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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(2)結婚を祝う

 ア 婚姻の儀礼

 婚姻の儀礼は婚約から始まる。お互いの縁談がまとまると、仲人が米・酒などを嫁方に届け、酒を酌み交わし歓談して婚約が成立した。その後あまり間をおかず、仲人は婿を連れて嫁方に結納を持参する。結納は金銭のほか米・酒・タイなどさまざまだが、その中に帯・下駄・足袋などの衣類を含む地域もあった。
 結婚式の当日には、まず婿入りがある。これは婿方から嫁を迎えに行く儀礼だが、婿本人は行かない地域、食事をしたのちに婿方全員が先に引きあげてしまう地域など、地域ごとに違いがある。婿入りに続いて嫁入りがあり、式場となる婿の家に夕刻に着くように見計らって花嫁行列が出立する。
 あたりが暗くなるころに花嫁一行が到着して結婚式が始まる。式は、三々九度や新たに親戚になる者同士の固めの盃(さかずき)など、盃事(さかずきごと)が中心である。続いて祝宴に移るが、今日の披露宴とは違って、一夜では終わらず2、3日にわたって開かれる地域も多かった。今治市馬島(うましま)地区では、もてなす対象が初日は嫁方中心、2日目は親戚中心、3日目はウチアゲと呼んで手伝いの人たち中心の3日間の祝宴を催した。
 結婚式の翌日や翌々日、嫁は近所へのあいさつまわりと実家への里帰りを行った。特にあいさつまわりの儀礼は、結婚の事実を社会的に認知してもらうための大切な行為であった(①)。

 イ 宇和盆地の婚姻

 宇和盆地一帯での昭和10~30年代の婚姻について、前述の**さん、**さん、**さんに聞いた。
 「婚約したら、次は結納です。婿になる男性と仲人さんが嫁になる女性の家に出向き、口上(こうじょう)を述べて結納金を渡した後、お膳とお酒を前に歓談します。この時は双方ともよそいき程度の服装で、特別な格好はしません。結納金をもらったお嫁さんの家では、結納返しとしてお婿さんに流しのきものと羽織を贈りました。
 戦前には、婿方から結納として反物を贈り、嫁方ではこれを婚礼衣装の帯などに仕立てていたこともありましたが、反物を贈る風習は戦時中になくなりました。贈られる反物は高級品で、反物から作られる帯は、裏にも同じ模様の縫い取りのある豪華な丸帯(まるおび)(一枚の帯地を折り返して表裏を縫い合わせた、幅の広い帯)だったそうです。
 結納がすんで結婚式が近づくと、お嫁さんは髪に“くせ”をつけるため式の4、5日前から髪結いさんに島田髷(しまだまげ)に結ってもらいました。また嫁入り道具は、式よりも前に婿方の家に届けました。当時、洋服だんすはあまりなく、和だんすと布団を入れた長持(ながもち)(衣服や調度品などを入れて運搬したり保存したりするための、ふたのついた長方形の大きな箱)が中心で、あとは下駄箱や鏡台などでした。衣類は、和だんすの中が一杯に見える程度にそろえました。かつては、新婚家庭を訪問するお客さんに、『どうか、たんすの中を見てください。』と衣類を見せる習慣があったのです。」
 宇和盆地から宇和川沿いに東にはいった山間部、西予市野村(のむら)町大西(おおにし)地区に実家のあった**さんは、嫁入り道具を準備した自らの体験を次のように語る。
 「私が結婚したのは昭和22年(1947年)で、嫁入り道具を買おうにもほとんど売っていませんでした。家具屋さんに行ってもたんすが全くなく、やっと下駄箱だけ見つけることができました。鏡台は八幡浜まで探しに行ってもらってようやく買えましたが、鏡面がうねるように波打っていて顔がゆがんで映る鏡台でした。
 実家にキリの木があり、うちの父がそれを切り倒して、大工さんに頼んでたんすを二棹(ふたさお)作ってもらいました。そんなことで嫁入り道具の準備に苦労し、たんすは結婚式のかなり後になって、ようやく嫁ぎ先に運び入れることができました。」
 続いて3人に、当時の結婚式について聞いた。
 「式の当日を迎えると、まず、お婿さんの方からお嫁さんを迎えに出向きます。迎えの一行は、お婿さん本人と仲人さん、それにおじ・おばなど身内の人たちですが両親は加わりません。嫁方の家では食事を出して一行を歓迎した後、今度はお嫁さんたちがお婿さんの家に向かいます。婿方から5人迎えに来たら、嫁方はお嫁さんの両親を含めてその倍の10人で行くことになっていました。家を出る際、お嫁さんは玄関からではなく、座敷から踏み台などを使って直接外へ出ました。嫁ぐときや死んだときは玄関から出ないことになっていて、これは家を出たらもう帰って来ない覚悟の意味があったのでしょう。
 新郎新婦とも、すでに結婚式の衣裳に身を包んでいます。お婿さんは紋付羽織に袴姿で、袴は縞の入った薄い茶色が多かったように思います。お嫁さんは角隠しに黒留袖のきもので、きものの裾に模様が入っていました。打掛け(正式には打掛小袖(うちかけこそで)といい、帯を締めたきものの上に打掛ける裾長のきもの)はありません。二人とも足元は草履ばきでした。
 式場となるお婿さんの家が近ければ歩いて行きますが、花嫁行列と呼ぶほどの大行列ではなかったと思います。式場までやや距離があれば、本人たちは人力車や自動車で行くこともありました。ただ山道だと、いくら距離があっても歩かなければなりません。冬の寒い時期、式に向かう途中の山道で雪が降ってぬかるんできたため、皆しかたなく長靴に履き替えて歩いたこともありました。
 結婚式は夕方暗くなってから始めますから、その時刻に合わせてお婿さんの家に着くようにします。到着すると、お嫁さんは同行して来た着付け役や髪結いさんに身づくろいを直してもらって、いよいよ式が始まります。
 結婚式自体は簡単なものです。家の座敷に金屏風(きんびょうぶ)を立てて、まずそこで三々九度の盃(さかずき)を交わします。お酒の注ぎ役は男女二人の子どもが務め、これをオンチョ、メンチョと呼びました。三々九度が終わったら親族紹介で、仲人さんが座敷に並ぶお互いの親族を紹介します。新郎側、新婦側の順番で紹介して式は終わり、続いて宴会に移ります。今でいう披露宴ですが、当時はそういう言葉はありませんでした。
 宴会の途中、お嫁さんは角隠し(新婦が頭髪の上にかぶる飾りの布)をとってきものを着替え、『よろしくお願いします。』と主に婿方の親戚たちにお酒を注いでまわりました。お色直しというより動きやすい衣装への着替えです。宴会は夜中まで延々と続くこともあり、あまりに長いとさすがに新郎新婦は疲れて中座しました。」
 次に、結婚式後について聞いた。
 「結婚式が終わると、お嫁さんは一度実家に帰ります。結婚したことを示すため、髪を丸髷(まるまげ)に結い替えています。式の翌日に帰るのをフタツメ、その次の日に帰るのをミツメといいます。昔はミツメでしたが、式の翌日にお客さんが次々とやって来て大変なので、昭和30年代中ころを境にフタツメになりました。里帰りでは、新婚夫婦と夫の両親がお嫁さんの両親にあいさつし、食事をもらって帰って来ました。
 里から戻ったお嫁さんは、その日のうちに姑(しゅうとめ)さんに連れられて近所へあいさつ回りに行きます。嫁いだ家に持参した衣装の中で一番よいきものを着ますが、だいたいはお召しでした。
 結婚後の風習としては、結婚していることを示すため歯を黒く染める『おはぐろ』がありました。幕末や明治の初めに生まれた女性がしているのを見たことがありますが、その人たちが亡くなった昭和10年代あたりで途絶えたと思います。それと、子どもが生まれたらその母親は眉を落とす風習があったと聞いたことがあります。」

