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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(1)裂織りに込められた思い

 西宇和郡伊方(いかた)町湊浦(みなとうら)地区で伊方カスリ工場を経営し、裂織りに励んでいる**さん(大正14年生まれ)、西宇和郡瀬戸(せと)町大久(おおく)地区の**さん(昭和8年生まれ)、**さん(昭和12年生まれ)に、かつての暮らしや裂織りの仕事着、普段着などについて聞いた。
 湊浦地区は、佐田岬半島の基部(きぶ)に位置し、宇和海に面した町の中心集落である。
 **さんは、「伊方町の農家の8人兄弟姉妹の三男として生まれました。両親は、水田がないため遠くの山を開墾した4、5反(40、50a)の山畑に、麦やサツマイモを栽培していました。5、6年生になって学校から帰ると、母親から毎日のように消し炭で書いた置手紙がありました。それには、『山の畑に下肥(しもごえ)(人の糞尿(ふんにょう)を肥料としたもの)と肥料を持って来なさい。』と書かれていることもありました。そこで40kgほどの荷物を“負いこ”(物を背負って運ぶ道具)で背負って坂道を登り、帰りには収穫した麦やサツマイモを背負って帰りました。
 背負う際には重くて体にこたえるので、母が織ってくれた袖のない裂織りの“ツヅレ”を着ました。他の地域では、袖のある新しいものは祭りなどのよそいきとして着用したり、布団の間に入れると温かいため長く織って夜着などにもしていたと聞いています。しかし、子どものころからの嫌な苦しい思い出があるため、人々は裂織りのことを話さないし、裂織りの仕事着を持っていても人前には出しませんでした。
 昭和15年(1940年)に伊方尋常高等小学校を卒業し、翌年から徴用工として西宮市の軍需工場で働きました。昭和20年終戦と同時に郷里に帰り、兄がまだ復員していないために再び農業を始めました。その後2度ほど神戸や大阪で就職しましたが、昭和28年(1953年)に伊方に戻り結婚しました。
 ちょうどそのころ、知人から、『手機(てばた)を借りて伊予絣を織る仕事の話があるが、やってもらえないだろうか。』と相談があり、引き受けて昭和29年から伊予絣の玉柄やあられ柄を織り始めました。昭和38年(1963年)に工場を建設しましたが、同40年ころになると人造繊維に押されて需要が減り、廃業するところが多くなったため、松山の業者から機械を買い取り、同41年から京都西陣のウール絣や絹絣を織り始めました。機械は松山市の宮内織機製作所製の宮内式足踏機械(手織り)です。昭和46、7年ころには常時50人ほどの織子さんを雇って月に1,300反ほど手織りで織りましたが、昭和52、3年になるときものが売れなくなりました。
 すると、京都から『裂織りは出来ないだろうか。』と言う連絡があり、母が以前に織っていたのを見ていたため、『できますよ。』と返事をして、ベストを織って送ったところ、それがヒットし、以後裂織りを始めました。裂織りは経糸(たていと)に木綿糸などの強い糸を用い、緯糸(よこいと)に裂いた布を使用します。京都のお坊さんやご隠居さんが作務衣(さむえ)の上に着るベストを織りましたが、いくら織っても間に合わないほど注文がありました。
 昭和末期になると織子さんたちも高齢になって次々と退職していったため、その後は家族3人で裂織りを続けました。
 最近はマフラーや暖簾(のれん)、バックなどを1日に10枚程度作っています。78歳の現在も朝6時から夕方の6時半ころまで織物や野良仕事にいそしんでいます。また、夕食が終わってからも午後9時ころまで翌日の仕事の準備のため1cm程度の幅に布を裂き、丸く巻いておく作業を行っています。私は鍵谷カナさんが考案した伊予絣と母親に大変恩恵を受けました。今後も出来る限り裂織りを続けていき、社会に恩返しをしたいと思います。」と語る。
 また、**さんと**さんは、「瀬戸町は伊方町と比べて土地が広く、1町(1ha)以上耕作して70俵以上の麦を収穫している農家が多くありました。昭和27、8年ころの農作業の仕事着は、裂織りの上着にエプロンを着け、絣や縞のもんぺを着用し、つづれ(裂織り)の帯を締めました。しかし、昭和37、8年ころになると市販の安い服を買って仕事着にしました。また、近所の奥さんたちと集団で遠くの山にウシの草を刈りに行きましたが、負いこを背負うために必ず裂織りの“ニズリ”(袖のない裂織りの上着)を着ました。」と話す。