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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(2)使い切る知恵と技①

 ア きものの洗い張りと手入れ

 太平洋戦争前ころまでは、家庭ではまだきものを着ていることが多かった。家の中では女性はほとんどきものだったし、父親も勤めから帰ってくると、きものに着替えてくつろいだ。子どもは昼間は洋服であったが、夜はネルや木綿の寝間着に着替え、風邪のときには袷のきものに綿入れのちゃんちゃんこ姿となることもあった。
 きものは縫い直しがつきもので、春になると汚れたり、傷んだものを解(ほど)き、初夏になると洗うが、木綿ものや銘仙、普段着にするような絹ものは家で洗い、絹の上等なものや縮むものは洗張屋に出した。土用(どよう)になり陽が強くなると、小麦粉や布海苔(ふのり)(*4)などを煮て作った糊を使って、木綿ものは板張に、絹ものは伸子張(しんしばり)にする。
 板張は、立てかけた張板に張っていき、乾くとはがしてまた張る。伸子張は解いた布を端縫い(布のほつれを防ぐため、端のほうを細く折って縫うこと)した後、両端を枠に挟んで柱や立ち木などに縛って張り渡す。布の両耳に針を刺していくと伸子の重みで布の下側に竹ひごが円弧状にずらりと並ぶ。最後に糊を刷毛(はけ)で手早く塗っていく。
 きものの手入れについて、村瀬敬子氏は『日本人の暮らし』の中で、「着物の洗濯は手間がかかり、何年かに一度であったため、毎日の手入れが重視された。着用後はほこりを払い、必ず汚れの手入れをした。襟垢(えりあか)は揮発油でふき、汚れには染抜(しみぬ)きを行った。染抜きは、布の素材や染みの種類によって手順が異なり、主婦の心得として家庭で伝授された。また、季節の変わり目には害虫やかびを防ぐための、虫干しや寒干しも行われた。(⑦)」と記している。

 (ア) 洗い張りの技

 西条市高田(たかた)地区で洋裁を続けている**さん(大正15年生まれ)に、きものや布団布の洗い張りについて聞いた。
 高田地区は、周桑(しゅうそう)平野の北東部、大明神(だいみょうじん)川下流右岸に位置し、古くから穀倉地帯として知られている。
 **さんは、「私は、壬生川(にゅうがわ)町(現西条市)の農家に生まれました。父母は米と麦を専門に栽培していました。きものや布団などの洗い張りや縫い直しは、母が以前からやっていましたのでよく手伝いました。6、7月までは農作業が忙しいので、8、9月の農閑期にきものや布団を解き、農家で庭が広いため、板張や伸子張を行いました。
 板張はたらいに糊を入れて浸け、張板に上から張っていきました。伸子張は布を引っ張って左右の同じところに伸子の針を刺し、表を下にして裏に刷毛で糊をつけました。糊は小麦粉に水を加えて炊いて作りました。銘仙や普段着のきものは何年かに一度行いましたが、上等の絹物のきものは専門店に出しました。
 なにしろ物のないころで、布団の白いカバーがないために汚れやすく、毎年洗って縫い直しました。布団の表裏の布も乏しいため、傷んだところを繕いながら苦労して作りました。」と話す。
 次に今治市朝倉(あさくら)南地区に居住する**さん(大正4年生まれ)に戦前の衣類やきものの洗い張りなどについて聞いた。
 朝倉南地区は三方が山に囲まれ、中央を流れる頓田(とんだ)川沿いに集落が散在している。農業が盛んで、昔から“朝倉米”といわれる上質米を産した。
 **さんは、「私は大正4年(1915年)に今治市高橋(たかはし)地区の農家に生まれました。子どものころ、母は綿糸を買って、絣のきもの地を織っていました。養蚕もしていましたので、製品にならないくず繭を使って白絹を織り、今治の京染め屋に出して染めた後、きものを仕立てていました。昭和8年に19歳で朝倉村に嫁ぎましたが、夫は勤めに出ているため、女手ひとつで6反(60a)の田に米・麦を作りました。   
 田圃着(たんぼぎ)は木綿の丈の短いきものでした。しかし、稲刈り後の株切りや麦まきなどでは、寒いために長い足首くらいまであるきものを着て、たいこ帯を締め、その上に割烹着を着けました。白い割烹着は必要なので、たくさん持っていました。
 きものの洗い張りや仕立て直しは、3年ごとくらいに行いましたが、布団は毎年洗いました。この洗い張りは女の夏の大仕事でした。冬に着たきものやでんち、半纏を春になると解き、田植えが終わった後の農閑期に洗いました。
 土用の暑い日になると、木綿や絣の布、袷の裏地などは板張にしました。糊付けした身ごろや袖・襟・衽(おくみ)(和服の前幅を広くするために、前身ごろの襟からすそにかけて縫い付ける半幅の細長い布)を張板に1枚ずつ下から張って、刷毛で布の皺(しわ)を伸ばして干しました。また、大きい布団布などは、しっかりと糊を付けて、ゴザに張ると糊が効いてぱりぱりに乾きました。友禅や銘仙などの絹物は、身ごろ・襟・袖・衽を1枚の反物につなぎ合わせ、丁寧に押し洗いした後、伸子張にしました。この伸子張は手間がかかり大変でした。これらの夏の仕事が終わるとほっとして、肩の荷が下りたような気がしました。
 洗い張りに使用する糊は、木綿類は米粉、布団布は小麦粉、友禅や銘仙は布海苔(ふのり)を使いました。仕立て直しや縫い物は、秋から冬にかけての農閑期の夜なべに行いました。」と話す。