 ウ 海辺の村の結婚式

 今治市宮窪町宮窪地区での結婚式について、前述の**さんに聞いた。
 「近所の知り合いの女性たちに、昭和20~30年代の結婚式について聞きあわせてみました。
 まず花嫁さんの髪については、昭和23年(1948年)の結婚式では自分の髪で島田髷を結ったそうです。昭和25年までの人たちは、式のときに鬘(かつら)をつけずに自分の髪で結いました。
 嫁入りは、実家が近所であればお婿さんの家まで歩きましたが、伯方(はかた)島の木浦(きのうら)から宮窪に嫁いだ人は花嫁衣裳を着て、同行者や嫁入り道具とともに船を1隻借り切って渡って来ました。それではどうしても着崩れしますから、上陸してもすぐに婚家には行かず、婿方が手配した家で休憩し、着づくろいしてから婚家に向かいました。
 昭和25年の結婚式では、花嫁は衣装を着たまま、戸代(とだい)から宮窪まで櫓(ろ)を押す手漕船(てこぎぶね)でやって来ました。戸代は宮窪のすぐ東にありますが、半島部で当時は道がよくなかったので船の方が便利だったのでしょう。ただ式の翌日には、歩いて里帰りをしました。
 昭和37年(1962年)に松山から嫁いで来た人は、式の前日に今治まで汽車で来て、小型の渡海船で大島に渡りました。そして花婿の家の離れに宿泊し、当日にそこで着替えをして式に臨みました。このときの結婚式では、大島で初めてカラー写真による記念撮影が行われたそうです。
 次に花嫁衣装ですが、昭和23年の結婚式では衣装のすべてが自前でしたが、翌24年の式では髪結いさんが花嫁衣装を持って来て貸してくれたといいます。昭和28年(1953年)に結婚式をあげた人の場合は、婦人会が衣装を準備して貸してくれました。このときは、式を留袖、お色直しを振袖で行いましたが、それらの衣装はもちろん、出席者用のものまで婦人会が貸してくれたそうです。
 結婚式場は、昭和30年代まではもっぱらお婿さんの家でした。式は今治で挙げたかったけれど、長男の嫁は長男の家でするのが常識だと言われてここで式を挙げた人もいます。昭和40年(1965年)ころから自宅以外の式場が増えていきましたが、式場が大きくなるにつれて振袖や洋装でお色直しをする傾向が強くなったように思います。」