に紋付のきものなどを打掛け、これをカンオオイ(棺覆)と呼んだ。
 自宅での告別式が終わると、棺桶にシキミの葉などを入れて最期の別れを告げ、石で棺に釘を打って出棺する。四国中央市富郷町では棺桶をさらし木綿で巻き、これをゼンノツナと呼んで近親者がその布端をつかんで墓地まで歩いた。今治市吉海町椋名(むくな)地区のゼンノツナは2反続き(約22m)のさらし木綿で、それを女性たちが持って棺桶の前を歩いた。野辺(のべ)送りの葬列のうち、棺桶担ぎや位牌持ちは死者と同じ三角布を額につけ草鞋を履いた。この草鞋は、鼻緒を切ってから墓地に捨てて帰った。
 墓地で死者を埋葬し、お経を唱えて葬礼は一応終わるが、そのあとも精進(しょうじん)落しなど何らかの儀礼が行われた地域が多い。双海町串(くし)地区法師(ほうし)では葬式の翌日をトヤゲと呼んで、この日に近親者が死者の衣類を河原で洗濯した。また東温(とうおん)市の旧重信(しげのぶ)町域では、葬儀のあとから四十九日まで家の裏側の軒下に死者の着物を1枚北向きに陰干しすることになっていた。
 死者の供養として、一般的には初七日(しょなのか)、三十五日、四十九日に法事がある。そして、四十九日の法事が忌(き)明けと考えられ、この日に死者が生前使っていた衣類や持ち物のカタミワケ(形見分け)を行った(①)。

 イ 死者を送る

 久万高原町相(あい)の峰(みね)地区に住む**さん(大正14年生まれ)に、昭和20~30年代の葬送儀礼について聞いた。相の峰地区は、標高750mを超す傾斜地に小さな集落と棚田・茶畑の広がる山間地である。
 「だれか亡くなると、その日の晩にお通夜をします。その人が生前使っていた上等のきものに着替えさせ、北を枕に寝かせて布団をかけ、胸の上にハサミや包丁など刃物を魔除けとして置きます。かたわらに死者の口をぬらす水と線香、1合のご飯を山盛りに盛って箸(はし)を立てた『枕の飯』を供えます。お通夜には早く駆けつけることが大切とされていますから、この時に集まる親戚や近所の人たちはごく普通の服装でした。
 翌日は葬式で、亡くなった人を棺桶に入れる前に湯灌をしました。死者のきものを脱がせ、身体を折り曲げて敷物を敷いた床に座らせます。お湯をわかしてタライに入れ、手ぬぐいを絞って死者の身体をきれいにふきました。湯灌を行うのは死者と血縁の濃い人で、たいていは息子や兄弟でした。
 この地域では、湯灌の後に死者に着せるのは白装束ではなく、死者が生前一番気に入っていた着物でした。頭に三角形の布をつけ、白足袋はわざと右左反対に履かせます。さんや袋(頭陀袋(ずだぶくろ))を首から下げ、その中に米・麦・トウキビ・アワ・ヒエの5種類の穀物を入れて入棺しました。
 葬式は地区の人たちが総出で手伝い、棺桶も地区の人たちが作りました。棺桶の板はどこの家でも普段から準備していて、それを組み立てるのです。縦長の四角形をした座棺(ざかん)で、お神輿のように棺桶の下に2本の棒をすえて担ぎました。担ぎ手は左右にそれぞれ3人ずつで、亡くなったのが老人の場合は、その孫たちが担いでいたと思います。
 棺桶を担いで家の庭で3回まわり、それから墓地に向かいました。棺桶の担ぎ手は真新しい草鞋を左右反対に履きます。この草鞋も地区の人たちが作りますが、通常とはわらを反対方向に編んで作ることになっていました。履いた草鞋は、墓地にそのまま置いて帰って来ます。
 墓地に向かう葬列は、家族・親戚だけでなく地区の男性も加わってかなりの人数となります。行列の先頭の人は幡(はた)を持ち、その次に棺桶を担ぐ人、位牌を持つ人などと順番が決まっていました。葬列の人たちの服装は、きものの場合は黒い羽織を身につけ、洋服の場合は暗い色あいの地味なものを着ていました。どちらにしろ、見た目に黒っぽくみえる格好をしていたと思います。
 墓地では手伝いの人たちがすでに穴を掘っているので、その中に棺桶を降ろし土をかぶせて読経(どきょう)しました。そして、正式の墓石ができるまでの仮の墓標として埋葬場所に石を置きました。
 手伝いの人たちは、葬式のことはすべて男の人がして、女の人は“所帯”(主に食事の用意をさす。)を行いました。葬式に限らず地区の行事があるときには、女性はきものの上に割烹着をつけ、当時集会所となっていたお堂に集合して食事の用意などを行いました。」

 ウ 埋葬と喪服

 四国中央市金砂町小川山中之川地区での昭和10~30年代の葬送儀礼について、前述の**さんに語ってもらった。
 **さんに、入棺から埋葬までについて聞いた。
 「入棺する際、亡くなった人に白装束を着せ、頭に三角形の白布をつけ白足袋を左右反対に履かせます。家によっては、生前、遍路をした際に札所の朱印を押した笈摺(おいずる)(巡礼が白衣の上に着る袖なしのきもの)を白装束の上から着せました。そして、さんや袋を肩から掛け、三途(さんず)の川を渡る際の弁当として故人が好きだった食べ物を入れます。棺桶には六文銭も入れました。正式には寛永通宝(江戸時代の代表的な一文銭)6枚を入れるのでしょうが、私の知る限りでは、一人を除いてあとは紙に印刷した六文銭でした。
 入棺がすむと、棺桶に縄をかけ竹棒を通して二人で担ぎました。担ぎ手はだいたい、故人の孫や甥(おい)など近親者の若い人でした。墓地に着いて棺桶を土中に埋葬すると、その上に小さな小屋堂を置きます。これはミニチュアの家で、きちんとした家の形をしたものもあれば、屋根だけを1本の棒で支えるようにした簡単なものもありました。仏さんをぬらしてはいけない、太陽にさらしてはいけないとの配慮でしょう。墓石ができるまでこの状態で置いておきました。」
 また、喪服について**さんは次のように語る。
 「戦前までの葬式はきものですが、特に喪服と呼ぶものはなかったと思います。お慶(よろこ)び用とお悔やみ用の使い分けは、柄(がら)のある派手なものと柄のない地味な色合いのものとの違いでした。真っ黒いきものを持っていたことはありませんし、それを着た人を見た記憶もありません。
 黒い洋服の喪服は、戦後かなりたってからではないでしょうか。葬式用の洋服としては、よそいきで、かつ色柄のおとなしいものを着ていました。今のように黒一色ではなかったと思います。」