 (イ)きものの手入れ

 続いて、**さんに、土用干しやきものの手入れについても聞いた。
 「絹織物や毛織物の衣類は、梅雨が明けると必ず土用干しを行いました。晴れた日に部屋いっぱいに紐を張って、タンスや行李(こうり)にしまっていたきものなどを広げて干し、カビやノジ(衣類などにつく虫)の予防のために風を通しました。
 日ごろのきものの手入れは、着た後すぐに風通しの良い部屋に陰干しました。汚れは、下敷き布の上に汚れた部分を当て、裏からぬれた布でたたいて、汚れが広がらないように気をつけて取りました。ウールのきものの襟や袖口などの汚れは、蒸しタオルでふいたり、ベンジンを使用しました。上等のきものの泥汚れなどは、乾いたビロードやネルの布でふき取り、難しい汚れやしみはしみ抜き専門店に出しました。」

 イ 衣料の再生・再利用

 近年、資源や環境に対する意識が一段と高まり、これまでの“使い捨て時代”は終わろうとしている。物の乏しい時代には、『もったいない』を口癖にしながら、すべての物を節約して大切に扱ったものである。衣料も例外ではなかった。また、使い古したものほどなじんで愛着も生まれ、最後まで使い切る工夫がなされていた。

 (ア)きもののリフォーム

 西予市宇和町卯之町(うのまち)で洋裁学校を経営している**さん(大正12年生まれ)に、子どものころの衣服や衣料の再生・再利用などについて聞いた。
 「私は大正12年(1923年)に明浜(あけはま)町高山(たかやま)(現西予市)で生まれました。母の里が石灰の製造をしていた関係で、父は大阪で石灰の問屋をしていました。小学校1年生のとき、母と姉妹とともに父のところに引っ越しました。
 大阪での生活では、母が器用だったので浴衣を解(ほど)いた布などを使って、私たち姉妹のために簡単なワンピースの洋服を作ってくれました。また、編み物も得意で、濃いエンジや青色のセーター・チョッキ・コートなどを編んでくれました。コートは太い毛糸を使用し、大きいボタンが付いていました。小学校の修学旅行では徹夜で編んだかわいいセーターを着せてくれました。女学校時代は制服で、セーラー服にプリーツスカートを着用し、黒い靴下と黒の革靴を履きました。
 女学校卒業後洋裁学校に進み、ワンピースやスーツ、普段着の簡単服など多くの洋服を自分で作って着用し、きものはあまり着ませんでした。
 昭和18、9年になると衣料の購入も切符制となりほとんど手に入らないため、小さな柄の絣のきものを解いて普段着のブラウスやスカートを作ったり、父のきものでスーツの上下を作りました。また、きものから二部式の上着やもんぺのほかズボン、スカートなども作りました。毛糸のコートを解いてショールにもしました。
 戦争が激しくなったため、昭和19年に両親のふるさとに家族全員で疎開しました。その後、昭和21年に宇和町卯之町に出て洋裁女学院を開き、現在に至っております。」

 (イ)限られた布地を生かして

 前出の西条市高田地区の**さんに、衣料の再生や再利用について聞いた。
 「小学校(壬生川(にゅうがわ)尋常高等小学校)の6年生のときに学校でドレスを縫うことになり、母が紺地の小さい花柄のかわいい布を買ってくれました。襟ぐりと袖口に白い縁取りを付けて縫ったところ先生から大変褒(ほ)められ、うれしくてそれをきっかけに裁縫に興味を持ちました。
 当時の普段着はブラウスとかワンピースで、ときに母が作ってくれる四角い布にゴムを入れただけの簡単なスカートをはきました。毛糸はたくさんあったので、手編みのセーターやカーディガンを作ってもらいました。しかし、派手な色はなく、ほとんど紺色や茶色系統のものでした。毛糸は解いて編みかえるときには湯のしをして使用しました。毛糸のセーターは風を通して寒いので、先生から『背中に新聞を入れると暖かいよ。』と言われたこともありました。
 昭和16、7年ころの中城(ちゅうじょう)家政女学校時代には洋服を作りたい気持ちに駆り立てられ、洋裁を講義録で勉強しました。
 戦時中まではミシンを持っていなかったので手縫いでしたが、洋服を作りたくて母のタンスから洗い張りしたきものの端の方を分けてもらって、夜蚊帳(かや)の中に隠れてスカートなどを作りました。また、自分の浴衣を解いておしゃれなロングドレスを作ったりしました。物がない時代のため母にきつく叱(しか)られたことがたびたびありました。
 終戦後最初に作ったのは、戦時中に灯火管制(夜間敵機の襲来に備え、減光・遮光・消灯をすること)のため使用した暗幕を解いて作った上着とスカートでした。また、アメリカからの払い下げの毛布を染めてオーバーも作りました。男物のインバネスには合物(あいもの)と冬物があり、合物からはスーツを、冬物からはオーバーを作りました。昭和25、6年ころには母のために毛布から和服のコートを作ってあげて喜ばれたこともありました。私はたくさん洋服を作りたかったのですが、何しろ物のない時代で、仕方なく限られた布を使っていろいろ工夫を凝らしました。しかし、これが非常に勉強になりました。」

 (ウ)子ども服を作る楽しみ

 前出の今治市朝倉南地区の**さんに、子ども服などの再生や再利用について聞いた。
 「女の子が4人いたため、かわいい服を着せてやりたくて、いろいろ工夫して着せたことが懐かしく、昨日のことのように思い出されます。
 戦後は布がないため、夫のウールの紺色の羽織を使って子どものジャンパースカートやひだスカートを作ったり、セルや八掛け(きもののすそ裏につける布)でブラウスなども作りました。古くて着られなくなった金紗のきものはでんちや半纏(はんてん)にしましたし、帯でスカートや肩掛けカバン、草履袋を作ったり、ネルが入っていた帯芯(おびしん)から下着も作りました。きものを裂いて下駄の鼻緒にしたり、古い浴衣をおむつにもしました。
 また、男物の衣類は素材がしっかりしているので、国防色(カーキ色、枯れ草色)の上着などは、染料を買って羽釜(はがま)で煮出して染め、子どもの防寒用のボックスを作りました。女の子のはけなくなったスカートを解いて袋物や座布団などにもしました。帯締めからベルトを作り、使えなくなったセーターやマフラー、膝掛けなどもいろいろ活用しました。
 再利用では、姉のお下がりを順々に妹に着せたり、また、色あせたり、摺(す)れたりしたものは解いて、裏返して仕立て直しました。セーターなどは何度も解き、湯のしをして編み直すうちに毛糸が痩(や)せてくる(細くなる)ので、極細の毛糸を合わせて編みました。」

 ウ 補助具の活用

 (ア)ミシンの話

 ミシンは布や皮などを縫い合わせたり、刺繍(ししゅう)をしたりする機械で、“Sewing Machine”の“Machine”がなまったものであるといわれている。日本にミシンが初めて伝来したのは、安政元年(1854年)のことで、ペリー再来航のとき、第13代将軍徳川家定への献上品の中に手回しミシンが含まれていたとされている。国産ミシンの第1号は明治14年(1881年)に東京で開かれた第2回勧業博覧会に左口鉄蔵が出品した環縫いミシンである。その後、明治から国産メーカーが次々に生産を始めたのである。ミシンが一般家庭に普及し始めるのは昭和に入ってからで、敗戦後にわかに需要が高まったのであった(⑧)。
 ミシンについて、前出の**さんは、「私は手回しミシン(写真2-1-18参照)は使ったことがありません。足踏みミシン(写真2-1-19参照)は、昭和17年(1942年)に洋裁学校の先生に紹介してもらって、親に買ってもらいました。大変嬉しかったのを憶えています。また妹が多く、傷めてはいけないので、『ミシンに触らないで』などとよく小言を言いました。足踏みミシンは、手で早さの調節などをしなくても足だけで行うことができ、両手が使えるために非常に便利でした。現在もずっと続けて使っています。卓上ミシン(電動ミシン)も購入しましたが、具合が悪いのでほとんど使いませんでした。」と話す。
 続いて、前出の**さんは、「ミシンは昭和20年終戦後すぐに軍需工場から払い下げがあり、母が買ってくれました。一般家庭に多く入ったのも戦後になってからです。昭和22、3年ころから生地もだんだん手に入るようになって、洋裁学校がたくさん出来たのでミシンの需要が増えました。よくミシンを使って、たくさんの衣服を縫いました。」と話す。
 前出の**さんは、「昭和6、7年ころから足ふみミシンを使っていましたが、戦後になってミシンを購入し、簡単服やもんぺ、子どもの衣服をよく縫いました。木綿やサッカー(*5)生地でブラウスやワンピースを作ったり、今治の“えびすぎれ”でコール天(綿織物。うね状のすじを織り出した暖かく、丈夫な布地)やサージの端切れを買ってきて、ジャンパースカートやズボンなどを作ってはかせました。」と話す。


*4:布海苔 浅海の岩場に付着して繁殖する海藻のフクロフノリを板状に干し固めたもの。これを煮て洗い張りの糊として使
  用する。
*5:サッカー 皴(しわ)を縞状に織り出した織物で、普通素材は綿である。通気性がよい盛夏用の服地。

写真2-1-18 手回しミシン 

写真2-1-18 手回しミシン 

明治末期ころ使用。松山市湊町。平成16年6月撮影

写真2-1-19 足踏みミシン

写真2-1-19 足踏みミシン

西予市宇和町卯之町。平成16年8月撮影